ラムネ瓶の中の世界
放課後、用事があると言って花音と宇野ちゃんと昇降口辺りで別れてから再び教室へ向かう。
さすがに一人で教室にいたら豊丘先生に追い出されてしまいそうなので、一旦昇降口まで行って時間を潰してからこうして戻ることにした。
昇降口へと向かっている生徒がほとんどの中、一人だけ逆方向へと歩いて行っている私は少しばかり異質のように思える。
廊下に反響する足音と話し声。遠くの方からトランペットなのかトロンボーンなのか音楽をあまり詳しくないけれど、吹奏楽部が奏でる音が聴こえてきた。
その音をかき消すように、時折女子生徒たちの甲高い笑い声が耳の奥を劈くように聞こえてくる。
授業から解放された生徒たちの表情は朝とは全く違っている。
ぱちぱちと炭酸のように弾けている笑顔と楽しげな声色。朝は曇天、帰りは晴天。そんな感じに思える。
私の足取りも朝よりか軽く、カバンの重さは変わっていないはずなのに肩にかけていることが窮屈で鬱陶しくは思わなかった。
階段を上るとすぐに私のクラスがある。
何年にも渡って使われてきたアイボリーのドアはなにかに擦れた灰色の傷や汚れが目立っている。そういえば、先週から帰りのホームルームでドアも綺麗に保つために水拭きをしろって豊丘先生が言っていた。
日直がドア吹き係に決まり、ちょうどその日日直だった宇野ちゃんが最悪だって嘆いていたっけ。私もそのうち回ってくるので、その時は寒くない日だといいな。さすがに寒い日の水拭きは辛い。
こうして日常が流れていって、染谷くんがいない内に教室は少しずつ変化していく。————早く、目覚めてほしい。教室に戻ってきてほしい。
銀色の部分に指先を添えて、ゆっくりと左に引くと、静けさを帯びている教室が目前に広がった。
電気が消され、生徒が消えた教室は窓から差し込む光によって明るさを保っている。
ここには誰もいない。けれど、彼は窓際に立っている。私以外には誰にも認識されることなくそこにいる。
なにもかもがすり抜けてしまう身体だというのに以前と変わらぬ様子だった。まるで時が止まったかのようにゆるやかで優しいひととき。彼が私を見てくれているだけで、日常に光が雫としてキラキラと降り注いでくるみたいだ。
「染谷くん」
私が名前を呼べば彼は微笑んでくれる。もっと早くに、彼が事故に遭う前にこうして話しかけていたら私たちの関係はもっと違っていたのだろうか。
知らなかった。染谷くんは思っていたよりもよく笑う。どんなものが好きなのか、どんなものが嫌いなのか私はまだまだ知らないことばかり。
「今日はありがとう」
唐突なお礼の意味を聞かなくても、あのことだと察しがつく。
朝のホームルームで私が立ち上がって叫んだこと。実際あの叫びはきっかけくらいにしかならなくて、効力なんて全くなかった。
「やめてって言ってもらえて嬉しかった。あんまり自分のことで揉められたくなかったからさ」
「私はなんにもできなかったよ。止めてくれたのは宇野ちゃんだし」
「それでも俺は最初に声をあげてくれたのが嬉しかった。ありがとう」
知らなかった。目元を細めて微笑む染谷くんの表情はいつもより少し大人っぽい。やっぱり私、この人のことが好きだなぁ。
柔らかくて繊細で透明感がある声も、艶やかな黒髪も、いつも鉛筆を握っている華奢な指先も、好き。こうして一緒に話せるのは幸せなのに、幸せではない。
ここにいるのは彼の幽霊で、本体ではない。早く身体に戻さないと、彼は眠ったままになってしまう。
「それに作ろうって言ってもらえたのはありがたいけど、揉めてまではいらないや。俺は一羽だけで十分だよ」
「一羽?」
「中村さんが折ってくれていたやつ」
「……気づいてたんだ」
見られていないと思っていたのに。けれど、この様子だとそのあとの会話は聞いていないよね?
染谷くんのことが好きだなんてバレてしまっていたら、せっかく話せるようになった距離がぎこちなくなってしまいそう。
彼が元の身体に戻るまでは本当の気持ちは言えない。今は手伝うことを最優先に考えないといけないのに、気まずくなんてなりたくない。
「ありがとう」
カバンの中に入っている罫線の入った鶴は、帰ったら部屋の窓に飾ろう。透明な彼がいつでも見れるように。そのために、やるべきことを始めないと。
「ねえ、九月の記憶を取り戻すためにさ、染谷くんが放課後によくいた場所に行ってみない? なにか思い出すかも」
「うーん、よくいた場所かぁ」
私の提案に少し考えるように顎に手を添えて首を傾げる染谷くんの仕草が可愛らしくて顔が綻ぶ。
知らなかった。こんな仕草もするんだ。
「校内ならほとんど教室か美術室かな」
その言葉が引っかかり、眉根を寄せる。美術室にほとんどいるのなら、何故彼はあの日非常階段にいたのだろう。
「染谷くんは非常階段で事故に遭ったことも全く覚えていないんだよね?」
「うん。この身体になったときに非常階段のところで自分が倒れていたのを見て驚いたよ。最初はわけがわからなくて困惑したけど、先生たちの話を聞いて非常階段から落ちたって理解したんだ」
それで翌日に私とあの場所で思わぬ形で再会した。聞いた場所に来てみただけであって、彼にとっては全く実感のない場所だったらしい。
忘れたいほど嫌なことが九月にあったのだろうか。
そして、まだ聞けないことがいくつかある。
今の彼に話しても覚えていないだろうし、心当たりがあるかもわからない。
それでも彼が心の裏側になにを隠しているのか、それを曝けだせないと元の身体には戻れないような気がした。
***
埃と絵の具の匂いが混ざった美術室。電気はつけられておらず、カーテンを全開にして外の光がたっぷりと与えられているので十分明るかった。
美術室にはどうやら一人しかいないようだ。
白いキャンパスに色を重ねていっている後ろ姿に思い当たる人物はいない。もしかしたら学年が違うのかもしれない。
私が一歩踏み出した瞬間――――メガネをかけている女子生徒が弾かれるように振り返ったので身構えて一瞬身体が硬直する。
「美術部の方、ですよね?」
「……そうだけど」
上履きの青のラインは三年生を意味しており、年上だということを主張している。
鎖骨あたりまで伸びた黒髪に赤い縁のメガネ。レンズ越しにこちらを見つめている意志の強そうなつり上がった目。
目が合ってから一言も発することのない彼女に軽く会釈して、「染谷くんの絵を見せてもらえませんか」とお願いをしてみた。
すると、目を見開いて驚いたような表情へと崩れたが、すぐに先ほどの表情へと戻ってしまった。
「どうして」
たった一言。けれど、刺々しくて警戒していることがひしひしと伝わってくる。
「実は絵を見せてもらう約束をしていたんです」
「絵を見せてもらう約束? 染谷くんに?」
何故か怪訝そうな顔で私を上から下まで見てくる彼女を隣にいる染谷くんは「三年の板橋先輩だよ」と教えてくれた。
染谷くんの話によると彼女は毎日美術室へ通うほど絵を描くのが好きな生徒らしく、部活動日以外も自らここへ足を運んでいた染谷くんともよく顔を合わせていたらしい。
「……あなた、染谷くんと仲いいの?」
「いい方だと思います」
咄嗟についた嘘にしては自然と返せたと思う。
仲良いということにでもしないと絵を見せてくれるような流れにはならなさそうな気がした。染谷くん、身体に戻るための嘘として許してね。
だって板橋先輩の私を見る目は少し厳しくて、多分私みたいな制服を着崩して少し派手な髪色をしている女子と染谷くんが仲がいいようには思えないのだろう。
「私、染谷くんと同じクラスの中村といいます。染谷くんの絵が好きで、ときどき話をしていたんです」
「……そうなの。彼の絵はこっちには置いていないの。隣の準備室にあるんだけど、見に行く?」
「はい! ありがとうございます」
板橋先輩の後について行くと、黒板の横にあるドアを開いて中へと促される。どうやらここが準備室らしい。
美術室よりも埃っぽい室内は様々な画材が溢れんばかりに棚に収納されている。
あまりに乱雑なので適当に入れられているようにしか見えないけれど、中には銀色の棚に仕舞われているキャンバスもあった。
「染谷くんの絵はこの辺ね」
板橋先輩が指をさした場所からキャンバスを抜き取ると、グラスにたくさんのガラス玉が入れられた絵だった。
ガラス玉の中に映っているのは、青空や茜色の空、曇天の空だ。
指先でなぞったら壊れてしまいそうなくらい繊細に見える絵は目を奪われるほどの透明感のある美しさだった。
やっぱり私、染谷くんの絵が好きだ。
美術部の生徒の作品は時々廊下に張り出されるので、こっそりと染谷くんの絵を見に通ったこともある。
染谷くんはいつも透明なものを描いていて、光の表現や透き通ったガラスを表す色づかいに心を鷲掴みにされていた。
「中村さん。板橋先輩に〝最近描いていた絵〟のことを聞いてみて」
染谷くんは不安げな表情で部屋の中を見渡しているので、重要なことなのかもしれない。
眉間に皺を寄せて早く帰ってほしそうにしている板橋先輩に、染谷くんが最近描いていた絵について聞いてみるとびくりと肩を震わせた。
あまりの過剰反応におかしいと思い、じっと板橋先輩を見つめていると、ぎこちない様子で私に背を向けた。
「……染谷くんからなにか聞いていた?」
「え、なにかって……?」
「その、部活のこととかで悩んでいたり、私のこととかなにか言っていなかった?」
板橋先輩には仲が良いと話してしまった以上はわかりませんとは答えにくい。
染谷くんは部活でなにかがあったのだろうか。もしもあったのだとしたら、この様子だと動揺しているこの人が関わっていた可能性が高い。
「同じクラスなのよね?」
「そう、ですけど……」
「飛び降りた日は教室で話をしたりした? していたのなら、なにを話していたのか教えてほしいの」
声に落ち着きがない。なにかに焦っているような、怯えているような……まるで隠したいことでもあるように見える。
知りたいというよりも、私が〝なにを〟知っているのかを知りたいみたいだ。
「ちょっと待ってください。なにかあったんですか?」
染谷くんは飛び降りなんかじゃないと続けようとした私の言葉を染谷くんが遮った。
「中村さん。こう聞いてみて――――」
その言葉に戸惑ったものの、彼にも考えがあるのだろうから言われた通りの言葉を口にした。
「〝後ろめたいことでもあるんですか〟」
「っ、わ、私は……」
表情はわからないものの身体が震えたのがわかった。
冷えていく心に対して、心臓の鼓動が速くなっていく。
板橋先輩の様子と染谷くんの言葉からは、嫌な予感しかしない。彼が九月を忘れたのは美術室でのことが原因なのだろうか。
「板橋先輩、貴方は染谷くんになにをしたんですか」
振り返った板橋先輩が目に涙をたっぷりと溜めて、声を荒げながら詰め寄ってくる。
「私のせい? 私があんなことをしてしまったから、染谷くんは飛び降りてしまったの!? ねえ、貴方はなにをどこまで知っているの!?」
「あんなことってなんですか。きちんと話してください」
濡れた黒い瞳が、悲しげに揺れた。
目が伏せられた瞬間――――ぽろりと溢れでた雫が彼女のカーディガンに落ちる。
躊躇いがちに俯いたあと、板橋先輩は部屋の隅まで行くと布に覆われたなにかを持ってこちらまで戻ってきた。
「……この絵よ」
布に触れている指先はかすかに震えていて、濡れたまつげの隙間から双眸が向けられて私に捲ってくれと促しているように感じた。
形からしてキャンバスだろうとは思うけれど、開けたら一体どんなことが待ち受けているのかはわからない。
息を飲み、ゆっくりと黒い布に手をかけて捲ってみると、予想どおりキャンバスが姿を現した。
「なんでこんなこと……」
そのキャンバスの保存状態に対して私は言葉を詰まらせる。完成間近とみられる作品は無残にも引き裂かれていたのだ。
「これ、染谷くんの絵なんですよね? なんでこんなことしたんですか」
「ち、ちがうの! これは本当に……荷物を運んでいたら躓いてしまってぶつかってしまったの」
わざとではないと懸命に首を横に振り、罪はないのだと必死に訴えてくる板橋先輩をすぐ近くにいる染谷くんは悲しげに見つめている。
その表情から、彼女と染谷くんの間には別のなにかがある気がしてしまう。
「板橋先輩。他にもなにか隠していることはありませんか」
私の問いに板橋先輩の瞳が大きく揺れて、すぐに鋭く細められる。悔いていた表情なんて嘘みたいに忌々しげに塗り替えられた。
「っ、入賞もできないくせに」
毒を孕んだ黒い言葉が一滴落ちてきた。
「それなのにアイツばっかりいっつも先生に褒められているから……悔しくて、妬ましくて…………大嫌いだった。だからこっそり嫌がらせをしてたの」
偽りのない正直な言葉はなんて残酷で無慈悲で、冷たいのだろう。
透明だった水が一気に黒に染められてしまう。嫉妬が渦巻いたこの環境で染谷くんはどれほど窮屈な思いをしていたのか私には想像がつかない。
全てを知っていたかのように染谷くんは動じなかった。
最初から染谷くんは自分へ向けられる嫉妬や、嫌がらせの犯人に気づいていたのかもしれない。だから、最近描いた絵が見当たらなくてひょっとしたらなにかされたのかもと不安になったんだ。
「本当に卑怯なことをしてしまったと後悔してる。ごめんなさい」
頭を下げたのは私に向かってだった。妙な苛立ちが私の内側にふつふつと湧き上がる。
彼女の横顔を染谷くんは口を開かずにただじっと見据えていて、それすらも私の内側を熱く煮えさせた。
「謝るのは私ではないですよね」
板橋先輩がきちんと償うべき相手は染谷くんだ。
たとえ、絵を破いてしまったことが悪意からでなくても、日頃からこっそりと嫌がらせをしていたのだから。
私には具体的な内容はわからないけれど、卑怯なことと彼女が言っている以上は悪質なものだったのだろう。
「破いたこともわざとではなくても同じ絵を描く人間なら、したことの重みをわかっているんじゃないですか」
作品を仕上げるのにきっとたくさんの時間を使っている。完成間近とみられるこの絵は、あと一歩のところで無残な姿にされてしまったのだ。
染谷くんがこの絵を見てしまったのなら、絶望的な出来事だったに違いない。
「……わかってるわよ。最低なことをしたって取り返しの出来ないことをしたって……翌日の部活でちゃんと謝ろうと思ってた。それでも私がここに来たときには染谷くんはいなかったの」
いつもは放課後に美術室へ行っていた染谷くんがいなかった理由は大事な絵が破かれてしまったのを見てしまったから?
だとしても、どうして非常階段にいたのだろう。その理由だけがわからない。
「板橋先輩は自分が染谷くんの絵を切り裂いたせいで、飛び降りたと思ったんですか」
絵に真剣に打ち込んでいた染谷くんの心を蝕むくらいの衝撃はあっただろうけれど、あの現場を見る限り飛び降りたわけではないのだと思う。
けれど、事件性が必ずしもないとは言い切れない。足を踏み外した以外にも押されたという可能性だってないわけではない。
それでもこの様子だとたとえ染谷くんが誰かに突き落とされたのだとしても、この人ではないのだろう。自分が破いてしまったことが原因なのだとずっと怯えていたのだと思う。
「染谷くんは自分から飛び降りたわけではないと思います」
染谷くんに嫌がらせをしていた板橋先輩を許せるわけではないけれど、このまま追い詰めているのも違う気がした。
本気で死ぬ気だったのならきっと、飛び降りる場所は階段ではなく手すりを超えた先にあるコンクリートだ。安堵したように板橋先輩の瞳にわずかに光が戻ったように見える。
「そう、なの?」
「けれど、板橋先輩がした最低なことは消えて無くなりません。きちんと本人に償ってください」
部外者の私に言えるのはこのくらいだった。
本当はものすごく腹が立つから、嫌がらせしたことや絵を破いてしまったことに対して一発くらい平手打ちをかましたいところだけど、私がするべきことでないのはわかっている。彼女に怒っていいのは被害者の彼だけだ。
板橋先輩に少しこの部屋にいたいと告げて、一人にしてもらった。ドアが閉まったのを確認して、近くに立っている彼の様子をうかがう。
「染谷くんは怒らないの?」
彼は取り乱さない。大事な絵を破かれて傷ついたはずなのに、ただそれを受け入れるように眺めているだけだった。
「もういいよ。板橋先輩の言う通り、どうせ入賞なんてできっこなかったし」
自嘲気味な微笑みを浮かべては今にも泣き出しそうで、諦めているような眼差しは闇夜のように深い悲しみに溺れている。
棘が突き刺さるように胸のあたりが痛む。彼がなにに傷ついているのか、なにに拘っているのかを察してしまい破れた絵を指先でなぞった。
「なんで俺はダメなんだろうって何度も思ったよ」
努力を繰り返して、必死に挑んで、粘って、苦しんで。それで出来上がったものはきっと自分の一部のように大切で、それを誰かに認められたい。受け入れてもらいたい。心に残って欲しい。
たった一日でもいい。数時間でも、数分でもいい。誰かの心に残れたのなら、それは幸せなことなのだ。
————たとえ、才能がないと誰かに言われたとしても。
それなのに、そう思っているはずなのに、賞をもらえない自分は価値がない気がして、どんどん自信を失っていく。
続けていくのが辛くなる。結果が出せない自分に失望して、悔しくて情けなくて、頑張っていた心が弱っていく。
昨年末の自分を思い出して、胃の辺りが少しだけ痛んだ。もう終わったことなのに。
「でも少しくらいは夢見てたんだ。もしかしたら誰かの目に止まって、賞をもらえるチャンスがあるかもって。……けどダメだ。こんな風になった絵は捨てるしかない」
私にはきっと染谷くんの想いを完璧に理解なんてできっこない。けれど、それでも私の心に染谷くんの絵が残っていたんだよ。
壁に立てかけられているイーゼルを組み立てて、破かれたキャンバスを反対側に向けて載せる。
すぐ横にある棚の奥の方からセロハンテープを発掘して、勢い良くテープの端っこを引っ張って、ギザギザと尖った銀色の部分でそれを千切る。
「え、なにする気?」
「直すの!」
子どもじみた発想でしかない直し方だ。それでも、絵の裏側にセロハンテープを貼っていく。
これくらいしか思いつかないけれど、放置しておくよりもずっとマシな気がした。
「無理だよ。もう破けているんだから」
「だって、このままじゃもったいない! 時間をかけて作り上げてきた染谷くんの想いが無駄になっちゃう」
「無駄だったんだよ。だから破けたんだ」
「染谷くんってネガティブだ! この絵は染谷くんの一部なのにそんなこと言ったら可哀想だよ」
不恰好なセロハンテープは必死にキャンバスを繋いでくれている。
元どおりなんて無理だってわかっているよ。だけど、最初から無駄だった絵なんてあるわけないよ。
「ほら、見て! すっごく綺麗!」
見せつけるように修復した絵を抱えて微笑むと、染谷くんは今にも泣き出しそうな子どもみたいな表情で微笑み返してきた。
「こんなに綺麗な世界を描けるなんて染谷くんの手は魔法みたいだね」
「大袈裟だよ」
「そんなことないよ。絵が描けない私にとってはそれくらいすごいことなんだよ」
染谷くんの目には世界はどんな風に映っているんだろう。
色を知らない私には青は青でしかないけれど、絵を描く彼にとっては青の中にも無数の種類が存在していて、だからこそ、重なって隣り合って色づいてく些細な色の違いをこうして描けるのかもしれない。
「……そうだ。思い出した。あの日、この絵が切り裂かれているのを見たんだ」
伸ばした染谷くんの指先はキャンバスをすり抜けていく。
触れられないもどかしさを感じているのか、指をぎゅっと丸めてかすかに震わせた。
「ショックだった。でも、なんとなく俺に嫌がらせをしているのが板橋先輩だって気づいていたから、きっとこれもそうなんだって思っていたんだ」
彼の話によると板橋先輩は部の中でも飛び抜けて絵が上手いらしく、コンテストでも賞を取ることがあるそうだ。
対して染谷くんは過去に一度だけ小さな賞を取ったっきり全てのコンテストに落ちていたけれど、先生には褒められることが多かったらしい。
そのことに板橋先輩が嫌な感情を抱いていたことを染谷くんは向けられる鋭い眼差しから察していた。
物を隠されたり、壊されたり、小さな嫌がらせが始まり、わざとらしく嫌味を言われることも多々あったらしい。
『賞が取れない絵なんて無価値で無意味』
そう何度も言われるたびに気にしてはいけないと思いつつも、彼の心を蝕んでいった。
だから、あの日もここへ寄ったときに破かれたキャンバスを見て、あまりにもショックでなにもやる気が起きなくなってしまって帰ろうとしていたらしい。
残念ながら今の染谷くんにはそれ以上のことは思い出せないようだった。
わかったことは事故の日に染谷くんがここに立ち寄って、破かれた絵を見てしまったこと。
そして、〝帰ろうとしていた〟こと。つまりはそのあとに非常階段に行く理由ができたんだ。
「描いていた時間は無駄になってしまったって思ったけど、こうして中村さんになおしてもらえたこの絵は幸せな絵だ」
「破かれちゃっているのに?」
「うん。普通は破かれたら、捨てられちゃうよ。それでもこうしてなおしてもらえた。綺麗って言ってもらえた。それだけで、俺の絵は救われたよ」
染谷くんこそ大袈裟だよ。
私はセロハンテープを貼っただけ。この絵を元に戻す力もない。染谷くんが描いた素敵な絵を褒めることができるボキャブラリーもない。
キャンバスに描かれたラムネ瓶。
その中には不思議な世界が閉じ込められていて、青空を泳ぐ金魚に向日葵を閉じ込めたガラス玉。
炭酸の雨粒が瓶の底の星々と花火を散りばめた夜空に落ちていく。しゅわしゅわと弾ける夏の世界に心を奪われてしまった。
「染谷くんの絵って透明感があって綺麗だよね」
「透き通ったものが好きなんだ。だから、そういう雰囲気の絵になるのかも」
だから、グラスとガラス玉を描いていたんだ。それに、前に海の絵や空が映り込んだ水面の絵を見たことがあった。あれも思わず立ち止まって見入ってしまうほど綺麗だったな。
「ラムネ瓶って懐かしい。小さい頃近所の駄菓子屋でよく飲んでたなぁ」
キャンバスの中心にある瓶の縁に指先を向ける。
中に不思議な世界が閉じ込められていても、透明感がちゃんとあって青の淡い光のラインが繊細で触れたらパキッと音を立てて折れてしまいそうな薄氷のように見えた。
「この中に俺の好きなものを詰めたんだ」
「好きなもの?」
「うん。黒く汚れない。色褪せない。好きなものを閉じ込めたラムネ瓶の中で幸せに浸れる」
ラムネ瓶の中の世界に向けている染谷くんから瞳から読み取れるのは羨望。
好きなものだけを集めて、幸せな夢のような不思議な世界を描いていたのは、それは――――染谷くんにとって〝黒く汚れた〟〝色褪せた〟なにかが現実であったからだろうか。
現実に絶望した彼が自分にとって優しい世界を描いたのかもしれない。
動かした手が不意に染谷くんの腕にすり抜けた。
触れられない。近いのに遠い距離。端から見れば、独り言のヤバイ女子生徒。それでも私は視えている染谷くんを独りぼっちになんてできなかった。傍にいさせてほしかった。
「けど、きっと俺の表現の仕方じゃダメなんだ。だから結果が残せない」
「まだわからないじゃん。私たちまだ十七歳だもん。不完全で当たり前だよ! 失敗しても上手くいかなくても、大事なものをきちんと持っているほうがいいと思う」
バスケ部だったとき、体育館に弾むバスケットボールの音が好きだった。お父さんのギターを触れたとき、全身に響く音に心が躍った。従姉妹に勧められて、初めて一眼レフカメラで撮った風景は心に刻まれるほど綺麗だった。
好きなことはたくさんある。
その中でも特に頑張っていたのはピアノだった。プロになりたかったわけじゃない。ただ弾くのが楽しくて、大好きだった。
けれど、周りの大人たちは私を評価した。お店に並ぶ商品のよう生徒に価値をつけて、才能があるかないかで判断する。
矛盾しているのはわかっている。評価されるのが嫌なら、コンクールに出なければいい。でも賞をもらってみたい。そんな欲が私を突き動かしていた。
『朱莉ちゃんは下手ではないけれど、〝普通〟なのよね。だから、努力しても才能には結局勝てないわ』
ピアノ教室の先生の言葉が今も私の中に苦味と共に残り続けている。
私はいつも中途半端な結果しか出なくて、その他大勢のひとりだった。周りの言葉に左右されて落ち込んで、ピアノを弾くのが怖くなった。
だから、絵に真っ直ぐな姿勢で挑んでいる染谷くんは私には遠い存在に思えて、キラキラと輝いているように見えて憧れた。
「それにね、染谷くんが描く世界が好きな人だっているんだよ」
「そうかな」
「いるじゃん! ここに」
自分を指差して、歯を見せて笑いかけると染谷くんはフリーズしたように動かなくなってしまった。
たっぷり数秒瞬きを繰り返してから、恐る恐るといった様子で染谷くんが訊いてくる。
「俺の絵、好きなの?」
信じられないとでもいいたそうな眼差しは警戒している子どもみたいで、私は唇をつり上げて微笑みを浮かべて頷いてみせた。
「そうだよ。私は染谷くんの描く世界が好き。美術室の外に飾られている絵だって、何度も見に通ったよ! それだけじゃ、足りないかもしれないけど、染谷くんの絵は誰かに影響を与えているんだよ」
私の心に刻まれている染谷くんの世界。
青はこんなにもカラフルで、日常にあるものを染谷くんの手にかかれば幻想的に仕上げられる。
染谷くんの絵は光の加減が絶妙で思わず目を見張るくらいの美しさだった。
「ありがとう。そんな風に言ってもらえてすごく幸せだ」
ちょっとだけ照れくさそうで、ほんのりと鼻を赤くして泣きそうになるのを我慢しているような彼は儚げで今にも消えてしまいそうだった。
***
その日の夜、リビングのソファに座りながら携帯電話の画面に映るカレンダーをじっと見つめる。
九月に一体なにがあったんだろう。特に行事ごともないし、クラスでなにかあったようにも思えない。
クラスメイトに様子がおかしい人もいないように見えるし、染谷くんは基本的に一人でいたからクラスの誰かと揉める可能性も低い。
部活で板橋先輩以外にも、染谷くんをよく思っていない人がいたのだろうか。
九月の記憶がないというのは、忘れたいくらいショックなことが起こったからなのかな。それとも非常階段から落ちた衝撃で一時的に忘れているだけなのかもしれない。
「おねーちゃんさ、最近なにかあった?」
振り返るとお風呂上がりの燈架がタオルで髪を拭きながら、立っていた。
「え、なんで?」
「んー、なんかいつもと違う気がする」
どのあたりが違うのかわからず、考えてみるけれど思い当たらない。冷凍庫からアイスを取り出してこちらへ戻って来た燈架は、床に座ってにやりと見上げてくる。
「いやー、てっきり彼氏でもできなのかなって」
「は!?」
「その様子だと違うのかぁ」
姉妹だからといって恥ずかしがることなく恋愛話をしてくるところが燈架らしい。昔から言いたいことをはっきりと言う性格で、喧嘩すると私の方が泣かされることがあったくらいだ。アイスの袋を開けて、しゃくしゃくと音を立てながら食べている燈架に「どうしてそう思ったの?」と聞いてみた。
「あんまり部屋から出てこないし、彼氏でもできて電話とかしてるのかなーって。それに今スケジュール見てたしさ」
「そんなんじゃないよ」
部屋にいたのは染谷くんがいたからだし、スケジュールも染谷くんの失った九月のことを考えていただけだ。
今は染谷くんが部屋にいないので、なんとなくリビングに来た。きっと染谷くんはベランダにいるのだろう。
「でも好きな人いるでしょ」
「な、なんで」
「なんとなくそんな感じがするから」
燈架の勘がよすぎて怖い。私ってそこまでわかりやすいのだろうか。
アイスをあっという間に食べ終わった燈架は、残った棒をくわえながら探るように私の顔を覗き込んでくる。
「顔赤いよ、おねーちゃん」
「と、燈架が変なこと聞くからでしょ!」
「やっぱりいるんじゃん!」
ここに染谷くんがいなくてよかった。聞かれていたら恥ずかしすぎて、まともに話ができなくなりそうだし、他の人のことが好きだって誤解されるのもいやだ。
「告白とかしないの?」
「……しないよ」
「ふーん」
幽体離脱してしまっている今はできる状況じゃない。それに告白なんて考えたこともなかった。染谷くんならどんな反応をするんだろう。困らせてしまうかな。
「私さー、こないだ振られたんだよね」
「え、そうなの?」
燈架の恋の話を聞くのは初めてで、どう反応をしたらいいのか少し戸惑う。染谷くんに恋をするまでは、あまり恋愛に関してわかっていなかった私だけど、妹は私よりも恋愛に目覚めるのは早かったみたいだ。
「そ。しかも、相手は賢介くん」
「賢介くんて、もしかして小林賢介くん?」
「そうそう」
家が近所なので私も小学生の頃から知っている子だ。年齢は燈架の一つ上で今は中学三年生のはず。
「燈架、賢介くんが好きだったの?」
「賢介くん男バスでさ、家近いからよく一緒に帰ってたんだよね。それで、去年から好きだったんだ」
燈架が賢介くんに片思いをしていたなんて、不思議な感覚だ。私の中で賢介くんは小さい頃のままの姿で止まってしまっている。
「まあ、ダメなことくらい知ってたんだけどね。賢介くん、マネージャーが好きっぽかったし」
「……それなのに告白したの?」
私の質問に燈架はきょとんとした様子で首を傾げた。
「だって、好きだったし。三年生引退だから、ほとんど会えなくなっちゃうじゃん」
それでも振られるとわかっていて、可能性のない告白をする勇気は私にはない。それなら自分の想いを閉じ込めてしまう。
「……相手に好きな人がいるのに伝えるのって怖くなかった?」
「うーん、そりゃ玉砕覚悟だから傷つくことはわかってたけど、あのとき言えばよかったっていつか後悔するかもしれないし、それなら私は自己満足でも伝えるよ」
「燈架……カッコイイね」
「当たって砕けたけどねー」
私もいつか染谷くんに伝えられるだろうか。好きですって、自分の気持ちを素直に言って、彼からの返事を聞くことができるかな。
「だってさ、好きだったって気持ちをなかったことにしたくないもん」
燈架の言う通りだ。私も好きって気持ちをなかったことにしたくない。心に押し込めて、消してしまいたくない。
染谷くんに恋をした日々は、とても大切で宝物みたいで、思い出すだけて心が温かくなる。声をなかなかかけられない自分に苛立ったこともあるけれど、好きになった日のことは今でも鮮明に覚えている。
「私もがんばる」
ぽつりとこぼした私の言葉に燈架が一瞬驚いた様子で目を見開いたけれど、すぐに笑顔になり、「がんば!」と言って親指を立てた。
染谷くんが目覚めたら、ちゃんと伝えよう。ずっと押し込めていた私の気持ちをなくさないように。
***
部屋に戻ってベランダを覗くと、染谷くんがぼんやりと遠くを眺めていた。
「どうしたの? 風邪ひいちゃうよ」
心配してくれている染谷くんに笑いかける。
「今日はあったかいから大丈夫だよ。風もないし」
「そっか。それならよかった」
柔らかくて優しい染谷くんの声に癒されていく。姿を見るだけでドキドキして、声を聞くと嬉しくなる。
「染谷くん」
相手にも同じ気持ちになってもらうのってどうしたらいいのかな。みんな恋ってどうやって叶えているんだろう。
「ん?」
名前を呼ぶと口角を上げて、少しだけ首を傾ける仕草が好き。用もないのに呼んでしまい、慌てて笑いながら誤魔化した。
「星! 綺麗だねー」
「うん。今日は空気が澄んでいるね」
一緒に星を観ているこの夜は私にとって宝物。空に塗られた闇色の中で淡い輝きを放って瞬いている星々は、テレビで観る満天の星空よりもずっと綺麗だ。
「染谷くんは星好き?」
「うーん、今まではそんなに気にしたことなかったけど、今は好きかな。すごく綺麗。中村さんのお陰で気づけたよ」
「私?」
「こうして幽体離脱せずに、今までどおり一人だったらきっと観てなかったと思うんだ」
私も今までこうしてベランダに出てまで星を観たことはなかった。だけど、こうして染谷くんと一緒に観る星空は特別になる。
「そういえば、美術部のこと以外で思い出したこととかってあった?」
「思い出したことっていうか気づいたことなら、幽体離脱する前の俺はちゃんと爪を切ってたんだなって」
「え、爪?」
染谷くんが短めに切り揃えられた爪を見せてくれた。男の子だけど綺麗な手。けれど、女の私よりも大きな手だ。
「絵を描くとき、爪にゴミが入ることが多いからこまめに切るようにしてるんだ」
「そういうところにも気を使うんだね」
「他の人はどうなのかわからないけど、気になるから切っておくほうがいいなって思ってさ。……だから、九月の俺も絵を描き続けていたんだなって」
私も染谷くんは普段通り教室で絵を描いていたのを目撃していたはずだ。だから、彼の言う通り九月中も絵を描いていたことは間違いない。
「……中村さんの手は小さいね」
「そうかな」
「うん。女の子の手だ」
「……染谷くんの手は大きいね」
心臓の鼓動が速くなっていく。少し躊躇いながらも、自分の手を染谷くんの手と触れるか触れないかの距離に近づける。
感触も温度も感じない。それでも彼はここにいる。指先をほんの少し曲げると私の手はすり抜けていった。
ぎこちなく視線が交わる。会話が途切れてしまい、「おやすみ」とたった一言だけ告げてベランダから逃げるように室内に入った。
顔が熱い。透明な彼の手に触れた指先をぎゅっと握りしめた。




