君が消えた日
「 」
声にならなかった言葉は空気に溶ける。
空が反転し、ひやりとする浮遊感を覚えながら、行き場の無い感情と共に鈍い音を立てながら落ちていった。
一瞬だけ視界に映り込んだあの人を想って、そっと目を閉じる。
こんなことになるのなら、伝えればよかった。
あのときから、ずっと————
***
君が好きだった。
窓際の一番後ろの席。そこに君は座っていて、クロッキー帳を広げて鉛筆を握り、一人黙々と絵を描いている。
柔らかな春風がカーテンを揺らすと、君の黒髪も追いかけるように揺れる。
近づきたいけど、近づけない。そんな雰囲気を纏っていて、勇気が出ない私はなかなか声をかけられなかった。声をかけた後の反応を想像して、怖気付いて躊躇してしまう。
君は人と話すよりも一人でいることが多い男の子。
ネクタイは上までしめていて、ワイシャツの第一ボタンもきちんと留めてある。まるで見本のような制服の着こなし。
クラスのみんなでの遊びや打ち上げは必ずといっていいほど不参加。口にチャックでもついているんじゃないかって疑うくらい友達と談笑しているところを見たことがない。授業中だって、先生に当てられなければ発言もしない。
目にかかりそうなくらい長めの前髪の隙間から見える瞳がいつも向き合っているのは、人ではなくて真っ白な紙と黒い鉛筆。
愛想笑いをしない。無理に人の会話に合わせない。人の顔色をうかがわない。
全部私とは違うものを持った彼。
対して私は何回も折った制服のスカートに、だらしなく緩めたネクタイ。
ワイシャツだって第二ボタンまで開けていて、髪の毛も人工的に明るく染めてしまっている。
友達の恋愛話に笑って、昨日のバラエティ番組の話をして笑って、目がチカチカしそうなくらい情報が集められた雑誌の特集を見て笑いあう。
取り残されないように目まぐるしく変化していく女子高生の話題に時々息が詰まりそうになりながらついていく。
一人は怖くて、誰かと一緒にいることに安心していた。
小さい頃はなんでもできるような気がしていたのに、いつの間に私はこんなに脆くなってしまったのだろう。
何もかもが中途半端で、興味を持ってもなかなか継続ができない。
描いた夢を途中で放り出して、適当なものに埋もれながら過ごしていた。いつか自分に合った夢中になれることに出会える。そんな希望を抱きながら、続ける努力をしなかった。
そんな私だから、君に惹かれたのかもしれない。
***
それは桜が葉桜に移り変わりはじめた四月半ばだった。
掃除当番の仕事が終わり、靴を履き替えて帰ろうとしたときノートを教室に忘れてしまったことに気づいた。
まだ階段を上がるのは面倒なので、このまま帰ってしまいたいと一瞬思ったけれど、翌日には小テストがある。家で予習をしておかないと後で困ることはわかっていたので、仕方なく教室へと戻ることにした。
生徒はほとんど帰ってしまっていて、逆走しているのは私くらいだ。
階段を上りきり、少し脹脛の疲れを感じながら廊下を進んで行く。通過した教室はどこもドアが閉まっていたのに対して、私のクラスのドアは開いたままだった。
足を止めて中を見渡す。すると、電気のつけられていないその場所に男子生徒が座っていた。
窓枠にはめられた青空のスクリーン。春風に誘われて白いカーテンが揺らめく。目を閉じ、柔らかな鼻歌を奏でながら君は心地よさそうに微笑んでいた。
心臓が大きく跳ねる。
それまでは目立たないクラスの男の子としか思っていなかった。
そんな男の子の印象が一気に塗り替えられる。
目を見張り、下唇を噛み締める。そうでもしないとなにかが溢れ出てきそうだった。
吸い込んだ空気が鼻を突き抜けて肺までたっぷり落ちてくる。私の心臓はぎゅっと握られたかのように苦しくて、切ない収縮を繰り返す。
音にしたら、きっとドキドキとありきたりな擬音語になってしまうくらい私はわかりやすく恋に落ちてしまった。
知らない一面を見てしまったから?
初めてまじまじと顔を見たから?
空を背景に微笑んでいる君が綺麗だったから?
————多分全部だ。
このとき、この瞬間の全てが私の心を掴んでしまった。
私の持っていないなにかが存在している。形容しがたい感情がじわりと浸透して、心を震わせた。
唇からわずかに吐息が漏れて、少しだけ動いたつま先が床と擦れ合ってキュッと高い音を出してしまった。
君は慌てて振り向いて、私の存在に気づくと鼻歌をやめて恥ずかしそうに俯いた。鼻歌が終わってしまったことを少し残念に思いながら声をかける。
『一年のときの合唱祭の課題曲だね』
【木漏れ日】。クラスが違っていてもみんな必ず歌った合唱曲だ。
それを君は鼻歌に乗せていた。楽しそうに、心地よさそうに、自由に奏でていた。
去年、私がまだピアノを習っていたときに弾いた曲。今ではもうピアノに触れることすらない。じわりと苦い記憶が蘇ってくる。もう終わったことなのに。
『き、聴いてた?』
私が話しかけたことに驚いた様子で顔を上げた君が、照れくさそうに微笑んだ。
『聴こえちゃった』
『……下手くそだったでしょ』
『ううん。綺麗だった』
お世辞なんかじゃない。本当に綺麗だった。それに彼の別の一面が見ることができた気がして、嬉しい。けれど、彼は眉を下げて控えめに首を横に振った。
『そんなわけないよ。音外してたし』
『すごく綺麗で楽しくて、眩しかった』
安易な言葉を並べただけみたいになってしまったけれど、率直な感想だった。普段教室にいる君は制服という鎧に自分を押し込めて、感情を見せずに光を浴びずにいるように見えていた。
けれど、ここにいる君は違った。
自由にのびのびと、自分の席に座っている。
ネクタイだって上までしめられていて、ワイシャツのボタンだって第一ボタンまでしっかりと留められている。服装も髪型もいつもと変わらないのに違って見えるのは何故だろう。
『中村さんの方が眩しかったよ』
君の言葉の意味がわからず、目を丸くして首を傾げると可笑しそうに君が笑う。
『一年の頃に弾いてた合唱祭の伴奏すごく綺麗だった』
『……楽譜見ながらただ弾いただけだよ』
習っていたから弾けただけだ。特別上手いわけでもない。私よりも上手く弾いていた人なんてたくさんいる。
才能がないとわかって、放り出すように辞めて、今はなにも残っていない。
『全クラス課題曲として弾いていたけど、中村さんのピアノが一番綺麗だったよ』
————結局こういうのは才能なのよ。
自分には才能がないという現実を突きつけられて、悲しくて虚しくて、でもやっぱりかって納得してしまった自分がすごく嫌だった。
それなのに彼は私のピアノが好きだと言ってくれている。
初めてもらう言葉は嬉しくて、少しだけくすぐったくて、ふわふわと浮かんでいるみたいに心の中を漂う。
『俺、ピアノ弾けないから憧れて、ちょっと練習してみたけど全然ダメだった。難しいね』
そんな顔をして笑うんだ。
目を細めて顔をくしゃっとさせて、つり上げられた唇の間から八重歯がちらりと見える。子どもみたいな可愛らしい笑顔。
ああ、そっか。放課後の彼は表情や醸し出す雰囲気がいつもと違っているんだ。
『今年の合唱祭も楽しみにしてる』
『……えっと、今年は』
弾くかはまだわからない。同じクラスに弾ける人がいるのなら、私は弾かないつもりだった。
『俺、中村さんのピアノのファンなんだ』
熱い感情が全身に駆け抜ける。
まるで今まで血が通っていなかったかのようにドクドクと流れて、伝って、溢れてしまいそう。
今までとは違う特別な感情に気づいてしまった。
胸がぎゅうっと切なくなって、彼から目が離せない。
けれど、私の秘めた想いにきっと君は気づかないだろうな。君が見ているのは私でもクラスの人でもない。
真っ白なクロッキー帳を見つめている。同じ場所にいるのに立っている場所が違う。見つめている方向がまったく違う。
始まった瞬間からわかってしまった想いはほろ苦さと炭酸のようにシュワシュワとした爽やかさを纏って胸にやってきた。
それなのに————君は目を閉じたまま動かなくなってしまった。
***
その日は最悪だった。夜遅くまで漫画を読んでいたせいで、家を出る十分前に目が覚めてしまったのだ。
「何度も起こしたのよ」
「もっと強引に起こしてよー!」
「はいはい、ほら急ぎなさいよ」
お母さんに呆れられながらも、慌てて制服に着替える。メイクも適当に済ませてパンも食べずに家を出た。
猛ダッシュしてギリギリ間に合ったけれど、髪は乱れて朝からどっと疲れてしまった。
授業が始まると私のお腹の虫が自己主張をし始める。
席が近い人たちには聞こえてしまったらしく、笑われてしまった。恥ずかしくて必死に空腹に耐えてお腹にばかり意識がいってしまい、授業にはまったく集中できなかった。
やっとお昼の時間になり、急いで購買まで行き手に入れたパンを三つほど平らげる。
空腹すぎて頭がおかしくなっちゃうかと思った。やっぱり朝ごはんは大事だ。コロッケパンに、クリームパン。締めは大好物のシナモンロール。これでなんとか午後もやっていけそう。
「朱莉、食べ過ぎじゃない?」
「さすがに三つもパン食べれないわ。よく気持ち悪くならないね」
空っぽになったパンの袋を見た花音と宇野ちゃんに呆れられてしまった。
「朝ごはん食べてなかったんだよー! それにさ、購買のパンすっごく美味しいんだよ。特にシナモンロールが最高なの!」
「それでも食べ過ぎっしょ」
宇野ちゃんは野菜ジュースのパックを飲みながら、最近染めたばかりのイエローブラウンの巻き髪を指先でくるくるとさせる。
そういう宇野ちゃんは食べなさすぎだ。お昼ごはんが野菜ジュースってそんなのお腹の足しになんてならない。
「いやでも、シナモンロールは特別だよ!」
シナモンロールの美味しさはもう何度も伝えているから、ふたりは聞き飽きてしまったらしくて適当に「はいはい」とあしらわれてしまった。
「そういえばさー、こないだ元彼から連絡が来たんだよね」
「え、それって宇野ちゃんが二ヶ月くらい付き合ってたって人?」
「うん。やっぱお前がいいとか言ってきて、ありえなくない?」
元彼から連絡がくるだなんて、私には未知の内容だ。高校二年生にして、まだ彼氏が一度もできたことがないのだ。
経験談とかがない私には上手い言葉の返しが思い浮かばないので、恋愛話のときは大抵相槌係。少女漫画から得られるような夢いっぱいの知識しかない私には元彼問題なんて特に難しくて別世界の話みたいだ。
「しかもさー、お互いもっと大人になろうとか、なんで上から目線なのかなー」
確か宇野ちゃんの元彼は大学生で、デートをドタキャンされることが度々あってもめて別れていた。
相手にもなにか事情があったのかもしれないけれど、ドタキャンされたときの宇野ちゃんはすごく寂しそうだったのを覚えている。
両思いなんて私には奇跡のように思えるけれど、現実問題は付き合ってからも大変なことがたくさんあるんだろうな。
「宇野ちゃんとその人は結局合わないんじゃないのかな」
「まあ……そうなんだろうね」
「もっといい人いるって」
花音が宇野ちゃんを宥めるように優しい口調で言うと、「次の恋見つけよ」と励ました。
「だね! 次こそいい人見つける!」
意気込んでいる宇野ちゃんと隣で微笑んでいる花音を眺めながら、頭の中に疑問符が浮かび上がる。
恋って、どうやって切り替えるんだろう。報われなさそうな私の恋はどう頑張ったらいいのか、どう諦めたらいいのかどちらもわからなくて同じ場所を右往左往している。
私の好きな人の話をふたりにはしたことがない。
同じクラスの人だし、恥ずかしくて話しづらいっていうのもあるけど、恋愛話ってちょっと苦手だった。
宇野ちゃんや花音以外にもクラスの女子数人で集まって喋っていると決まって恋愛話になり、誰かのする彼氏や好きな人の話に対して、みんな口々に「わかる!」と声を弾ませる。
恋愛経験自体もあまりない私には共感する点がわからなくて、いつも中学の頃は部活ばかりで恋愛してこなかったと言ってかわしている。
別に嘘というわけじゃない。本当に中学の頃は部活漬けの毎日だった。
その中で好きになった男の子だっていたけれど、今になって思うのは、あれは恋と呼べるほどではなかったのかもしれない。
だって、彼に恋をしたとき————あんな感覚は初めてだった。
ちらりと窓際に視線を向ける。今日も彼は一人黙々とクロッキー帳に向かって絵を描いているようだった。
その横顔に胸が高鳴る。真剣な表情も、時折優しげ眼差しになるところも、私の視線を奪っていく。見るたびに好きだと自覚して、緊張して話しかける勇気が出ない。どんなことを思いながら描いているんだろう。
席替えしないかな。もっと近くの席になりたい。そしたら、話しかけるきっかけができるかもしれないのに。
「そういえば五組の子が言ってたけど、英語の小テスト今日返ってくるらしいよ。しかも、再テストの人もいるんだって。花音やばいんじゃない?」
「えー、やだなぁ。私、英語は本当無理なんだけど」
英語が苦手の花音がぐったりと机に伏せた。英語が得意な宇野ちゃんは余裕そうに笑っている。
「朱莉は大丈夫なんじゃない?」
「んー、いい点数ではないだろうけど、普通くらいじゃないかな」
英語は得意でも不得意でもなく、常に平均点くらいだ。「羨ましすぎ!」と顔を上げて不服そうに言ってきた花音の頭を軽く撫でる。
「とりあえず午後を待とう、花音。もう点数変わらないし」
「……朱莉、地味にひどい」
宇野ちゃんと花音と喋っていると、携帯電話がスカートのポケットの中で震えた。画面を確認すると新着メッセージのマークが浮かんでいる。
メッセージを開いてみると送り主は体育祭の応援団で一緒だった一つ上の先輩。急な放課後の呼び出しの内容にある予感が胸によぎった。
勘違いかもしれないとは何度か思っていたけれど、なんとなく特別視されている気はしていた。だから、先輩に呼び出されたことに驚いたというよりも、今日その日を迎えてしまうのかということに驚いた。
案外時間が経ってからのアクションだ。もう私のことなんて気にしていないかと思っていた。
紙パックに入ったレモンティーをストローで吸い上げながら、液晶画面に羅列された温度の感じない文字をぼんやりと眺める。
『話がある。放課後、校舎裏の桜の木があるところに来て』
校舎、裏?と首を捻る。体育館へ続く渡り廊下から校舎の隣に桜の木が見えるので、おそらくあの場所のことだろう。
校舎の表は私たちが普段学校へ入る門がある場所だけど、裏は正しくは校庭だ。
この高校は校舎を突っ切った裏側に校庭があるのだ。だから、桜の木がある場所は正しくは校舎裏ではなく、校舎横というべきなのかもしれない。
私には正しい呼び方はわからないけれど、あの場所であることは間違いないはずだ。
「なになに、朱莉―。なんかあった?」
「え、なんで?」
「呼び出しでもされた?」
にやにやとしている宇野ちゃんは明らかになにか知っている様子だ。こんなピンポイントに〝呼び出し〟なんて言葉が出てくるのはおかしい。
「呼び出しって……もしかしてついに!?」
なぜか花音まで浮かれ出した。ふたりは私が誰に呼び出されたのかわかっているみたいだ。
「ちょ、ちょっと待って! なんでふたりとも知っているの?」
「だって、先輩見てればわかるし」
「そうそう。もう朱莉狙っていますアピールすごかったよね!」
自分でも可愛がってくれているのは感じていたけれど、周囲にも伝わっていたようだった。けれど、私が聞きたいのはどうしてふたりがこのタイミングで呼び出しの相手が先輩だということがわかったのかだ。
「……もしかして、先輩からなにか聞いてた?」
「んーまぁ、近いうちに〜ってちょっと聞いたくらいだけどね」
宇野ちゃんは言葉を濁していたけれど、呼び出しの理由は私の予想通りのことなのだろう。告白されるってわかっていて、待合せ場所に行くのは緊張する。
「遠藤先輩ってさ、かっこいいよね。結構人気あるらしいよ」
花音の言う通り遠藤先輩はモテる。私たち二年生からだけではなく、同学年の人からも度々告白をされているらしい。運動神経も良くて見た目も華やかで面倒見もいい人なので、私も素敵な先輩だなと思っていた。
「どうすんのー、朱莉!」
「……私は」
窓際の方向に視線を向けると、彼は相変わらず鉛筆を握って絵を描いているようだった。その横顔を見ているだけで心臓の鼓動が高鳴っていく。それだけで答えが出ているようなものだ。
「今はそういうのいいかな」
「そっか。まあ、こればっかりは仕方ないよね」
宇野ちゃんがちらりと彼がいる窓際を見た気がしてどきりとした。私が見ていたことに気づかれていませんようにとひっそりと願う。
彼の視界に映っていないことくらいわかっている。私はただのクラスメイトで、彼にとってそれ以上でもそれ以下でもない。だけど、諦めることなんてできない。遠くから眺めているこの距離から、一歩でもいいから進みたい。
「付き合ってみて、好きになるっているのもアリだとは思うけどねぇ」
「花音はそれでいつも失敗してんじゃん」
「失敗じゃなくて、単に性格が合わなかっただけですー」
恋の仕方に決まりなんてなくて、花音のような恋のはじめ方も決してダメではないのだと思う。私みたいに一歩すら踏み出せずにいる恋はいつまでも日陰でひっそりとしているだけだ。
近づきたい。話したい。きっかけを必死に探すけれど、まったく見当たらない。
「朱莉さ、好きな人とかいて協力してほしかったらいつでも言ってね」
宇野ちゃんが頬杖をつきながら優しく微笑んだ。
一瞬、心を見透かされたのかと思った。けれど、接点が全くない彼のことを好きだなんて気づかれてはないはずだ。私に好きな人がいると思っているのか、もしもの話をしているのはわからないけれど、出かかった言葉を閉じ込めて微笑みを返す。
「うん。ありがとう」
いつかはふたりにも私の好きな人のことを打ち明けたい。けれど、知られてしまった後のことを考えるとどうしても恥ずかしいという気持ちが勝ってしまう。
「ちょっと飲み物買ってくるね」
彼が席を立ったタイミングで私も廊下に出てみる。声をかけることができないまま、遠くなる背中を見つめるだけしかできなかった。
***
放課後、掃除を終えると先輩との待合せの時間が迫ってきていた。
「朱莉、がんば!」
なぜかガッツポーズをしている花音に、宇野ちゃんが「朱莉が告るんじゃないんだから、がんばらないでしょ」と呆れてツッコミを入れた。
「まあ、あまり気負わずにね」
宇野ちゃんに軽く頭を撫でられて、緊張が少しだけ解けていく。けど、きっと私よりも伝える側の先輩の方が緊張しているはずだ。私も精一杯の気持ちで応えなくちゃいけない。
「ありがとう。じゃあ、また明日ね」
花音と宇野ちゃんと別れて、人がまばらな廊下を前進していく。
一階まで降りると、待ち合わせをしている生徒や靴を履き替えるあたりで談笑している生徒たちがいて、楽しげに騒いでいる。黄色のラインが入った上履きは一年生だ。
人目を気にせず笑ったり、悲鳴のような大きな声を上げたり歌い出したり、こうして一つ違いの上級生という立場で見ていると、去年の自分たちもこう見えていたのかもしれないと考えるとなんともいえない恥ずかしさがこみ上げてくる。
私たちも一年生のときは今よりテンションが高くて騒いでいたから、よく先生に怒られていた。誰かが歌を口ずさむと、それを聞いた人が一緒に歌い出したりもしていた。
そんな日常が一年のうちはあった。けれど、誰かが言い出したわけでもなく、自然とみんな落ち着いていった。
最初は大きかったグループも次第にばらけていき、騒げば騒ぐほど浮いてしまって、気の合う少人数で行動を共にするようになっていく。今では好き放題騒げるのは行事ごとのときだけな気がする。
廊下を突き抜けた先にあるガラス製のドアを開けると、秋の到来を感じさせる温度が少し低めの風が私のつま先から頭のてっぺんまでを包むようにすり抜けていった。
九月下旬ともなると少し前までの蒸し暑さが嘘のように消えている。体育館まで繋がっているむき出しの渡り廊下には、小枝や乾いた葉が転がっていた。
ずっと先の方にある校庭に視線を向けると、陸上部やサッカー部らしき生徒たちが急いで準備運動をしている輪の中に入っていくのが目に止まった。おそらく掃除を終わらせてきた生徒たちだろう。
この高校では出席番号順でグループを決められて、ローテーションで掃除場所をわり当てられる。だから、みんな掃除か終わらないと部活動へはいけないため、運動部は我こそ先にと素早く掃除を終わらせる人が多い。
渡り廊下の先にある体育館からホイッスルが鳴った音が聞こえて懐かしさに足を止める。中学の頃はあのホイッスルの音を聞きながら部活動に励んでいた。
高校ではピアノに専念しようと思ってバスケ部には入らなかった。けれど、結局ピアノも昨年末に辞めてしまった。今の私にはなにも残っていない。
二年生になってはじめて参加した体育祭の応援団は楽しかったけれど、それももう終わってしまった。
こうして自由な時間があるのだからなにかをしたいけれど、なにも思いつかない。ただなんとなく毎日を過ごしているだけだ。
目の前に道を作っている渡り廊下からあえて逸れて、コンクリートの上へと上履きのまま足を踏み入れる。
昨夜は雨が降っていたからか、少し独特な匂いが立ち昇って顔を顰めた。
今日も午後から雨が降ると天気予報は告げていたけれど、どうやら外れたみたいだ。空は青を纏って、緩やかにまばらな雲が流れている。
普段は木の上ばかり歩いている上履きでコンクリートの上を歩くのは、ちょっと悪いことをしている気分。私の悪いことってスケールが小さすぎるかもしれない。
九月の桜の木は当然淡いピンク色の花は身につけておらず、黄緑色の葉を纏って秋風に揺らされて重なりあっている。
その音に耳を澄ませながらまだ誰もないことを確認し、桜の木に身体を預けた。
優しい音色に心地よい温度の風。ゆったりとした放課後の時間が至極贅沢な気がしつつも、瞼が少し重たくなってくる。
少しして私の微睡みを掻き消したのは、聞き覚えのある声だった。
「悪い、遅れた!」
駆け寄ってきた遠藤先輩はポケットから携帯電話を取り出して、時刻を確認すると金色に近い髪をがしがしと掻いた。
一瞬だけ見えた携帯電話のディスプレイに記された時刻は、待ち合わせ時間から十五分くらい過ぎていたけれど、心地よくこの空間に浸っていた私にはあっという間の十五分だった。
「だいぶ待たせたよな?」
「いえ、大丈夫ですよ」
緊張しながらここまできたけれど、待っていた時間は苦ではなかった。むしろこの陽気が心地よくて、微睡んでいたほどだ。
目の前に立つ遠藤先輩の表情が真剣なものへと変わっていく。
「あのさ、中村」
先輩の声は低め。制服もほどよく着崩していて、顔立ちも目を引く方だ。
「もう薄々勘付いていると思うけど」
明るくて社交的だから、後輩たちの間では人気のある先輩の一人。
「俺と付き合わない?」
多分、この人と付き合ったら羨ましがられる。嫉妬もされるかもしれない。そのくらいカッコ良くて人気者。だけど、私の心臓のリズムはいつも通りで全く乱されない。
少女漫画で得たときめきも憧れも、現実を前にすると泡のように消えていき、初めての告白だというのに私は冷静だった。
「体育祭の応援団とかでもさ、一緒にいて楽しかったし、趣味も合うだろ」
ぽたりと、疑問が心に落ちてくる。
私の趣味ってなんだっけ。ギターとかバスケとかいろいろなことに手を出したけれど、続けられているものなんてない。好きだったピアノも逃げるように辞めてしまった。
先輩はどれを趣味と認識しているのだろう。
「先輩、私」
「結構俺ら合うと思うんだけど」
言葉が遮られて、さらに心が冷えていく。この感情の理由なんてわかっている。好きと言われない告白。自信に満ち溢れた瞳。
あっさりとしていて想いがあまり伝わってこなくて、本当は私じゃなくてもいいんじゃないかと思ってしまいそうなほど、遠藤先輩は淡々としている。
告白ってこういうものなのかな。照れたり、緊張したりするものじゃないのかな。私が夢見がちだったのかな。
「どう?」
それに遠藤先輩は彼じゃないから、私のスイッチは入らないんだ。彼の声は柔らかくて、繊細で透明感がある。それに優しい話し方をするんだ。
告白をされているのに浮かんできたのは彼の姿で、申し訳ない気持ちがこみ上げて少し冷えた指先を手の内側にぎゅっと握る。答えなんて最初からでていた。
「遠藤先輩」
ほんの少し、喉が痛い。緩やかに吹く風が私の髪を一束攫い、視界を遮ろうとしてくる。手で髪の毛を押さえて、目の前の先輩を見上げると自信たっぷりな表情で微笑んでいた。
「私、先輩とは付き合えません。ごめんなさい」
先輩の表情が変わるのが怖くて、咄嗟に頭を下げた。
告白を断るのは初めてで、緊張から少しだけ心臓の鼓動のリズムが乱れる。告白をされてドキドキするんじゃなくて、断ってドキドキするだなんて変な感じだ。
上の方からぽつりと言葉が降ってきた。
「なんで?」
弾かれたように頭を上げると、訝しげに首を捻っている遠藤先輩と目が合う。
「え、なんでって……」
「なんでダメなの?」
返ってきた言葉があまりに予想外で握っていた手のひらから力が抜けていく。告白を断った理由を聞かれるとは思わなかった。
「あの、私……え!?」
突然肩を掴まれて、至近距離で真剣な表情を向けられた。わけがわからなくなって、全身が石みたいに固まっていく。
告白を断って、理由を聞かれて、力強く肩を掴まれている。頭が混乱して、どう返答するべき言葉が思い浮かばない。
「あ、あのちょっと、先輩。離してください」
「中村」
吐息がかかるくらいの近さに嫌悪感が全身に駆け巡る。
「ちょ、遠藤先輩!」
慌てて遠藤先輩の腕を引き剥がそうと試みるけれど、力が強くてうまくいかない。
「こういうのやめてください!」
遠藤先輩は自分に自信がある人だ。かっこよくて人気がある。きっと今までだって何人もの女の子に告白をされてきたのだろう。
それでも必ずしも女の子が遠藤先輩のことを好きになるわけじゃない。
私だってかっこいいなって思っていた。一応憧れっていう感情もあった。それでも恋愛感情の好きではない。
私の好きな人は別に————
その時だった。
重量のある〝なにかが落ちた〟ような音がした。
顔だけ音がした方へと向けると、すぐそばにある非常階段の二階に人が倒れているのが目に止まった。
ここからはよく見えなくて誰なのかはわからないけれど、だらりと手首が柵の間から落ちて、ぴくりとも動かない。全身が粟立ち、血の気が引いていく。
「え……なんだ、今の音」
遠藤先輩も呆然と非常階段の方を見つめていて、力が緩んでいたのでその隙に押し返して走り出した。
「ちょ、中村!?」
非常階段を駆け上がる。校舎の中とは違い、鉄骨階段を一歩ずつ登っていく音が場違いなくらい軽やかに響く。
向こうから見えたとき、動いていなかった。意識がなかったら、職員室まで先生を呼びに行くべきか、それとも保健室まで走るべきか。頭を強く打っているかもしれない。先に職員室へ行って、大人の手を借りに行くほうがいいのかもしれない。
頭の中でぐるぐると焦りと不安が入り混じりながらこの先のことを考えていると、人が倒れている二階まで辿り着いた。
片方だけ転がっているローファーを辿って、倒れている人物の顔を確認する。
「え……」
まるで眠っているように動かない黒髪の男の子。すぐそばにはオレンジ色のクロッキー帳と深緑の鉛筆。冷や汗が背筋に滲み、冷たい空気が鼻から肺に流れ込んでくる。
「そめ……やくん……?」
震えた声は自分のものだった。
心臓の鼓動が嫌なくらい加速して、呼吸が浅くなっていく。彼の手に触れると温かくて、きちんと人の感触がして、これが現実なのだと突きつけられる。
「染谷くん! 染谷くん!」
名前を呼んでも全く動かない。
目の前で眠るように倒れている男の子は、私のクラスメイトで、窓際の端っこの席で、いつも絵を描いていて、美術部で――――私の好きな人だった。
立ち上がって、未だに先ほどの場所に立ち尽くしている遠藤先輩に声をかけた。
「染谷くんのこと見ていてください! もしかしたら目を覚ますかもしれない」
我に返った様子の遠藤先輩の目と視線が重なる。
「私は先生たち呼んできます! だから、お願いします!」
早く。早く行かないと。
焦る気持ちを抑えつつ、遠藤先輩に染谷くんのことを頼み駆け出そうとすると、「待て」と体育祭の応援団の頃を思い返すような遠藤先輩のはっきりとした響く声が聞こえて動きを止める。
「俺が行ってくる」
「でもっ」
「俺の方が足速いから。中村はそこにいろ!」
私の返答を聞かずに遠藤先輩が走っていったのを確認して、その場にへたり込む。
鼻のあたりに手を添えてみると、呼吸をしていてホッと胸をなでおろす。けれど、この状況は意識を失っているということだ。頭を強く打っている可能性が高い。
「染谷くん……」
ぽたりと生暖かい涙が頬を伝い、手の甲に弾ける。
目を開けて。私まだ話したいことがたくさんある。知りたいこともたくさんある。大丈夫だよね。目を開けるよね。すぐにいつも通りになるよね。
先生たちの到着を待っていたふたりきりの時間は酷く長く思えた。
近くに転がっているオレンジ色のクロッキー帳と深緑の鉛筆に手を伸ばす。彼がいつも使っているものだ。それを抱きしめるように胸元に引き寄せて、もう一度名前を呼ぶ。
「染谷くん」
けれど、返事はなかった。息をしているはずなのに、目を開けてくれない。
少ししてたくさんの足音が聞こえてくる。涙が止まらなくて、身体に力が入らない私は振り向く気力すらなかった。こうしている間も染谷くんは目を閉じたままピクリとも動かない。
「大丈夫!? 立てる?」
「貴方は怪我ないの!?」
多分話しかけてきているのは先生たちだと思う。
「倒れている子は誰? 状況説明できる?」
いろいろ聞かれているのに言葉が出ない。喉がからからに乾いて、痛みを感じる。なにから話せばいいんだろう。けれど、私は大したことは知らない。
倒れているのはクラスメイトの染谷くんで、どうして階段から落ちたのかはわからない。
「倒れているのは、うちのクラスの染谷です」
聞き覚えのある声がした。いつも気だるげに話している担任の豊丘先生の声が今は少し強張っているように聞こえる。
「中村、立てるか?」
座り込んでいる私の肩に骨ばった手が乗せられた。
「状況は遠藤から聞いた」
「せ、ん生……」
乾いた喉がひりひりと痛む。やっとの思いでだした声は弱々しいくらい掠れていた。
「染谷くんが……っ」
涙が溢れて目の前がよく見えない。倒れている染谷くんの姿が滲んで、消えていってしまう。
夢であってほしい。そんなことを思いながら、染谷くんへと伸ばそうとする手を誰かに掴まれた。
「中村、後は大人に任せてお前は一旦保健室で休んでおけ」
先生、染谷くんは助かるよね? すぐに目を覚ますよね? 気を失っているだけだよね? 聞きたいこと、言いたいことはたくさんあったけれど、どれも喉元につっかえてむせび泣くことしかできなかった。
近くにいた女の先生に支えられながらゆっくりと非常階段を下って行くと、遠藤先輩が近寄ってくる。先輩はなにも言わずに、ただ私の頭を軽く撫でただけだった。
私はそのまま先生に寄り添ってもらいながら保健室へと連れて行かれる。自分の身体が思うようにいうことをきかずに、よろけてしまうのは初めてのことだった。そのくらい私にとってショッキングな出来事で、力が入らなくなってしまっているみたいだ。
保健室のパイプ椅子に座らされて、目の前のテーブルに麦茶が置かれた。
「麦茶しかないけど、よかったらどうぞ」
「……ありがとうございます」
手に持ったオレンジ色のクロッキー帳と深緑の鉛筆を隣のパイプ椅子の上に置く。勢いで持ってきてしまった。あとで返さないと。————でも、そのあとではいつくるのだろう。
グラスを両手で握りながら、口元へ持っていく。冷蔵庫で冷やされていた麦茶が乾ききった口内を潤してくれた。
「落ち着いた?」
養護教諭の水野先生が心配そうな表情で私を見つめている。取り乱してしまった自分を思い返して、顔を隠すように俯いた。
「先生……染谷くん、頭強く打ったのかな」
「……まだわからないわ。救急車を呼んでいるから、すぐに病院に運んでもらえるはずよ」
階段から落ちて倒れていた染谷くんからは血が出ていないように見えた。けれど、意識がないということは頭を強く打った可能性が高い。それにもう一つ気がかりなことがある。
「手、大丈夫ですよね」
「手? どういうこと?」
「染谷くん、絵を描いているから……手を怪我していないか心配で」
意識を取り戻しても、手に怪我を負っているかもしれない。それがすぐに治る傷ならまだしも、残ってしまう傷にでもなってしまったら彼は絶望するかもしれない。あんなにも夢中になりながら絵を描いていた彼から絵を奪うことだけはしないでほしい。
いつもは神様なんて信じていないのに今は願ってしまう。
「まだなんとも言えないわね。けれど、目覚めたらすぐに連絡が来るはずだから、今は待ちましょう」
「……はい」
「それと、中村さんも今日はゆっくり休んだほうがいいわ」
私がここにいてもできることはなにもない。今できることはおとなしく家に帰ること。
「そうそう、これ中村さんのカバンよね? さっき遠藤くんから預かったのよ」
「あ、私のです。ありがとうございます」
遠藤先輩を待っていた場所にカバンを置いていて、染谷くんのことがあったから放ったらかしにしてしまっていた。カバンのことを忘れてしまうくらい動転してしまっていたみたいだ。
「麦茶、ありがとうございます。私、そろそろ帰ります」
「立てる?」
「……はい」
まだ少し力が入らないけれど、机に手をついてゆっくりと立ち上がる。そのタイミングで保健室のドアが慌ただしく開かれた。
「朱莉!」
非常階段であまりにも私が泣きじゃくっていたからか、先生が親に連絡をしてくれたらしい。家から学校は近いので慌てて来てくれたのだろう。少し息の上がったお母さんが私の元に駆け寄ってきて、肩を掴みながら顔を覗き込んでくる。
「大丈夫?」
「私は、大丈夫」
「……そう」
お母さんがどこまで聞いているのかは知らないけれど、一瞬表情を曇らせた後にそっと頭を撫でてきた。
「車で来たから、一緒に帰りましょう」
頷くとお母さんは安心した様子で微笑んで、私の肩を抱いてドアの方へと促す。
「先生、ありがとうございました」
「こちらこそ、お越しいただきありがとうございました。ゆっくり休ませてあげてください」
水野先生に見送られ保健室を後にする。放課後の学校は昼間よりも人が少ない。けれど、すれ違った何人かの生徒が「救急車」という単語を言っていたので、染谷くんの件は伝わってしまっているみたいだ。
「じゃあ、お母さんの靴こっちだから。靴履き替えたら、駐車場まで来てね」
「うん、わかった」
生徒の靴がある場所とお母さんが靴を置いている場所が違うため、一旦別れて昇降口へ向かう。
靴を履き替えようとしていると、走ってきた誰かと勢い良くぶつかってよろける。
「す、すみません!」
女子生徒は勢い良く頭をさげると、慌てている様子ですぐに走り去っていく。その後ろ姿をぼんやりと見送って、ローファーに履き替える。
駐車場に停められた車に乗り込むと、むわっとした肌にべたつく熱気が全身を包み込んできた。九月といっても、車内は未だに蒸し暑いみたいだ。
「車内暑いわねぇ」
慌てて駆けつけてくれたのか、車の中には外されたエプロンが置いてある。
「……ごめん、お母さん。わざわざ来てもらっちゃって」
「階段から落ちた子、知り合いだったの?」
エンジンがかけられた車が振動を始める。車内の熱気から逃れるように窓を開けると、冷めた風が頬を撫でた。
「……クラスメイト」
「そう。……早く目覚めるといいわね」
事故があった方向には人がたくさんいて、大人だけではなく生徒たちも集まっているようだった。赤いランプが点滅している白い車が少しだけ見える。先ほどよりも落ち着いたけれど、あれは悪い夢ではなく現実なのだと実感した。
野次馬の中にいる男の子の姿が目に止まる。その横顔はよく似ていて、息をのんだ。
「————そめ、やくん?」
あそこに染谷くんが立っているわけない。わかっているのに食い入るように見てしまう。
けれど、染谷くんに似ている人から遠ざかるように車が逆方向へと走っていく。見慣れた景色が車の座席の視点から見ると、別の場所のように見える。
きっと見間違いだ。染谷くんは今頃救急車に乗せられている。
頬に伝った生暖かい涙が風に攫われていく。車のドアの方へと身を預けて、外の空気に触れながら彼のことを思い出す。
いつも教室でクロッキー帳に絵を描いている姿を見ていたから、横顔ばかり思い浮かぶ。美術室の廊下に飾られる美術部員たちの絵を私はよくこっそりと見に行っていた。
絵に関しては素人だけど、それでも透明感があって繊細な彼の絵に心惹かれて見入ってしまう。こんな絵を描ける染谷くんを純粋にすごいと思っていたし、放課後に初めて話してから気づけば目で追っていた。
目尻に溜まった涙を指先で拭って目を閉じる。
いったい彼になにがあったのだろう。ただ足を踏み外しただけなのかもしれない。でも放課後にあの場所にいたのは偶然?
染谷くんが目を覚ませばわかることだけれど、ぴくりとも動かない彼を思い出して不安になる。
その日、家に帰っても落ち着かなかった。何度も携帯電話で時間ばかりを確認してしまう。彼が目を覚ましたのか私に知る術はなく、明日を待つことしかできなかった。




