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今日は兄様のターン
「ルミー、ローラが朝からおかしいんだけど、何があったか知ってる?」
タウンハウスの執務室にて、自分に割り振られた領地の仕事をこなしているルミノックスに、そう声をかけてきたのは父、ポルタ伯爵だった。ルミノックスは睨みつけていた書面から顔をあげ、こてんと首を倒して父を見る。
「ローラがおかしいのは今に始まったことではないのでは? あと、ルミはやめてくださいと何度言えば」
「そういう『おかしい』じゃなくてさあ! なんていうの、朝ごはんの時から顔がど〜んよりしてるんだよ。失恋した女の子みたいな感じ! ローラはあの太陽みたいに明るい天使なところが取り柄なのに。昨日のお夕飯の時はあんなじゃなかったのに! 悪い夢でも見たのかなぁ」
「……失恋したんじゃないか、とは考えないんですか?」
「ローラを振るなんて目の悪い男がいるとは思えないからね!」
ルミノックスとよく似た美中年は、綺麗に整えられた短い金の巻き毛をふんわりと揺らしながら、うーんと腕を組み、自分用の執務机ではなく、ルミノックスの執務机の向かいの応接セットに腰を下ろした。父親の親ばか発言にはすっかり慣れっこのルミノックスは、再び視線を書面へ戻すとおざなりに返事をする。
「あいにくと、僕は今朝微熱があって、朝食は部屋でとったんですよ。……そういえば今日はまだ、ローラの顔を見てませんね」
「ええっ、あの天使が同じ家屋の中にいるというのに会わずに暮らすなんてナンセンスだよルミ!」
「父上がこの仕事を変わってくださるなら、話を聞きに行ってきますが」
「………………わかった、がんばる」
珍しい、とルミノックスは大きな瞳を丸くした。ポルタ伯爵は人はいいが、執務能力はそれほど高くない。少々怠けぐせがあるのも手伝って、いつも有能な家令や執事、事務官などに支えられながら領地経営を行っていて、最終決済を除けばできうる限り、仕事を人にやらせるようにしているのだった。それで憎まれないのだから、人を適材適所で使う能力は、幸いにして持っていたのだろう。
そんな父が、ルミノックスの仕事を代理で受けようとするのは、非常に珍しいことである。よっぽど妹のことが心配なのだろうと考えて、ルミノックスはゆっくりと執務机から立ち上がった。そこまで言われるほどの状態だと言われれば、兄としても心配になる。ここ数年は特に、両親といるよりもよほど長く兄妹で過ごしているのだから、父よりは妹の変化にも思い至るかもしれない。
書面はひょい、と父に渡す。
「冬までに直さないといけない橋の修繕に関する見積もりです。ちょっと甘いので内訳を出し直させる必要があるかと思いますので、怪しい箇所に赤いインクで追記を入れてください」
「はーい」
「街道の修理の見積もりもありますので、そちらもお願いします」
「えええ、一枚じゃないの!」
わーしまったー! 父親のまぬけな叫びを背に聞きながら、ルミノックスは執務室を出た。通りすがった、花の活けられた花瓶を抱えた侍女に妹の所在を聞けば、部屋にこもっているという。
アウローラが部屋にこもっていることは珍しくもなんともないので、ルミノックスは特に何も考えず、三回扉を叩いて了承も得ずに扉を開け、そして叫んだ。
「うわ、暗っ」
分厚いカーテンも、ベッドの天蓋も閉めっぱなし。だというのに魔石ランプのたぐいはすべて消されていて、寝る以外のことをするには、あまりにも光量が足りていない。まさかこんな真っ昼間に寝ているのか、と視線を巡らせれば、入ってきた扉からの光りに照らされる長椅子の上で、アウローラが膝を抱えて天井を睨んでいた。長椅子の前の小卓には、最上級の青い魔石があしらわれた装飾品が、無造作にゴロゴロところがっている。
それらがフェリクス・イル・レ=クラヴィスによって夜会の日に贈られたものであると知っているルミノックスは、おやおやと片眉を跳ね上げた。
室内履きのぺたぺたという間の抜けた音をさせながら、ルミノックスはカーテンを開けて回った。ようやく明るくなった室内で、妹の向かいのひとりがけのソファに腰を下ろす。少女向けの柔らかい色合いの座面は見た目通りに、ふんわりと柔らかく、男性が座るには少々心許ない仕様である。
アウローラは眩しげに目を細めてからちらりと兄に視線を向けるとまた、天井へ目をやった。抱える膝を解く気にはならない。ルミノックスがこめかみを抑えて息をつき、椅子の上で足を組んでアウローラを睨んだが、それにも気づかないふりをした。
「どうしたの、キノコが生えてきそうな風情で。『塔』に行くことに決めたのかい?」
「…………まだ、きめて、いないわ」
問われた言葉に首を振る。『塔』入りを決めて感傷的になっているというわけではないのだ。どういうこと、と視線で問われ、アウローラは唸った。ルミノックスは大人しく、聞き役に回って黙っている。しかし、どれほど、しらばっくれようと黙っていても、兄は容赦なく視線を注ぐ。アウローラは観念し、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「『塔』の、話は。すごく魅力的、なんだけど。即答できなくて。昨日から、何故かしらって、考えていたの。わたし……、フェリクス様と、縁が切れちゃうのが、いや、みたいで」
「うん」
「でも、ほら、フェリクス様との、婚約って、慈善事業、って、言ったじゃない」
「言ったね」
「どっちにしろ、いつか、破棄するもの、って思っていたから」
「……ふうん?」
「一、二年はこの婚約を続けて縁談を避けよう、って話だったの。実際、効果もあるらしくて、フェリクス様も解消は、いやだって、思ってくださってる、みたいなんだけど」
どうも女難の相が出ているようだから、と冗談めかして笑ったはずだ。あの時は、縁談よけだと本気で思っていた。
「それで?」
促すルミノックスに、アウローラはまた、うつむいた。
「『塔』に入っても、婚約しておくことは、できるんだろうなと思うの。フェリクス様は、誠実な人だし、たぶん、それでいいって、言ってくださると思う。でも、『塔』にいる間は、わたしはポルタの娘ではなくなるのだし、その間に社交の必要があったら、他の人と出かけなければならないでしょう? 五年もあったら、きっと、その間にいい人と出会うだろうと思うの。それならやっぱり、『塔』に入るときに、破談にしておかないといけないでしょう」
「そうだね」
「それを考えたら、いやだ、って、思ったの。そうしたら、『塔』のお話も、魅力が半減して見えて」
眉を垂らし、ひどく情けない顔で、アウローラは顔を上げた。はーっ、深く息を吸って吐き、抱えていた膝を解く。居住まいを正して、まくれていた裾を直した。
「たぶんわたし、フェリクス様のことが、好き、なんだとおもう」
自然光の差し込むアウローラの部屋は、大変に静かになった。今更か、と目を眇める兄とまさか今気づいたのかと呆れる侍女たちに気づかないまま、アウローラはぺたんと長椅子の肘掛けにもたれ、唇を尖らせた。彼女の顔立ちは、歳相応より少々上に見えるのだが、そうしていると幼気になって、実年齢よりも少しばかり下に見える。結わないままの髪が、拗ねた顔にふわりと掛かった。
「……でも、わたしって、平凡でしょう?」
「…………そういうことにしておこうか」
「顔も普通で、体も普通で、頭も、普通。まあ、刺繍はちょっと上手いかしら? と思うけれど、それだけで。その、フェリクス様と、比べると、どうにも」
見かけは普通の少女だが、中身はとても普通とはいえない。そう言いかけ、ルミノックスは懸命にも、己の言葉をかみ殺した。アウローラは指を広げ、己の両手をじっと見つめた。刺繍だこと節のある、ふっくらした指だ。物語の姫君のような、白くて細い華奢な指とはまったく違う。
「フェリクス様は、顔も体付きも綺麗だし、頭もいいし、魔術も使えて、剣もすごくて、馬にも乗れて、占術も得意で、真面目て、誠実で、正直で、まっすぐで、侯爵家を継ぐ人で、近衛隊で班長さんで、王太子殿下にも覚えがめでたくて、社交はちょっと駄目だけれど、ああ、でも最近は、随分まともになってきているし……うう、改めて並べるとすごいわね、人間なのかしら」
「……うん、並べちゃうととんでもなくハイスペックだね、彼」
はたと兄妹は我にかえる。窓から差し込む光の中に、ちらちらとホコリやら魔力やらが踊るのを見つめた。まるで幻灯機のようにぼんやりと、青紫の面影が浮かぶ。
見かけからは、彼の不器用さは分からない。黙って立っている彼は、飛び抜けた美貌と類まれなる能力の持ち主で、並ぶもののない人のように見えるのだ。
「不器用なところも性格も、人よりは多分知っているのに、フェリクス様が好きかもしれないと思ったら、その横に並ぶのがわたしでいいのかしら? って、考えてしまったの。ルーミス様の言葉じゃないけれど、好きな人には素晴らしい人と結ばれて欲しい、って。だって、わたしよりすごい女の子は、いっぱいいるでしょう。だけどそんなことを思うくらいなら、やっぱりわたしは『塔』に入って、すっぱり、婚約をやめた方がいいんじゃないかって。なんだか考えこんでしまったのよ」
ふうー、アウローラは細く長い息を吐いて、苦く笑った。日頃、苦笑などそうそう見せることのない妹の、ひどく切なげな面差しに、ルミノックスは目を細めた。ソファから立ち上がり、長椅子の隣に腰を下ろすと、ぽんぽんと、よく似た髪質の金の巻き毛の頭を叩く。
「兄さま……」
「そういうのは謙虚じゃなくて卑屈って言うんだよ。……ねえ、ローラ。お前が刺繍と何かを天秤にかけて迷うことって、今まであったかい?」
新緑の森のような瞳が、丸く大きく見開かれ、ルミノックスの姿を移す。人から『妖精』などと呼ばれる、人間味の薄い自分が、妹の瞳の中ではやたらと甘やかすような顔をしているのを見て、彼はつい、小さく笑いをこぼす。
「だってほら、お前ときたら、父上が泣いて嫌がったのに、神殿に入って刺繍を刺して暮らすのが将来の夢、とまで言っていたじゃないか。それなのに、今回は即決できないんだ。そんなにも気にかけたことって、今までにあった?」
ぱくぱくと、妹の小さな口が開閉を繰り返すのを見て、ルミノックスは瞳を細めた。
「それって、刺繍と同じくらい好き、ってことじゃないのかな?」
「……そん、な」
「ものすごい好きなことと、天秤に掛けて悩むくらいに好きになった人の手が、届くところにあるなら、手放さないほうがいいと、僕は思うよ。ローラが刺繍を超える趣味に出会うことって、この先何回あるだろう? そう思うと、もう二度と、そんな人とは出会わないかもしれないだろう?」
ぐ、と喉を鳴らす妹に、ルミノックスはそう、畳み掛けた。
アウローラより、数年ばかり年長なルミノックスだが、身体が弱いせいもあって、それほど豊かな人間経験を持ち合わせているわけではない。けれど、学生時代を家の外で暮らした経験がある分、実家で暮らしてきたご令嬢であるアウローラよりは、幅の広い人間関係を持っている。
人の縁というのは得難いものだ。一度手放すと、二度と戻ってこないことも多い。少し遠方に転居しただけで切れてしまう縁もあれば、ほんの少し話したことがあるだけの人と細く長く縁が続くこともある。軽い喧嘩が永遠の絶縁になることもあるし、逆に口論がきっかけで親しくなることもある。
縁というものは、結ぼうと言う意思がどちらかになければ、非常にカンタンに切れてしまうものだ。年に一度、手紙を送るだけの縁でも、それをどちらかがやめてしまえば終わってしまう。同室だった友人が結婚を機に領地に戻り、それきり一度もあっていない、などということも決して珍しいことではない。
そして、一度切れた縁を再び結ぶことは、存外精神力を要するものだ。
それゆえに、ルミノックスは思う。得難い人だと思った相手の手を離すようなことはしてはいけない、と。みっともなかろうがしつこかろうが、細くてもきちんと、縁を繋いでおかねばならないと。
彼の妹と青年の恋は、障害の少ないものであるはずだ。異性で、身分も釣り合い、年も近くて、性格もあう。反対する身内もなく、お互いを尊重できて、一緒にいて気が休まる。……そんな人間に、一生の間、どれだけ出会えるというのだろう。ひとりも出会えずに人生が終わる人の方が多いのではないだろうか。どれだけこの縁が得難いものか、年若い彼女にはまだ、わからないのだ。
なれば、その背を押すのは年長者の仕事だろう。
ルミノックスは頭から手を離し、『妖精のよう』と言われる微笑みを浮かべた。それが、少々意地の悪いことを言う時の顔だと知っているアウローラは長椅子の上で後ずさり、そんな彼女の肩を、兄はぐいっと押しとどめる。
ずりずり、ぐいぐい。
「ちょ、なによ、兄さま」
「まあまあ、聞きなさい」
間抜けな攻防はしばし続き、アウローラが観念して動きを止めると、兄は笑みを深めて、こうのたまった。
「ほら、考えてご覧。お前が『塔』に入ってさ、三年目くらいに、彼から手紙が届くかもしれない。その時彼は二十四だろうからね、可能性は高いだろう。『どこそこの令嬢と婚約した、来年結婚する』だとか、ああ、『結婚した』って事後報告かもしれない。いくら『塔』が世間と切り離されていると言ったって、彼は『塔』を管轄している王太子殿下の弟分のような存在なのだから、きっと新婚夫婦の話題は聞こえてくるだろう。婚約して、婚姻を結んで、夫婦で夜会に出て、いずれ跡継ぎが生まれて……彼ほどの人なら、きっとその度にみんなの話題にのぼるだろうな。そんな時に、お前は耐えられる? 本当に、刺繍に没頭していられるのかな」
本編はあと3話か4話くらいの予定。多分。




