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「まあ、お嬢様、今日もクラヴィス様からお花が届いておりますわよ。今日は朱星花ですわ。熱烈ですわね! それから、『塔』の方からも書簡が届いておりますが、いかが致しましょう」
「今日も!? ど、っ、どうしよう……」
アウローラは頭を抱え、部屋の寝台でのたうち回った。お行儀が悪いですよと叱責する長年の侍女の声も耳に入らない。
最後の謁見から、一週間が経っていた。アウローラはまだ、『塔』への返事を出来ずにいる。
あの日、『働きかけることにする』と言ったフェリクスは言葉通り、朝に夕に、時間が開けばアウローラに会いに来た。来て何をするというわけでもないのだが、ほんの短いひと時話し、土産をおいて、名残惜しそうに帰っていくのである。その上、彼からは毎朝、美しい花々のブーケが届けられた。銀扇花、青雪草、薄紅百合、金鱗花と、どれもこれも、恋にまつわる花言葉を持つ花ばかりだ。
そして花には毎回、律儀な文字でメッセージが添えられていた。『私を忘れないで』『いつもあなたを想っている』『会いたい』などの、恋人に贈るカードの定型文だが、本人が懸命に書いた形跡がきちんと残っているので、無碍にもできない。毎日夕方までには返信をしたため、家人に送らせているのだが、たった七日、されど七日、こういったことに経験のないアウローラはすでに、返信のネタ切れだった。
「都合のいい婚約者を逃さないためにすることとしては、ちょっと手が込みすぎよねえ。さすがはルナ・マーレさま仕込みの侯爵家嫡男、ってことなのかしら」
「…………左様ですね」
「今の間は何? でももう、お返事も思いつかないわ……」
「その前にお嬢様、どうなさるか、はっきりしたほうがよろしいのでは?」
「そうよねぇ……」
アウローラはごろんとベッドリネンの上を転がって、端からストンと寝台を下りた。リネンはアウローラの手による刺繍を施された自慢の逸品なのだが、今はそれを見ていても心が浮き立たない。
『塔』の申し出を、両親は『好きにすれば良い』『お前がやりたいのなら、それを応援する』と言ってくれた。アウローラが他に兄弟を持たない身の上であれば、婿をとって家を継ぐ必要があるので、『塔』に入ることは渋られただろうが、幸いにして彼女には兄がいる。ポルタ家は辺境を守り続けている実績のある家であり、婚姻で他所とのつながりを持たねばというほど不安定な勢力ではないため、政略結婚も特別必要ではないのだ。
しかし、アウローラはそれで余計に迷ってしまった。
「ものすごーく、魅力的なお仕事なのよ。五年くらい帰っては来られないけれど、手紙のやり取りを禁止されてはいないらしいし、それなら隣国に何年か留学しているのと、そう変わりないじゃない?」
「左様でございますね」
花を花瓶に、書簡を机に。長椅子の上でぐだぐだと落ち着かない部屋の主を尻目に、侍女はテキパキと己の仕事を片付ける。書簡の隣にティーセットと焼きたてのクッキーを並べ、準備万端と言わんばかりに、扉の横に辞した。
「衣食住完備で、刺繍の予算があって、お仕事のない間はいくらでも刺していていいんですって」
「まるで冗談のようなお話ですね」
「そうなの」
「でしたら、どうして迷っていらっしゃるんです? 刺繍を一日中刺して暮らすのが夢だと、昔から仰っていらしたのに」
侍女の問いに、アウローラはぐっと喉を詰まらせた。自分でもそう思っているからだ。
何よりも刺繍が大好きなアウローラだ。少し前だったなら、一つ返事で了承していたに違いない。事後報告になって家族に怒られたくらいのことにはなっただろう。それなのに、どうして自分は、即座に了承出来なかったのか。
眉間に薄くしわを寄せ、アウローラは緑の瞳を閉じた。タマゴのクリーム色をした睫毛が、目の下に影を落とす。瞼の裏に浮かぶのは、切なげで苦しげな、青紫の瞳と、それを縁取る銀の睫毛だ。
「……なんで、かしら。『塔』に入っている間は世俗と縁を切らなきゃと言われて、即答出来なかったの。『塔』よりよっぽど厳しい神殿に入って、刺繍を神に捧げて暮らすのもいいわ、って思っていたこともあったのに」
ふう、と息を吐いた主に、侍女は呆れたように肩をすくめる。ムッとアウローラが唇を尖らせれば、彼女はやれやれと首を振った。
「なによう」
「お嬢様が辺境伯爵家のお嬢様であることを、改めて認識いたしました」
「なあにそれ?」
こてんと首を傾げたアウローラの動きに合わせ、ゆるく結んだだけの髪がゆらりと揺れる。
「お嬢様はご自身で思っていらっしゃる以上に、兄君やお館様に可愛がられていらした箱入りである、ということをご自覚なさったほうがよろしいですよ」
「ええ? ほめてないってことしか分からないのだけど」
「ご自身でお考えくださいませ。さあ、まずクラヴィス様へのお返事をご用意ください」
いつのまにやら侍女の手には、アウローラのイニシアルの入った淡いグリーンの便箋と、スミレの匂いのついたダークブルーのインクが準備されている。文面を考えながらライティングデスクへと向かい、アウローラはまた、小さく息を吐き出した。
「……ほんとに、どうしようかしら」
*
「……女の口説き方ァ?」
非常に思いつめた顔で剣を振るうフェリクスに声を掛けたセンテンスは、ぽかんと口を開けて立ち尽くした。彼の隣には連れ立ってやってきたインゲルス小隊長が、似たような顔で絶句している。
近衛隊の詰め所にて、とある昼下がりのことである。
「なんでまた今更。婚姻の申し込み方はどうしたんだよ」
「彼女を改めて口説きたいのです」
「……喧嘩でもしたのか?」
「いいえ」
センテンスは周囲に聞かれぬように声を潜めて、フェリクスに問う。
「……なら、『塔』の話か?」
「……はい」
『塔』という言葉が飛び出した瞬間、フェリクスのまとう空気がどんよりと重く沈んだ。謁見に同席していたセンテンスは、頭をガシガシとかき回して眼鏡の奥の瞳を細める。
「ポルタ嬢は『塔』に入ることにしたってことか? そんで、婚約は破棄って、そういうことか?」
「……いいえ、まだ決めてはいないそうです」
昨日顔を見せに行った時、そう言っていましたと絞りだすような小声で告げ、フェリクスは顔を上げた。
「前に言ってた『円満な別れ方』として最高のやつが来ちまって、死にそうな顔になってんだな?」
「ですが、まだ決めていないということは、迷っているということだと思うのです。ならば、俺にもチャンスがあるのではないか、と」
センテンスが腕を組む。じっと佇むフェリクスは、彼の言葉を待って口を閉ざした。
『塔』の話は、当初、予定していた通りに『仮初の婚約者』として、しばらく婚約してから破談にする、というのなら、これほど都合の良いこともない申し出だった。彼女の名に瑕疵が付かないばかりか、『塔』に属すだけの能力を認められたと、名を上げることにすらなる話なのだ。そればかりか、名誉のためであるなら、断られる形になるフェリクスの方にも、傷はつかないのだ。
しかし、それは今のフェリクスにとっては、あまりにも受け入れがたいことだった。
フェリクスはずっと、女性が苦手だった。それは、姉と母がいわゆる『女傑』であり、男を振り回して我道を突き進むタイプの人間であったことに起因するが、それだけではない。良い家柄に非常に見目良く生まれ、また能力も優れていた彼は、幼い頃から常に、女性たちの視線に晒されて育ってきたのである。それは、裏を返せば、彼は常に女性たちを見て育ってきた、ということでもあった。
その結果彼は、貴族のご令嬢たちの多くが、表と裏の顔を非常に器用に使い分けていることを知ってしまったのだ。表では美しく装い、しとやかに振る舞って、どうぞよしなにと己を売り込んでくる女性たちが、裏では結婚相手となりうる男性たちに番付をつけていたり、女性同士で蹴落としあったりしているのを見てしまえば、苦手になってしまうのも仕方のないことだろう。しかも彼は、非常に無口で周囲への興味関心が薄いところを『並の女性ではその気にならない』などと勘違いされている節があり、気の強い女性たちに『落としたい相手』として狙われるという悪循環に陥っていた。
そんな人達ばかりではない、本当にしとやかで控えめで大人しい女性もいるのだと頭で理解してはいる。しかし、彼の周りによってくる女性は、その手の人種が多く、フェリクスは女性と一歩距離をおいて接することで、己の精神を守っていたのだった。
そんな風に過ごしていれば、恋愛などできようはずもない。このままでは嫡男が結婚できないのでは、と考えた両親の発想はおそらく正しく、大量に舞い込む縁談もしかたのないことで、彼はほとんど、自分の『婚姻』について、諦めかけていた。母や姉とは違い、政略的な結婚をして、当り障りのない夫婦生活を送り、跡継ぎをもうけるのだろうと考えていたのである。
そんな時に出会ったのが、アウローラだった。
彼女はフェリクスの持つステータスよりも、己の趣味のほうがよほど重要であると考えている、貴族の令嬢としては変わり種の女性だった。家にある程度力があり、家督を継ぐべき兄がいて、領地は王都から遠い、という三つが重なってのびのび育ったため、そのような性格になったのだろう。また、彼女の兄が大変美しい顔立ちだったこともあって、美しい男に慣れていた、というのもフェリクスにとってはありがたい要素の一つだった。
しかし、高いステータスをあまり意識していない彼女は、彼をそれほど魅力的だとは思っていないようだと彼は見ていた。顔は嫌いではないらしく、時々見惚れていたのはわかっていたが、素晴らしい刺繍を見ている時のほうが何倍もうっとりしていたし、幸せそうだったのだ。
それでも彼女は、社交下手でてんで役に立たない彼を、自分もさほど社交が得意ではないというのに、一生懸命支えてくれた。女々しい趣味が知られても笑わず、むしろ興味津々で受け入れてくれた。聞いてもつまらないだろう趣味や仕事の話しも楽しげに聞いてくれたし、彼が理不尽に晒されれば心配してくれて、彼の分まで腹を立ててくれさえした。
彼女が刺繍を刺すことを何よりも愛しているのはこのしばらくの付き合いの中で、よくわかっていた。なれば、彼女が『塔』へ入るように背を押してやるのが一番良いことなのかもしれない、と考えもした。けれど今、フェリクスはアウローラのことを、得難い人だ、と心の底から思っている。手放しては駄目だ、と彼の直感も告げている。指輪が選んだというきっかけさえ、運命だったのではないかと思うほどだ。彼女はすでに、フェリクスの中で、他の誰とも替えの効かない存在になってしまっている。
彼女の人となりをまったく知らなかったとはいえ、『縁談が厄介だから婚約していて欲しい』などと、本当に失礼なことを言ったものだ。あの頃の己を殴り飛ばしてやりたい。
ふう、とフェリクスが吐き出した息は、そのまま凍り付きそうなほど深く冷たかった。センテンスが気遣わしげな目を投げたのにも、彼は気づかない。
「女性を口説く、とは一体何をどうすればよいのでしょうか」
「……お前、女を口説いたこと、ないのか」
「ありません」
「……まあ、ほっといても向こうから寄ってくる感じだしなあ」
「そうですね」
「うわ真顔で言いやがった腹立つ」
鍛錬場の外れ、芝の上にどかりと腰をおろし、センテンスは空に向かって息を吐き出した。隣に座ったフェリクスは、ぽつぽつと言葉をこぼす。
「姉は、とにかくプレゼントをする、メッセージを送る、会いに行く、など『押しの一手』がよいのだと言うのです。本人がそうやってラエトゥス公爵と婚姻するに至ったためだとは思うのですが。しかし、アウローラ嬢は姉とはだいぶ、性格が異なるので、それでよいものか、と」
「何かしたのか?」
「毎日花を贈ることと、時間が取れる限り会いに行ってはいます」
「それから?」
「……それだけです」
「それだけ?!」
思わず大きな声を出したセンテンスは、慌てて口を抑えた。不思議そうな顔をする真面目な後輩に、ごほんと咳払いをする。
「いや、それだけって。それ、口説いてないだろ」
「そうなのですか」
「お前さ、口説く、って何をどうすることだと思ってるわけ?」
「婚姻を承諾してもらえるように働きかけることではないのですか?」
「それは最終地点だから!」
うわそうだこいつ嫡男だった、とセンテンスは遠くを見た。場合によっては命に危険のある騎士団には、嫡男という立場の人員が少ないので、うっかり忘れかけていたのだ。センテンス自身も、それなりの身分の家柄の三男である。
貴族の嫡男の恋というのは、ままならないことが多いものだ。なぜなら嫡男はほぼ確実に家を継がねばならず、継いだならば跡継ぎが必要であり、結婚は義務でもあるからだ。となると、恋した相手と何の憂いもなく結婚するためには、相手が同じ派閥・未婚・婚約者なし・近い家格である必要があり、対象者が非常に限られてしまうのである。
であるからして、その条件に相手が当てはまっているフェリクスは、非常に稀有で運のいい恋をしていることになる。相手が婚姻を承諾してくれるように働きかける、という彼の発想は、間違ってはいない。
しかし、『恋』という視点から見ると、『そういうことじゃあねえだろう』と、センテンスは声を大にしていいたいのだった。
「あのな、それは最終地点でな。まずは、相手にも自分を好きになってもらえるように、自分の気持ちを伝える、ってのが、『口説く』の第一段階だからな。話はそこからだぞ?」
「そう、なのですか」
「ポルタ嬢がお前のことを結婚したいくらい好きになってくれれば、『塔』じゃなくてお前を選んで、万事解決! ってことだろうが。違うのか?」
「そう、ですが」
「じゃあまず、結婚するように働きかけるんじゃなくて、好いてもらえるように働きかけるんだな。ちゃんと気持ちは伝えてんのか?」
ぐっと黙りこんだフェリクスに、やれやれとセンテンスは頭を振って立ち上がる。
「妙に落ち込んだりプレゼント攻撃したりするまえに、まずそこだろ」
「わかりました」
「……いや、別に命令とかじゃねえからな?」
「わかっています」
立ち上がり、尻についた芝を払うフェリクスの頭をぽんと叩いて、センテンスは珍しく、兄が弟を見るような目を向ける。
「情操教育大失敗みたいなお前が、恋する日が来るとはなあ。頑張れよ、玉砕した時は、自棄酒に付き合ってやるから」
「……よろしくお願いします」
悲壮な覚悟を見せたフェリクスの顔はそれでも、どこかすっきりとして決意に満ちていた。
この作品のウリは「ほのぼの」です!(多分)
口説くぜと決意したけど口説き方も知らないフェリクスくんは素直で真面目な長男坊なのだった。




