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36.不穏の気配

 ワイバーンとは、灯花の故郷である日本でもファンタジー作品でお馴染みなドラゴンの亜種のことである。この世界のワイバーンもドラゴンより小型で、前腕を進化させた翼で空を飛び、硬い鱗を持ち、上空からの急降下で襲い来る恐ろしい怪物。優れた種はブレスを吐くこともある、らしい。


 ただしこの地においてドラゴンが確認されたのは、かつて在った旧帝国時代の記録が最後となっている。よってドラゴンという種は存在せず、ワイバーンの一種をそう誤認したのではないかと言われていたりもする。旧帝国には漂流人によるドラゴン退治の英雄譚もあり、尚更真偽が不明になっている。


「漂流人も奇跡(ギフト)次第では、ドラゴン退治も出来たりする……のかな」


 執務室の自分の机で資料を眺めながら、答えのない想像を独りごちる。砦へ赴くエドガルドを見送ってからの数日、いつまでも灯花の心はざわざわと落ちつかないままだった。

 深呼吸をし懐中時計を耳に当て、針の音で気を落ち着かせようとする。エドガルドは共にこの時を刻んでくれると言ったのだ。自分が信じなくてどうすると、灯花は自分を叱咤する。


 エドガルドと共に確認したところ、灯花が足場の崩壊事故で得た奇跡(ギフト)は守りに特化したものであった。光の膜が内外のどんな衝撃も通さず、絶対の障壁になるもの。

 事故の時のように落下物を包めば、落下の衝撃で中のものが傷つくことはなく、落下してきたもので何かが傷つくこともない。そういったものだった。


 灯花はこの奇跡(ギフト)を使い、危機へと立ち向かうエドガルドの役に立ちたいと思う。しかし共に前へ出るのではなく、街を守っていてほしいと頼まれてしまった。戦うための訓練は何も受けていない彼女では足手纏いにしかならないのも事実である。


「でもまぁ……どちらかというと砦に来てほしくない、みたいな感じだったけど」


 森の砦はエドガルドとイルデフォンソ曰く「治安が悪い」らしい。守護兵団の砦だが、いくらかの傭兵団も雇っているため他の砦より規則が守られにくく、緩い。国内のどの砦よりも実力重視の戦力を揃える必要があり、領主側としても大目に見ざるを得ないのが現状だという。


 強敵の報せがあっても尚、森の魔物よりも砦の傭兵が灯花に興味を持つことを警戒していたエドガルドを思い返す。あの余裕を見るに、自分の心配は確かに杞憂なのかもしれないと、少しだけ力が抜けた。


 頬を軽く叩いて気を取り直し、簡易算盤導入の説明資料でも進めておくかと気合をいれる。そのタイミングで、軽快なノックの音と共にオスヴァルドが顔を覗かせた。


「義姉さん、街道警備から森方面からいつもより多めの魔物が抜けてきているとの報告があった。少し騒がしくなる程度になるだろうけど、念のため伝えておくね」

「わかりました……何か私に出来ることはありますか?」

「突破されるようなことがあったら避難の必要があるから、その心構えかな」

「では準備運動しておきます」

「逃げる気満々なの、良いよー!」


 灯花の返答に、オスヴァルドが大声で笑い出す。灯花はそんな彼を呆れた目で眺めながら、せっかくだからラジオ体操でも普及させてみようかと目論む。これも平民学校に組み込めないだろうかと考えたが、大多数は運動不足とは無縁だろうから意味が見いだせないかもしれない。


 ――直後、オスヴァルドの背後で開いたままの扉から、焦った声が飛び込んできた。


「お話中失礼します! 副団長、街道第三から急使。ワイバーンが一頭、領都方面へ向かっている可能性!」

「なんだって!?」


 目前の会話に灯花が凍りつくと同時に、遠くの崩壊音のようなものを耳が拾う。数秒の間を置いて、敷地内の警鐘が鳴り響いた。灯花が動けない間でもオスヴァルドは急ぎ廊下に出て、その窓から外を窺う。


「…………ああもう、来るのが早い! 牧場裏の物見が落とされた、僕は直接現場へ行く。街の外周警戒は編成を変えずに続行、通常警備は最低限で後はワイバーンの対処! タデオは引き続き夫人付き、義姉さんは本棟へ!」

「「はっ!」」


 他にも、街へ向けたものを含めた細かな指示を伝令に伝えながら、オスヴァルドが急ぎ出ていった。タデオ――彼は足場崩壊事故で灯花の護衛を務めていた者である――に避難を促される。


 避難。そうだ、足手纏いの自分は大人しくしなければ。でもそれで良いのだろうか。

 灯花はエドガルドに街を任された。本当に何か出来ることはないのかを考える。

 だって灯花は「辺境伯領の聖女」だから皆に受け入れて貰えたのだ。


「トウカ様! ……よかった」


 灯花が執務室にいる間は他所で学んでいるラナが駆け込んでくる。執務室(ここ)にいる灯花を見てほっとした顔を見せるラナを見て、灯花の心が揺らいだ。

 魔物のことは紙の上のことしかわからない。未知への恐怖で足が竦む。

 懐中時計を強く握りしめて、自らを奮い立たせた。


 辺境の聖女は、エドガルドの民を守りたい気持ちが根元。

 だから、ここで避難して守られるだけの存在になっては駄目だ。

 エドガルドの隣に立つためには、あの気持ちを決して忘れてはならない。


「私も現場へ……行きます」


 息を呑むラナとタデオを真っ直ぐ見て、灯花は頷いた。

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