さよなら
翌朝も見事な晴天だった。
長い茶色の髪をポニーテールにした中村さんはいつもよりも活発な女の子に見える。
一学年しかいないため体育祭ほどではないけれど、八クラスが校庭に集められるとさすがに人が多くて声が聞き取りにくい。
「お前らちゃんとクラスごとに並べ! いつまでも始まらないぞ!」
先生の一人が拡声器を持って声を響かせると、各々に話して笑っていた生徒たちがあっという間に口を閉ざして整列していく。
ようやく静かになり、整列も完了したところで球技大会開幕の挨拶が始まった。
校庭と体育館に種目ごとに分かれ、試合が始まると少しずつ制服を着た生徒たちが増えていく。
彼らは別の学年の人たちで応援をしに来た人たちなのだろう。サッカーの試合をしている男子たちを先輩の女子生徒たちが黄色い歓声をあげながら応援しているのが聞こえてくる。
次の試合は中村さんが出るので体育館へと向かうと、入り口付近で宇野さんたちと準備運動をしているのが目に止まった。中村さんは俺に気づくと、口角を上げて目を細めた。
中村さんとこんな風にコミュニケーションをとるような日が来るとは思わなかった。
あの放課後の日から、ずっと彼女は俺の憧れで手の届かない眩しい存在だった。そんな彼女が俺に微笑みかけてきてくれて、花火をみる約束までしてくれた。
俺は充分すぎるくらいの幸せを味わっている。だけど、今日だけは、今日が終わるまでは彼女の傍にいさせてほしい。
***
前のクラスの試合が終わり、次はいよいよ中村さんたちの出番が来た。
気合をいれる人、歓声に手を振る人、緊張した面持ちの人、友達と楽しげに談笑している人。
そんな人たちがいる中で、中村さんは目を閉じていてゆっくりと深呼吸をしている。
集中をしている横顔は普段見る彼女の明るい表情とは違っていて、スポーツと真剣に向き合っているのが伝わって来る。
試合開始の笛が鳴り、整列をして挨拶を交わすとクラスの代表がコートの中心へ集められて、ボールが高くあげられる。
ジャンプボールに勝ったのは敵チームで、先行を許してしまったもののクラスの女子たちも必死に食らいついてボールを追いかけている。
早速シュートが打たれてしまったが、ゴールのリングをくぐることなく跳ね返ってくる。そのリバウンドを華麗に攫ったのは中村さんだった。
マークしていた生徒をいとも簡単にかわして、軽やかで速度のあるドリブルをして目を剥くような綺麗なフォームでシュートを打った。
ゴール前で流れるように打たれたシュートは確か、レイアップって名前だった気がする。
最初は敵チームに流れていた空気が、中村さんの舌を巻くような攻めのシュートに空気が一気に切り替わる。歓声が上がり、クラス内の士気も上がっている気がした。
一応経験者だけど、しばらくバスケはやっていないと彼女は言っていたけれど、彼女がいることでクラスの勝利が大きく近づいていることは一目瞭然だった。
相手側に渡ったボールをすぐにカットして流れを変えさせる動きも、シュートを何本も決めている姿も、全てがかっこよくて目が離せなかった。
――――バスケの試合は中村さんの活躍が大きく貢献して一位の成績を収めることができた。
中村さんは出番が終わり、体育館の外の壁にもたれ掛かると、口元に手を当てながら隣にいる俺を横目で見上げてくる。
「どうだった?」
「すごかったよ。本当にかっこよかった」
もっと気の利いたことが言えたらよかったけれど、俺にはこれが精一杯だった。けれど、中村さんは嬉しそうに微笑んでくれる。
「本気で頑張っちゃった。だって、シュート決めたら私のしてほしいこと一つしてくれるんでしょ?」
シュート決めるといっても、何本も決めていて想像以上の結果だったから驚いたけれど、約束は約束なので頷く。一体透明な俺になにをしてほしいんだろう。
内容を聞こうとしたところで、近づいてきた足音に気づき振り返る。そこには見覚えのある気がする男子生徒が立っていた。
制服姿なので、違う学年だろう。見た目からして一年生ではなさそうだし、三年生だろうか。
「おつかれ。すっげー大活躍だったな、中村」
「遠藤先輩。ありがとうございます」
中村さんは少しだけ、困ったように微笑み返して頭を下げた。
着崩された制服に明るめの髪。目鼻立ちもはっきりとしていて、人気のありそうな人だ。どこかで見たことある気がするのは、この人が目立つ容姿をしているからかもしれない。
「この間は無理やりあんなことしてごめんな」
「いえ……」
あまり俺に聞かれたくない内容なのか、それとも思い出したくないことなのか、それとも両方とも当てはまるのかはわからない。
けれど、明らかに中村さんの元気はなくなり気まずそうに視線を下げていて、声が萎んでしまったように小さくなってしまった。
「俺さ、勝手に上手くいくだろって思ってた。だから、断られたとき動揺してあんなカッコ悪いことしたんだ。本当にごめん」
なんとなく察してしまう。この人は中村さんが好きで、告白を断られたんだ。けれど、強引になにかをしてしまったような様子だけど、俺は聞かないほうがいいことかもしれない。
でも、この人とふたりきりにしてしまって大丈夫だろうか。とはいっても、俺は中村さん以外には視えていないのでなにかがあっても助けを呼びに行くことが――――あれ?
俺はこの人のことを知っている。見ていた。あのとき、非常階段から、見ていたんだ。
「————っ」
そうだ。ずっと忘れていた。この人のこと、あの日のこと。
失ってしまっていた最後の記憶のピースが音を立てて、綺麗にはまった。なんて情けない記憶なのだろう。
今すぐにでも逃げ出してしまいたいくらいだけれど、〝今日〟はもう逃げたくない。
「先輩。私、好きな人がいるんです」
「そっか」
「だから、ごめんなさい」
そっか、そうだよな。明るくて前向きで、可愛い女の子。そんな中村さんに好きな人がいてもおかしくない。
中村さんの周りにはいろいろな人がいて、彼女が惹かれるような人だっているはずだ。
それなのに俺は一方的に苦い感情を抱いて、鈍い痛みが広がっていく。
俺はこんな感情を抱く権利なんてないのに。幽霊になって一緒に過ごして、勝手に近くなった気でいた。特別であるかのような勘違いをしてしまっていた。
「がんばれよ」
先輩が去っていくと、中村さんはホッと胸を撫で下ろして力が抜けたようにその場に座り込む。
俺は聞いてしまった気まずさと、中村さんに好きな人がいることへのショック、そして思い出してしまった最後の記憶のことで心の中がぐちゃぐちゃになってしまっている。
中村さんに話しかけられても笑顔がぎごちなくなってしまい、なにかあったのかと心配されたけど「なんでもないよ」としか答えられなかった。
一方的で押し付けがましい感情は俺に戸惑いを与えて、なかなか上手く消化してくれない。
もう時間はわずかだというのに、中村さんと少し距離を置きながら閉会式へと向かった。
***
俺たちのクラスは総合としては三位で終わり、賞品はもらえない結果になってしまった。
打ち上げに参加するらしい宇野さんや竹原さんと別れて、中村さんは俺と一緒に家へと帰宅した。
汗をかいたのでお風呂に入ってくると言っていなくなった中村さんを待ちながら、日が暮れていく空をベランダからぼんやりと眺めていた。
ラムネのような青の空に茜色がぽたりと垂らされたように滲んでいく。あっというまに今日が終わってしまう。
指先を見ると、空気に溶けるように薄くなっていた。ぎゅっと握りしめて、心の中で何度も願う。
もう少しだけ。あと、もう少しだけ。
これ以上わがままは言わないから、最後に彼女と花火が見たい。たとえ、それが全て溶けて消えてしまったとしても。
少ししてラフな部屋着に着替えた中村さんがベランダへとやってきた。空はだんだんと夜を纏い始めていて、あたりが暗くなってきていた。俺のこの身体では風は感じないけれど、木々が昼間よりも揺れているので風が強くなってきたようだ。
「寒くないの?」
「今日は比較的暑い日だったから、平気だよ」
九月下旬ということもあり半袖は肌寒いのではないかと思ったけれど、そういえば今日は夏のような暑さだったらしい。
一応髪の毛も乾かした後みたいだから、そんなに心配はないかもしれないけれど風邪引かないといいな。そんなことまで言ってしまったら、鬱陶しがられてしまうだろうか。
「花火楽しみだねー!」
隣を見れば、空を見上げながら心を躍らせている中村さん。その横顔が可愛らしくて見入ってしまう。中村さんの仕草も表情も、言葉も全部残しておきたい。ここから消えたくない。
けれど、このままではいられないのはわかっている。
「あとちょっとで始まるかな」
もうすぐ夜空に花火が上がる。その前に彼女に伝えなければならない。あの日の真実と、この先のことを。
「あのさ、中村さん」
名前を呼べば、振り向いて続きを待ってくれている。
「話があるんだ」
どれから話すべきか迷ったけれど、まずは戻った記憶に関することから話しておくべきだろう。
「……非常階段から落ちたときのことを思い出したんだ」
「え! 本当に!?」
「俺、あの先輩が中村さんに告白するところを見ていたんだ」
あの日、澪に待っていてと言われて非常階段でクロッキー帳に絵を描きながら時間を潰していた。ふと視線を下げれば、桜の木の下に中村さんがいたから偶然の出来事にすごく驚かされた。
声なんてかける勇気がなくて、時折視線を向けることくらいしかできなかった。そんな俺に次の衝撃がやってきた。中村さんの元に駆け寄る男子生徒は、どうやら待ち合わせをしていた様子だった。
そうだよな。こんな場所に中村さんが一人で来るわけないよな。そう納得しつつも、これから先の展開が予想できてしまって立ち去るべきか迷う。
聞くべきではないのはわかっている。それでも澪が来る可能性もあるし、今歩き出したら音で気づかれてしまうかもしれない。……いや、本当の躊躇している理由は、中村さんがなんて答えるのかが知りたかった。
見るからにかっこいい男子生徒に告白をされたら、彼女は受け入れるだろうか。それとも実は両思いだったりするんだろうか。
そんなことを考えてしまい、やっぱり聞くべきではないと立ち上がった時だった。
『私、先輩とは付き合えません。ごめんなさい』
中村さんが告白を断った。聞いてしまったことへの罪悪感と同時に安堵してしまう。しかし、相手は諦める様子はなく突然中村さん肩を掴んだ。
『こういうのやめてください!』
戦々恐々している場合じゃない。今すぐ助けないと。
嫌がっている中村さんを見て、慌てて階段を駆け降りようとした。
————その時だった。
気持ちが焦ってしまったせいか、雨で濡れていた階段で足を滑らせる。抗いようのない浮遊感に包まれて背筋が凍った。そのまま手すりを掴むことができずに転がり落ちていく。
こんなときにまで俺はかっこ悪い。最悪なことばかり、ダメな自分ばかりが見えてくる。
父さんに反発してまで選んだ道。それでも結果は残せなくて、コンテストには落ちてばかり。兄にも弟にも疎まれて、母さんにも医者を諦めるべきではないと言われる日々。部活の先輩には嫌がらせを受けて、大事に描いていた絵は破かれてしまっていた。
自分の手から持っていたオレンジ色のクロッキー帳と深緑の鉛筆が離れていく。掴みたくても掴む気力がない。
〝お前なんて嫌いだ〟
和人、俺も自分が嫌いだよ。
好きな子すら、助けることができない情けない自分が大嫌いだ。いっそのこと、いなくなれたら楽なのに。消えてしまいたい。消してしまいたい。
————この一ヶ月は特に忘れてしまいたいくらい嫌なことばかりだった。
ああでも、俺の人生がここで終わりだとしたら好きって伝えたかった。たとえ振られてしまうとしても、想いくらい伝えたかったな。
身体は確かに痛みを感じているのに意識は次第に薄れていく。瞼が重たくのしかかるように閉じていった。
これが幽霊になる前の俺の最後の記憶だった。
階段から落ちる直前に強く想ったことが中村さんのことだったから、こうして幽霊になった俺の姿を彼女は視ることができたのかもしれない。
「俺はヒーローになれないやつなんだなって痛感したよ。中村さんが困っているのが見えて、勇気を出して助けに行こうとしたら雨に濡れた階段で滑って落ちちゃうなんてさ、かっこ悪いでしょ。女の子を助けることもできないなんて」
俺は俺でしかなくて、力もなく無様なだけだった。けれど、そんな俺に中村さんが「そんなことない」と大きな声を上げて、反論してきた。
「私は漫画のヒロインじゃないよ。だから、ヒーローなんていらないの」
中村さんはやっぱり眩しい。俺とは違う考え方で、しっかりと自分の道を歩んでいる。
決められた道しか知らなかった俺は、歩き方さえぎこちなくて失敗して立ち止まって逃げようとしていた。
「染谷くんがいてくれればいい。それだけで私は嬉しいの」
俺もそうだよ。中村さんがいてくれればいい。
かっこ悪くて無様な生き方しかできなくても、中村さんが傍で笑ってくれるのなら覚束ない足取りでも進んでいける気がするんだ。
夜に塗り替えられた空に、花火が上がった。
赤と、黄色、青に橙。眩しい光が花開いては、こぼれ落ちて溶けるように消えていく。
次の花火が打ち上がるまでに一瞬だけ訪れる静寂は儚くて、どこか切ない。再び、大きく花火が打ち上がり、唇をゆっくりと開く。
「俺、中村さんのことが好きなんだ」
言うつもりなんてなかった。
花火の音にかき消されてしまってもいい。むしろその方がいいのかもしれない。
これは彼女を困らせるだけの告白なのだから。手に汗を握り、無言の空間をかき消すように言葉を続ける。
「……本当に?」
「ごめん。こんなこと言っても困らせるだけだよね。忘れて」
中村さんには好きな人がいて、幽霊になった俺と一緒にいてくれたのは唯一視える存在だったからだ。特別な感情なんて一つも存在していない。
「どうして、忘れるの?」
「だって……」
「私は忘れたくなんてないよ」
彼女はまっすぐに俺を見つめながら、ほんのりと頬を上気させて微笑んだ。
「私も同じだよ」
聞き間違えかと思い、なにも答えられないでいると中村さんは気にすることなく言葉を紡いでいく。
「四月頃、放課後に初めて話してから、染谷くんのことがずっと好きだったの」
「え……四月頃って……」
思い当たるのは鼻歌を聴かれた日しかない。俺が中村さんを好きになった日だ。
「絵に夢中な姿も、笑うと少し幼く見えるところも、好き」
一歩、中村さんが俺との距離を縮める。
「染谷くんが好き」
夢見たいな返答に固唾を呑む。
「好きなの」
自分の心臓が五月蝿いくらい暴れていることに今更ながら気づいたけれど、幽霊でも心臓の感覚は同じらしい。気温は感じないけれど、鼓動や感情は実体のときとかわらない。
「……それって、俺と同じ意味?」
「うん。男の子として、好きってことだよ」
絶対に起こることはないと思っていた奇跡。俺のことを中村さんが男として好きになってくれることはないと思っていた。
「染谷くんが階段から落ちた日、ずっと染谷くんのことばかり考えていたの。だから、私には姿が視えたのかな」
「それをいうなら、俺も落ちる直前に中村さんのことを考えていたからかもしれない」
お互いに考えていたんだねと笑い合う。
幸せなひとときを感じながら、手すりに置かれていた中村さんの手に指先を伸ばすと、感覚はなくてすり抜けてしまう。精一杯想いを告げてくれている中村さんに俺はなにもできない。
「……こんな姿じゃ、触れることもできない」
「でも、一緒にいられるだけで嬉しい。こうしてたくさん話せるようになれてよかった」
「俺もだよ」とは言えなかった。嬉しいけれど、素直には喜べないことがある。きっとこれは彼女を悲しませる。
「中村さん」
戻りたいのに戻りたくない。けれど、わかっている。もうタイムリミットがきていた。
「もう一つ大事な話があるんだ」
それなのに必死に抵抗してしまう。足掻こうとしてしまう。
「俺さ、元の身体に戻ったら一緒に過ごした日々を忘れてしまうと思う」
夜空に上がった花火が途切れ、街灯の人工的な青白い灯りが中村さんの横顔を照らした。
傷つけてしまうとしても、言っておかなければいけない。幽体離脱している俺の記憶はこうしているうちにもぽろぽろと零れ落ちていっている。
「え……忘れるってどういうこと?」
「九月の記憶を取り戻すにつれて、幽霊になった日のことがだんだん記憶から薄れていっているんだ」
幽霊になってからどう出会ったのかも朧げで、必死に思い出さないとわからないこともでてきている。
きっと元の身体に戻ったら、消えて無くなってしまう予感がする。
「忘れたくない。でも……中村さんに触れることすらできないのは嫌だなんて我儘だよね」
過ごした日々を残しておきたい。きっとこの告白も消えてしまう。そんなの嫌だ。
今、目の前にいるのに。話ができているのに。
一緒に過ごした日々をなかったことになんてしたくない。
「それでも、染谷くんには生きてほしいよ」
目にはいっぱいの涙を浮かべながら、中村さんは真っ直ぐな言葉を俺にくれた。
「たとえ、幽霊になってからの出来事を忘れてしまっていても」
「けど……このことも全部忘れるかもしれないんだよ。中村さんにもらった言葉も……全部」
「私は覚えているから。また何度でも話しに行くよ。染谷くんのことを忘れたりしないよ」
忘れたくない。傍にいたい。
中村さんがくれた言葉を、思い出を、笑顔を記憶に焼き付けておきたい。
それなのに、俺の身体は少しずつ薄くなっていく。もう、時間がない。
「今度は私が会いに行く。……好きって伝えに行くよ。だから、待っていてくれる?」
「記憶がない俺と話すのは辛いかもしれないよ。それでもいいの?」
目覚めた俺が覚えていなかったら、辛い思いをするのは中村さんだけだ。それなのに中村さんは楽しげに笑って、声を弾ませる。
「むしろ、染谷くんは突然片想いの子から積極的に近づかれてドキドキしちゃうかもね」
「そうだね。きっと夢かと思うよ」
「だから、待ってて?」
「……うん」
本当は約束なんてできない。覚えていないかもしれない約束をしたところで、中村さんを傷つけるだけだ。
それでも願わずにはいられない。また中村さんと一緒に過ごしたい。今度は幽霊なんかじゃなくて、触れることが叶う自分で隣に立ちたい。
「なんでも一つ、お願い叶えてくれるんだよね?」
そうだ。まだシュートを決めた約束を果たしていない。
「うん。俺にできること、ある?」
「あるよ」
残された時間で叶えることができるかはわからないけれど頷くと、中村さんは満足げに微笑んで背伸びをした。
「えっと」
近づいてきた顔に意味がわかり、恥ずかしくて硬直する。誤解だったらどうしようかと思ったけれど、中村さんが照れくさそうに口を尖らせた。
「……言わせるの?」
「いいの?」
「いいの」
早くと急かすように中村さんが目を閉じた。それに応えるように屈んで顔を近づける。
温度も、感触もない透明なキス。
だけど、このとき確かに重なった。たとえ、俺の記憶には残らないとしても。それでも大事な瞬間だった。
好きだよ。
俺は中村さんのことがあの日から好きだった。
こうして透明になって一緒にいて、更に好きになっていった。
「染谷くん……」
「もう時間みたいだ」
酷く傷ついた出来事はたくさんあった。身体に戻っても、きっといいことばかりではない。向き合わなくてはいけないこともたくさんある。
でも、俺の人生だから。下ばかり向かないで、前を向いて自分で自分を幸せにできる道を選んで生きていきたい。
嫌なことも悲しいことも含めて今の自分を作っていて、そんな俺が描いた絵を彼女が好きだと言ってくれた。
だから、俺は俺でよかったと初めてそう思えたんだ。
「っ私、絶対に会いに行くから! 待ってて!」
薄れていく視界の中で目の前の彼女に伝える。
「ありがとう」
俺の傍にいてくれて。好きになってくれて。幸せな時間をくれて。
視えるのが中村さんでよかった。
瞬きをすると、意識がそこで途絶えた。




