33.辺境伯家のお姫様
調薬室を後にした灯花は、迎えに来たラナを伴って兵団本部から執務室への帰りに訓練場を少し覗いていくことにした。
兵団本部と政務棟を繋ぐ渡り廊下から兵たちの訓練を眺める。平民出身の兵と貴族階級出身の兵では、明らかに動きが違うのが遠くからでも見て取れる。
これは身体能力と魔力量は密接に関係していることに理由があるらしい。よって基本的には貴族は平民よりも身体が強く、戦いに向いている。仕事を求めて辺境伯領に来る貴族家の次男以降はそうして兵団に入り、日々魔物との戦いに明け暮れている。
せっかく貴族教育を受けた人材がそちらに流れていくのは灯花からすれば口惜しいが、それで領地の防衛が成り立っているので文句が言えない。
そして灯花もこちらの世界に来て馴染んだのか、いつの間にか体力や筋力に余裕を感じられるようになっていた。いま全力で百メートルを走ったら、最後に全力で走った高校時代よりも良いタイムが出ると思う。
「トウカ義姉さん、今日の操作練は終了?」
「はい。なおポーションの収穫はなしです」
「それは残念! 僕はアレ、出来る気がしないんだよね」
通りがかりのオスヴァルドがけらけらと軽く笑う。エドガルド曰く、実際のところ彼はとても器用なので魔法は得意な方だという。そんな彼でもポーション精製は出来ないということなので、本当にあの精製作業は難しいのだろう。
ちなみにエドガルドは細かな調整が苦手らしい。大柄な見た目に反して繊細な気配りをする彼だが、こんなところが見た目の印象通りなのはなんだか可愛いなと灯花は思う。そんな相変わらずの惚れた欲目を発揮していた。
「……ああ、そうだ。花祭の件は運営に渡してきたから」
「なんてことを!?」
花祭とはその名の通りというべきか、毎年街で行われる春を祝う祭りのことである。
以前、エドガルドと言語の話題ついでに表意文字である漢字の話をした。その際に灯花の名が持つ漢字の意味についても話をしたのだった。「灯火の花」はぴったりだと、とても甘い響きのバリトンで伝えられた灯花は、その声を思い出すと今でも身悶えする。
その後、兄弟間の雑談か何かでその話をしたのだろう。オスヴァルドが花祭を聖女の祭りにしようと言い出した時は流石に冗談だと灯花も笑い飛ばしたが、まさかの本気だった。恥ずかしい。ただただ恥ずかしいので止めてほしかったと、灯花は内心で頭を抱えるしかない。
その流れのまま文句と雑談を続け、開けていた窓から吹き込む冬の風が更に冷えてきた頃、窓を締めたオスヴァルドがふといつもの表情を消しぽつりと溢した。
「――ねぇ、義姉さん。奥の大きな木の下に、椅子になりそうな平たい岩があるの見える?」
「岩……それっぽいのは見えますけど、裏が花畑のようになっている場所のですか?」
「そう。あれね、お姫様の椅子なんだよ」
次第に赤くなりだした陽を浴びながら、オスヴァルドが目を細める。その瞳はあまりにも優しく、そして切なそうなものだった。この領主邸の中でも特に無骨な兵団周辺の建物に似つかわしくない「お姫様」という単語と、陽気なオスヴァルドが感傷的になる相手。
婚約が決まった時に灯花はエドガルドにお願いして、挨拶のため霊廟まで足を向けている。そして、そこにあった両親のものと、もうひとつの墓標について聞いていた。
「お姫様って……その……」
「うん、アンヘリタの」
アンヘリタとは、エドガルドとオスヴァルドの今は亡き妹の名である。彼女は十を超えた頃、病に冒され儚くなった。
ヴァリデガラート辺境伯家は代々男ばかりが生まれる家系で、数代ぶりに誕生した娘は大層可愛がられていた。病床に臥せるまでは快活な少女だったそうなので、よく兵団にも足を運んでいたのだろう。
「急にごめんね。なんだか義姉さんには知っておいてほしくて」
「……いえ。あの、はい。とても可愛らしい……素敵なお話です」
政務棟に仕事場を移した際にオスヴァルドが言い放った「愛してる」発言を、妻であるフロラに軽く――状況的に確実に冗談であることも含め――リークしたことがある。その時に彼女はあっけらかんと「あの人は寂しがり屋なので、ああやって距離感を確認してるんです」と教えてくれた。
それを聞いた当時は、実はフロラのほうがひとつ年上の夫妻について「これが年上女房の余裕か……」と軽く納得したが、ようやく理解が出来た気がする。
すぐにいつもの調子に戻したオスヴァルドが、まだ仕事があると去っていく。なんとなくその場から動けない灯花は、冬の冷えを強く感じるようになった廊下から外を眺めていた。
「……ラナはアンヘリタ様のこと、どれくらい知ってる?」
「お嬢様は私のひとつ上でしたので……そうですね、笑顔の多い明るい方でした。母の下で学んでいた私の髪結いの練習相手を買って出てくださったりと、なかなかに破天荒でいらしたことを覚えています」
「見習いメイドの練習相手がお嬢様かぁ……すごく可愛い光景だったろうなぁ」
「はい。私はともかく、お嬢様はとても可愛らしい方でしたよ」
「ラナは今も美人で可愛いので、その頃も絶対に可愛かったと思いますー」
「ふふ、恐縮です」
わざと軽く拗ねながら言うと、ラナもわざと雰囲気を緩める。その流れを保ったまま、執務室への帰り道を進む。その愛されていた「お姫様」の痕跡は、きっと今でも彼方此方に残されているのだろうと思いながら。
お姫様の椅子の小さな花畑は、今も彼女のために整えられているのだろう。




