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今日はめまぐるしい回
「あー、今日はあいつは夜番だから、夕暮れ時の出勤だな。まだ来てないぜ」
兄の言葉にいても立ってもいられなくなったアウローラは、昼食も待たずに家を飛び出した。言われた通りに想像してみて、想像なのに耐え切れないと思ったからだ。思わず泣きそうな顔をした彼女に兄は想像で泣くなと笑って、そんなに好きならちゃんと手を掴みに行きなさいと、背を押した。
慌てて追いかけてくる護衛と侍女を振り返りもしなかった彼女が向かったのは、いつか訪れた近衛隊の屯所だ。いつもであればこの時間は、彼は勤務中なのだ。受付に顔を出し、フェリクスはいるかと聞いた彼女に答えたのは受付番ではなく、丁度そこを通りかかったインゲルス小隊長だった。
「夜番、ですか」
「王族の寝ずの番のことだよ。直属の護衛騎士が寝室の前に立つ以外に、騎士三人と魔法騎士一人の組み合わせで王宮内を深夜巡回するんだわ。夕方から明け方までの勤務になるな」
「ああ……」
「まあ、勤務中でも、すぐに会うのはちと無理だけどな。私的な客は休憩時間のみ対応可、って規則があるから」
「あ……そう、ですわよね。失念しておりました」
目に見えてしょげ返ったアウローラに、インゲルス小隊長はおや、と訝しんだ。先日の顛末をセンテンスから聞いて、その青さに腹を抱えたことはまだ、記憶に新しい。あの時のフェリクスは随分と沈んだ顔をしていたものだが、彼女の方から会いに来たということは、何らかの進展があったのだろうか?
「応接室で良ければ待つか?」
好奇心で胸を満たし、それでもそれを顔には出さずに問いかけたインげルスに、彼女はブンブンと、子供のように首を振る。そして、射掛けられた矢のような勢いで頭をたれた。
「いいえ、クラヴィス家のタウンハウスへ行ってみます。ありがとうございました。失礼致します!」
*
「あらまあ、ごめんなさいね、ついさっき、出たところなのよ」
クラヴィス侯爵夫人の言葉に、アウローラはがっくりとうなだれた。昼下がりのクラヴィス侯爵家のタウンハウス、こぢんまりとしつつも大変美しい、いつぞやの応接室のことである。
ちょうど、母親とティータイムを楽しもうと訪問したルナ・マーレも顔を出して、首をひねった。
「今、この時間に? 遅くはない?」
「今日は夜間の勤務なのだとお伺いしました」
「あら、それなら逆に、ちょっと早すぎじゃない? 夜番なら、いつもは今頃、お昼にしてたと思うけど」
軽い実家訪問であるというのに、しっかりと最先端のデイドレスをまとうルナ・マーレは薄紅に染められ、美しく整った可憐な指先で、野ばらの染め付けられた磁器のカップを優美につまむ。
出かけることを想定していない、薄青のストライプの日常着のアウローラは、こっそり膝の上で手を握った。共布のフリルと襟ぐりの刺繍(秋草をアラベスク文様風にしたもので、もちろん自前の刺繍だ)、袖と裾を飾る刺繍と同じセピア色のサテンのリボンが辛うじて、令嬢らしさを演出していたが、形だけ見れば、庶民のちょっと良いワンピースとさほど変わらない。
もうちょっと洒落た服を着ればよかったとそわそわしながら、内心で頭を抱えるアウローラを、ルナ・マーレはニヤニヤと見守っている。
「そうなのよ。なんだか出勤前に寄るところがあるとか言っていたわね。……マーヴィス! フェルはどこへ向かったの?」
娘以上に優美な仕草で焼き菓子をつまむ侯爵夫人は、おっとりと首を傾げながら、執事に問いただした。扉の脇に控えていた彼は、控えめながら落ち着いた、よく通る声で応える。
「メゾン・バラデュールに寄られてからご出勤なさるとお伺いしております」
「あらあら!」
「あの子が自分から仕立て屋へ!? 人って変われば変わるものねえ!」
母娘は驚きの声をあげ、隠すことなくアウローラを眺めた。しかし、見つめられても、特にドレスや訪問着の必要になるような約束はしていないし、アウローラがなにか頼んだということもない。
そもそもポルタ家の財力では、そう簡単にはメゾン・バラデュールへ依頼を出せはしないし、紹介がなければ何ヶ月もまたねばならないのだ。今作っても、出来上がるのは来シーズンである。
「いえ、わたしのものではないのではないかと……ご自身のご衣装では?」
「まさかあ。あの子、放っておいたら一着も作らないですまそうとするのよ! もう背も伸びないからなんて言って!」
「そうなのよ。近衛隊に入ってからは、夜会はいつも礼装だし……自分で選べないのも、情けない話よねえ。旦那様はお得意なのに。育て方を間違えたかしらねえ」
(そこらの侍従や侍女よりよっぽどすごいスタイリストが二人もいたら、育たないでしょうね……)
しみじみそう思い、ではメゾン・バラデュールへ行こうと腰を上げかけたアウローラに、侯爵夫人がにっこり微笑む。
「愚息のことは今はいいわ。ねえアウローラさん、かわいいデイドレスがあるのだけど、お着替えしない? とってもきれいな淡いクリーム色でね、襟と袖と胸元、ウエストと裾に、秋の森の刺繍をあしらっているのよ。柘榴石とか瑪瑙で秋の木の実を模して、リボン刺繍で紅葉の木々を表現していてね、」
(……ああっ、それは見たい、触れたい、着てみたい! で、でもフェリクス様が……!)
「揃いで、金の葉に赤い実の髪飾りと耳飾りも作ろうと思っているのよ。アウローラさんの髪の色なら似合いそうだし、どうかしら?」
(み、見たいわ、でも、見ていたら、時間が……ッ)
「まああ、ダメよお母様、恋する乙女の時間は一秒値千金だもの、引き止めては可哀想よ!」
ぐいぐいと迫る母親を、娘のにやけた声が引き止める。あら? と振り返った母に、ルナ・マーレは訳知り顔で極上の笑顔を見せた。
(ど、どうして分かるの?!)
真っ赤になったアウローラの向かいで、彼女は桜桃色の唇をにんまりと歪める。綺麗な指がくるくる回って、硬直する若い娘を指し示した。
「アウローラさんはフェリクスに会いにきたのでしょう? いつも、ちゃんとしたドレスでいらしていたのに、今日はいかにも部屋着、ですもの。お靴もひょっとして、部屋履きではなくて? よっぽど急いでいらしたのね」
「お、お見苦しいところをお見せしまして……」
これ以上赤くなりようがないほど赤くなってコクコクと首を立てに振るアウローラを見て、ようやく気づいたように、侯爵夫人が口元に手を当てる。
「あらまあ、そうね、言われてみればそうだわ、ごめんなさいねえ、引き止めて!」
「お着替えはいずれ、いつでもここで楽しめるようになるでしょうから。今日は、あの子の仕事が始まる前になんとしてでも捕まえないと、なのね。お作法は良いから、どうぞお出かけになって」
「……すみません、失礼致します!」
「またどうぞいらしてね! お待ちしているわ」
「ここから帰らなくなる日が楽しみねえー」
うふふ、と笑って意味深どころか何も包み隠さない言葉を投げる母娘から逃げ出すように、アウローラは三度、部屋を飛び出した。
*
「これは、ポルタ様、本日はどのようなご用件で?」
メゾン・バラデュールのフロントで、オーナー執事のラルエットが丁重な礼をとる。しかし、アウローラが口を開きかけたところで、カタンという音とともに、ひょこりと女性が顔を出した。やや明るいブルネットに灰色の瞳の、エマ・プリュイである。
彼女はアウローラと目が合うと、ぱっと顔を輝かせて、こちらも恭しい礼をした。
「まあ、ポルタ家のお嬢様。お久しぶりでございます。その節はご贔屓いただき、ありがとうございました」
「ええ、お久しぶりですわ」
「本日はどうなさいました? そちらのお衣装、お部屋用ですよね? お呼び頂けましたらお伺いしましたものを。そういえば、今さっきまでクラヴィス家の若様がいらしてたんですよ。お珍しいことに、お茶会用のジャケットとトラウザーズをご注文頂いたのですけれど」
「えええっ」
仕事中でないプリュイ女史は、どちらかというとおっとりとした人だったらしい。ほんわかと笑った彼女の声に、アウローラはついに悲鳴を上げた。こうまですれ違うと、だんだん縁起が悪いようにさえ思えてくる。
「一体、どこへ……?!」
ここまで会えないだなんて、気持ちを伝えるのは諦めろってこと?! ぎりぎりと歯ぎしりをするアウローラに小首を傾げ、プリュイ女史は灰色の目を瞬かせた。
「出勤前に婚約者のところへ寄ると仰って……あら、婚約者って」
「また来ますわ!」
お嬢様ですよね、とプリュイ女史が口にするより早く、アウローラは仕立て屋を飛び出していた。
*
「あ、ローラ! 今ちょうど、クラヴィス殿が来たんだけど……」
「応接室ですか!?」
ばたばたと慌ただしく自宅へ戻ってきたアウローラは、玄関ホールで自分を出迎えた困惑顔の兄に噛みつく勢いで飛び掛かり、二の腕を掴んでグラグラと揺さぶった。細く華奢な兄は麦穂のごとく前後に揺れながら、左右に首を振る。
「そ、それが、か、彼は、ろろろローラは君を探しに出掛けたと言ったら、じ、時間がないから探しがてら出勤するって、行ってしまって……ううっ、揺らさないで気持ち悪い」
「いつ?!」
「ほ、ほんとにい、いま出て行ったとこで」
痕が付きそうなほどに握りしめていた腕をパッと離し、アウローラは玄関扉へ飛びついた。くたりと倒れるルミノックスの背後で、アウローラ付きの侍女が悲鳴を上げる。
「お嬢様! そんな格好でお外に出てはなりません! いい加減お着替えを! お履物を! 御髪を! そしてお昼ご飯を!!」
「そんなの後よ!」
兄の言葉を聞くなり玄関扉の向こうへと舞い戻ったアウローラは、いい加減に靴を履き替え着替えをしろと追いかけてくる侍女と護衛を振り切る勢いで駆け出す。今丁度といったのだから、馬でもない限りはまだ、然程遠くへは行っていないはずだ。
(はやく、はやく! 気持ちが鈍らないうちに、会いたい……っ)
逸る気持ちを持て余し、アウローラは飛び出した通りを右左と眺め回した。
貴族のタウンハウスの多く集まる通称『貴族街』は、王都を見下ろす王宮から続く高台にある。タウンハウスは多くが中庭を持つ作りで、建物が壁代わりに道路に面してそそり立っているため、坂道と相まって、見通しは良くない。あたりを見渡しても、所々に使用人らしき人々の影が見えるだけで、美しい石畳の道はひっそりとしていた。
「一体、どちらへ……」
迷っていても埒が明かない。直感で左へ向かって走りだしたアウローラは、あっという間に息があがって、二区画も行かないうちによろめいた。昼も早くから馬車を乗り回したりしたことで、随分と疲労も蓄積している。
(走るのって、苦しい! ああもう! もう少し、運動しておけばよかった……!)
部屋着とはいえ薄くはないドレスの上から、太ももをトントンと叩く。気持ちばかりが先走って、息が震え、じんわりと目が潤んだ。
毎日のように会っているのに。お互いに探し合っているのに。会いたい、伝えたい事があるときに限って、どうしてこんなにも会えないのだろう。こうまですれ違うと、だんだん縁起が悪いようにさえ思えてくる。
(……伝えるな、ってことなのかしら)
弱気の虫が顔をもたげてくる。アウローラは慌てて首を左右に振り回して、嫌な考えを吹き飛ばそうと試みた。
(考えない、考えない。……そうだわ、フェリクス様はこれからお仕事なのだし、ここから詰め所の方に向かって行けばいいんだわ!)
「よし、そうとなれば、確かこっちの方よね。……あっ!」
よろめいた身体を支えるべくもたれかかっていた壁から身を起こした途端。
突然つるりと、アウローラの左手から指輪が抜け落ちた。フェリクスがあの日投げた、クラヴィス家の婚礼の指輪である。若干サイズは大きかったが、指の関節で止まっていて、今まで一度も抜け落ちたことはなかったのに。
アウローラは震えた。これはアウローラとフェリクスの婚約関係を証ししている、絶対になくしてはいけないものだ。そして、薬指に時折感じる存在感は、アウローラの焦る心を後押しするものであり、励ますものでもあった。
(このタイミングで、指輪が抜けるなんて……この婚約はもう諦めろ、ってことなの? ……と、とにかく拾わなきゃ)
運悪く、指輪の転がったのは高台を下る裏道だった。指輪はころころと転がり出し、加速して転げ落ちていく。アウローラはキッと坂下を見据えると身を起こし、ドレスの裾をからげて、転がる指輪を追いかけた。
「ああもうっ、待ちなさい!」
指輪は軽快に転がり、アウローラは必死で足を動かす。思いの外速度があって、なかなか追いつけない。涼しい季節になったというのに、息が上がってすっかり汗だくである。
「待っちな、さいっ、たら……!」
コロンと転がった指輪は石畳の縁を軽やかに転がる。業を煮やしたアウローラが飛びつこうとした途端、カツン! と音がして、指輪は縁石にぶつかり、跳ね上がった。
ぽーんと放物線を描いた金の輪は、高台から下町へと下る、階段の鉄柵を飛び越えた。
「……ぎゃあっ!?」
裏の階段坂は、使用人たちの使う道である。こんなところに階段があるなど知らなかったアウローラは焦って、飛び跳ねた指輪へと手を伸ばした。指はかろうじて指輪へと届いたが、ぐらりと傾いだ上体は柵を越えかけた。
(っ、いけないっ……!)
下は石垣、地面までは、四階建ての建物ほどもある高さである。途中の木に引っ掛かったとしても怪我は免れず、下にたたきつけられればただでは済まないだろう。疲れた体ではうまくバランスをとることもできず、アウローラは最悪の事態を想像して身をすくめ、ぎゅっと目をつぶった。
「アウローラ!」
思い出してください……アウローラさんは10代の乙女だってことを……(遠い目)
……それにしても慌ただしいやつよのう。




