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君と過ごした透明な時間

 


 *




 好きなものを詰め込んだラムネ瓶の中の世界。


 透明な彼と過ごしたわずか数日の時間は

 ラムネ瓶の中の世界のように幸せな日々だった。




 *




 目が覚めると、彼がいなかった。

 今までが夢だったのだろうかと思ってしまいそうなほどの経験だった。


「染谷くん……」


 窓を開けてベランダを覗いても彼はいない。

 幽霊になった好きな人と過ごした日々なんて、きっと誰かに話しても信じてもらえないだろう。


 霊感なんてないはずの私が唯一染谷くんの幽霊を視ることができたのは、お互い想い合っていたからなのか、落ちる直前に染谷くんが私のことを考えてくれていたからなのか、真実はわからない。


 それでも視えたのが私でよかった。透明な彼と過ごした時間はすごく大切なものだ。昨夜のことを思い出すと、嬉しさと寂しさが入り交じる。


 せっかく想いが通じ合ったけれど、彼は消えてしまった。正確にはおそらく元の身体に戻ったのだろうけれど、幽霊の間の記憶は残らないと思うと話していた。


 私だけが知っている私たちの日々。

 窓際に置いてあるふたつ並んだラムネ瓶を眺めて、夢ではないと再確認する。彼は確かにここにいた。それでも一人ぼっちになると心にぽっかりと穴が空いたみたいに寂しくなる。



 溢れそうな涙を必死に堪えて前を向いた。

 あの時の出来事が消えてしまわぬように、指先でそっと唇を撫でる。


 忘れたりなんてしない。たとえ、彼が私との日々を忘れていたとしても、私だけはなかったことになんてしない。


 好きって言ったら記憶のない彼を驚かせちゃうかな。恥ずかしがるかな。


 いきなりだと信じてもらえないかもしれないから、少し仲良くなってからの方がいいかな。外から差し込む朝日を浴びながら目を閉じて彼との約束を思い返す。



 染谷くん、好きって言ってくれてありがとう。今度は私から好きって伝えに行くよ。



 ***



 日曜日が終わっても、球技大会があったため月曜日は振り替え休日だった。染谷くんは本当に元の身体に戻れたのだろうか。


 明日豊丘先生に確認してみるしかないかな。でも、もしも戻っていなかったら----彼がこのまま目覚めないなんていう可能性もあるかもしれない。そんなことを考えてしまい、不安と恐怖に身を震わせた。


 考えちゃダメだ。すぐに戻れるとは限らないんだから、おとなしく待っていよう。


 シナモンロールを食べながら、後ろ向きになりそうな自分の心をぐっと抑え込む。焦ってはいけない。自分にできることを考えて行動しよう。


 とはいっても、今日は予定もないし、休みなので先生に染谷くんのことを確認できない。



「朱莉、ちょっとちゃんとしなさいよ! ほら」


 リビングのソファでまったりとしながらテレビを観て過ごしていると、お母さんから電話を渡される。家の電話なんて久々に触った。今は携帯電話でしか連絡を取り合わないし、電話してくる人なんて滅多にいないはずだ。



「え、誰?」

「あんた、なにかしたんじゃないでしょうね」

「なにかってなに?」


 よくわからないまま不安になりながら電話を耳に当てる。




「……もしもし」

「おう、悪いな突然」

「え、豊丘先生!?」


 相手は豊丘先生で驚きのあまり大きな声を出してしまう。


「すっげぇ、驚きようだな」

「あの、用件って……もしかして」

「ああ、実は————」


 内容を聞いた私は電話を切ると慌てて準備を始める。


 制服で行ってもいいのだろうか。私服だと、なんだか恥ずかしい。ああもう、こんなときに限って前髪が跳ねている。

 突然慌ただしく準備を始めた私を訝しげにお母さんは見ていたけれど、一刻も早く家をでることに必死だった。




 ***



 豊丘先生からの連絡は土曜日に染谷くんが目を覚ましたという内容だった。そして、今日面会しに行くから私も一緒に来ないかという誘いだった。

 病院の近くで落ち合うと、私の髪の乱れ具合を見た豊丘先生は片方の口角を持ち上げて意地悪く笑った。



「よかったな」


 私の気持ちを見透かした上でのにやけ顏を睨みつける。でも、豊丘先生の言っていることは間違いではないので素直に頷いた。

 幽霊が消えたのに元の身体に戻れなかったなんてことにはならなかったみたいで安心した。



「染谷くんが目覚めてくれて本当によかった」

「本人にも言ってやれよ」


 本人、か。忘れてしまっているかな。忘れてしまっているんだろうな。

 私と過ごした日々を覚えてはいないよね。それでも、透明な彼と過ごした日々を私はずっと忘れない。


 彼が忘れてしまっているのなら、また一から始めよう。




「ねえ、先生」


 そして、私自身もまた一から始めたい。

 一度は逃げるように放り出してしまったけれど、また向き合いたいんだ。



「十二月の合唱祭の伴奏って、うちのクラス誰がやるか決まってる?」

「いや、まだ決まってないな」

「じゃあ、私がやってもいい?」


 才能がないという現実を受け止めるのが怖かった。ピアノの先生に言われたことが頭から消えず、ピアノに触れるたびに思い出して苦しくて、好きだったものがだんだん苦手になっていったんだ。


 でも染谷くんが好きだと言ってくれたことが嬉しくて、私に勇気と自信をくれた。

 好きだったピアノを、もう一度弾きたい。



「そういえば一年のときも弾いてたな。じゃあ、今年も頼んでいいか」

「うん!」


 進路とか将来の夢とか、大きなことが決まったわけではない。けれど、ずっと心に残っていた苦い記憶を受け止めて、向き合う決意ができたのは私の中で大きな一歩だ。



 それは彼が————染谷くんがいてくれたから踏み出せた一歩。



 病室に行くと、染谷くんのお母さんがいた。この間会ったときよりも血色がいい気がして、表情も明るくなっているように思えた。会釈すると、どうぞと奥へと促される。

 ベッドの上で上半身だけ起こして、窓の外を眺めていた染谷くんの姿を見つけた。緊張で吐息がわずかに震えて、手に汗が滲む。



 彼の隣には窓があり、青空を覗かせていてあの夏の日に見た光景と似ていた。


 こちらの足音に気づいたのか、振り向いて目を見開いた。少し長めの前髪の隙間から覗かせる切れ長の目が私と捕える。

 土曜日の夜まで透明になった彼と会っていたはずなのに久しぶりな気がしてしまう。



「え……中村さん?」


 澄んだ彼の声が鮮明に届いた。

 どうやら豊丘先生にというよりも、私に驚いたようだった。その発言に全てを察してしまう。


 やっぱりそうだよね。でも、それでもいいや。

 彼がこうして戻ってきてくれた。それだけで泣きそうになるくらい嬉しい。今度は触れられる距離に彼がいてくれる。


 まだクラスメイトという間柄でしかないけれど、今度は私から言うって約束したから、今日は始まりの日だ。



「体調はどうだ?」

「足とかが少し痛いですけど、大丈夫です」

「そうか」


 豊丘先生は安堵した様子で微笑んだ。染谷くんは特に大きな怪我もなく、明日には退院らしい。腕もなんともないようなので安心した。


 少し話をしたあと、豊丘先生と染谷くんのお母さんは気を利かせてくれたのか、少し話をしてくると言って病室を出て行った。

 染谷くんとふたりきりになり、改めて声をかける。


「頭打ってるって聞いたけど、大丈夫?」

「うん。大丈夫。少しまだぼーっとするけど」

「そっか」


 幽霊のときの記憶がないのなら、染谷くんにとってはどうして私がここに来たのか不思議なんだろうな。

 窓の外の青空はあのラムネ瓶を思い出させる。彼が今、絵を描いたらラムネ瓶の中にはなにが入っているんだろう。



「そうだ」


 鞄から取り出したオレンジ色のクロッキー帳と深緑の鉛筆を染谷くんに渡す。それを少し驚いた様子で受け取った後、嬉しそうに微笑んでくれた。


「これ、染谷くんが階段から落ちた日に傍にあったクロッキー帳と鉛筆」

「ずっと預かっていてくれたの?」

「……うん。本人にちゃんと返したほうがいいかなって思って」

「ありがとう」


 前日雨が降っていたから非常階段が少し濡れていて、クロッキー帳も少しだけ被害を受けている。そのことを話すと、染谷くんは「拾って持っていてくれたことが嬉しいから、最後まで使うよ」と言って笑った。



「それと、これも」


 私の部屋にふたつ並んでいたラムネ瓶を一つ、染谷くんに手渡す。


「くれるの?」

「お見舞いの品って感じじゃないけど、よかったらもらってくれる?」

「ありがとう」


 私しか知らないふたりで買ったラムネ。透明な日々を私だけは忘れずに覚えている。染谷くんが忘れてしまっても、私にとってはこれからも大事な思い出だ。


「実は私の分もあるんだ」

「えっ」


 何故か染谷くんが少し驚いたような声を上げた。けれど、すぐに子どもみたいに無邪気に笑って「一緒に飲もうか」とラムネ瓶を軽くぶつけてきた。


「でも、冷えてないよ!」

「いいよ。今、中村さんと一緒に飲みたいなって思ったから」


 私の分まで持ってきてしまったけれど、染谷くんに会いに行くためのお守りみたいなものだった。一緒に過ごした記憶のない染谷くんに会うのが少し怖くて、会いたいはずなのに勇気が出なかったんだ。



「ダメかな」


 少ししょげた表情で聞かれてしまったら、「いいよ」としか答えようがない。私の返答に染谷くんは目を輝かせて、「今すぐ飲もう!」と張り切りだした。

 こういう時折見せる無邪気なところに私は結構弱い。こんな彼を見てしまったら、少しでも喜んでもらえることがしたくなってしまう。


 ビニールの部分を捲って、プラスチック製のキャップを取り出してラムネの栓をしているガラス玉に押し当てる。昔から何度もやっているけれど、突然吹き出したりしてくるから怖くて勢い良くできない。小さい頃はテーブルの上と床をびしょ濡れにしてしまって、お母さんを大慌てさせたことがある。



「いくよ」


 躊躇っている私とは違い、染谷くんが先に覚悟を決めたようで、フェイスタオルを膝の上に敷いて、手で思いっきりキャップを押す。ガラス玉が下へと落ちて、ガラス同士が重なり合う涼しげな音がした。

 炭酸は溢れることなく成功したようで、染谷くんが嬉しそうにラムネ瓶を眺めている。



「なんかいいね、こういうの。俺、ラムネ瓶好きなんだ」


 知っているよ。染谷くんが描いた好きなものを詰め込んだラムネ瓶の絵だって、見せてもらったんだ。けれど、それを伝えたところで本当のことを信じてもらえる可能性は低い。普通なら自分のことを詳しく知っていて怖いと思われてしまってもおかしくない。


 言いたいけれど、言えない。言葉をぐっとのみ込んで下唇を噛み締める。



「綺麗だね」


 ラムネ瓶を覗き込んでいる染谷くんは、今ならそこにどんなものを詰め込んだ絵を描くのだろう。



「中村さんは開けないの?」

「あ、うん。今開ける」


 私も続いてラムネ瓶のガラス玉の部分に黄緑色をしているキャップを押し当てる。意を決して、手に力を込めると鈍い音がした直後、しゅわしゅわと音を立てて炭酸が溢れ出てきた。



「わ、ごめん!」


 床にもぽたぽたと垂れてしまい、スカートも濡れてしまった。手のひらもびしょ濡れだ。その様子を見ていた染谷くんが「こんなこともあるんだね」と楽しげに笑った。



「このタオル使って」


 染谷くんが私にタオルを渡してくれたので手とラムネ瓶の周りを拭いていく。床はティッシュペーパーで拭いてと言ってくれたので、数枚もらって濡れてしまった部分を拭いておいた。



「ごめんね、タオル汚しちゃった」

「大丈夫。気にしないで」


 お互いに持っているラムネ瓶を軽くぶつけあう。どちらからともなく「いただきます」と言って、ラムネ瓶に口づける。


 甘いラムネの味と炭酸のしゅわしゅわと弾ける感覚が口内に広がっていく。



「……美味しい」


 染谷くんが嬉しそうだったので、持ってきてよかったと胸をなでおろす。一緒に過ごした記憶がない彼にとっては、いきなりラムネ瓶を貰っても困惑させるのではないかと少し不安だった。


 陽の光が差し込んだラムネ瓶がキラリと光る。眩しいくらいに澄んだ青。もしも私がラムネ瓶の中に絵を描くとしたら、あの日々の思い出を残しておきたいな。

 ふたりで見た夕焼けや、星空、夜空に光る花火。そして、最後に交わした約束と————透明なキス。私だけが覚えているふたりの時間は色褪せることなく心に残っている。



「さっき中村さんがラムネ瓶をふたつ見せてくれたとき、ちょっと驚いた。夢にも同じものがでてきたから」

「夢?」

「不思議な夢を見ていたんだ」


 視線を向けると、染谷くんが私のことをじっと見つめていた。その真っ直ぐな視線にどきりと心臓が跳ねる。



「……どんな夢?」


 ある予感が胸に過ぎり、緊張と期待と不安が入り混じって呼吸が浅くなっていく。



「きっと聞いたら呆れられちゃうよ」

「聞かせて?」


 照れくさそうに彼が俯くと、病室の窓から肌寒い十月の始まりの風が吹き抜けた。季節は少しずつ流れている。音もなくゆるやかに。


 まだ面会の終わり時間までは余裕があるので、近くにあったパイプ椅子に座り彼の声に耳を傾ける。話すのを躊躇していた彼が諦めたように窓の外を眺めながら、思い出すように目を細めた。




「君といた夢なんだ」



 消えてしまった九月の記憶を取り戻した代わりに、眠っていたときの記憶が消えてしまった彼はおもむろに夢の出来事を語りだす。



 それは、優しくて温かな思い出が蘇る穏やかな午後のひとときだった。






 君と過ごした透明な時間<完>

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