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「どうです、『塔』に入る気はありませんか」
「……はい?」
アウローラの緑の瞳が、きょとん、と大きく瞬いた。フェリクスがはっと息を呑む。
「アラヌスの話を聞いたときに、ぜひとも『塔』に欲しい人材であると、強く感じたのです」
「わたくしが、ですか?」
「ええ」
『塔』は王家に属する魔術師の頭脳集団だ。彼らは『宮廷魔術師』と呼ばれる人々とは違い、王家にのみ忠誠を誓うことで、あらゆる研究上の便宜を図られている、究極の研究機関だった。魔術師の中でもエリート中のエリートのみが所属を許され、そこに属することは、魔術師として最大の誉れの一つだ。本家であるフロース家の人々ならまだしも、ポルタ家の人間にとっては縁遠い場所である。アウローラの魔力量や魔法・魔術に対する知識量では、入ることなどありえない、アーラ以外の人間の言葉であれば荒唐無稽、何を戯れ言を、と一笑に付されるような話だ。
「でもわたくしは、魔女でも、魔術師でもありません」
「だが『原始の魔女』です。『塔』に属する魔術師で、その重要性を理解しない者はいません。この力があれば、古い魔法やまじないの解明の、大きな助けとなるはずです」
「ですが……」
「もし、『塔』へと属して頂けるなら、貴女には特別の待遇をお約束しましょう。いくらでもいつまでも、刺繍を指していても構わないですし、それ専用の部屋を用意してもよい。古いまじないの再現のプロジェクトに幾つか関わってはもらいますが、それも刺繍を介してという形になりますし、それ以外は生命維持に割く時間以外は、ずっと刺繍をしていても良いように取り計らいます。家事炊事が不要なように、世話人も付けましょう」
ぐ、とアウローラは喉を詰まらせた。
(な、なんて魅力的な条件なの……?!)
要するに、魔術師たちの手伝いとして刺繍をいくつか頼まれはするものの、それ以外は食事や入浴、睡眠の時間をのぞけば、ずっと刺繍を指していてもいい、ということだ。
ご令嬢暮らしでもそれに近い環境は可能ではあるが、やはり伯爵家の娘である以上、最低限の社交は必要事項だし、家族揃っての食事や茶会に出ないわけにはいかない。一日中刺繍を刺していられる日というのは案外ないもので、社交のない冬の間でさえ、五日に一度あれば運がいい方だ。
刺繍に没頭するには、あまりにも魅力的な環境である。
「研究には予算もつきますから、その範囲内で刺繍糸や布を購入することも可能です。魔術師が欲する魔石や魔道具に比べれば随分と安価ですから、ほぼ無尽蔵に購入することができるでしょう。もちろん、予算以外にちゃんと給与も出ますし、」
「……お待ち下さい」
アーラの勧誘に言葉が差し込まれる。その切迫した響きに驚いて、アウローラは隣に座る男を見上げた。フェリクスの顔色ははっきりと悪い。
「口を挟む無礼をお許し頂きたい。――『塔』の所属条件は、『王家に忠誠を誓い、家名を捨てる』という事だったと記憶しているのですが、変わりはありませんか」
「……えっ?」
深刻な声色で告げられた言葉に、アウローラの喉から頓狂な声が漏れた。フェリクスの正面、王太子から苦笑がこぼれ落ちる。
「……ああ、変わりないよ。アーラはアルブム姓を捨て、アラヌスはカントール家から離れた」
どちらも、ウェルバム王国の有力貴族の家名である。アルブム家はフロースにも匹敵する古い魔法貴族であるし、カントール家は南方の侯爵家だ。驚きに言葉もないアウローラに、王太子は真面目な顔になって言う。
「『塔』で研究される内容は、機密性の高いものが多い。故に、『塔』内部で語られることの多くは秘守義務がある。それに、『塔』に属する魔術師たちは際立って優秀な者が多い。だから、どこかの有力者と癒着されないように、『塔』に入る際には家名を捨て、世俗と縁を断つことを求められる。その対価として、潤沢な研究資金と衣食住、そして名誉が与えられるんだ」
「……戒律の厳しい神殿のようですね」
理由に納得し、そう感想を漏らしたアウローラに、王太子も頷く。
「そうだな。だが、魔術師という人種は家よりも研究や技術開発に重きをおく者が多いから、皆この条件を呑む。若い女性にはちょっと厳しい条件だとは思うが……俺としても、ポルタ嬢の力は『塔』にあればいい、と思っているんだ」
王太子は苦く笑った。
「今、『塔』を統括している王族は、俺でね。魔術史研究の観点から、古いまじないや原始の魔法を再現するプロジェクトが複数動いている。そんな中でポルタ嬢の力は、ものすごく魅力的だ。――とは言え、王太子令で無理に所属命令を出したくはない。魔術師は強制を何より嫌うと分かっているからな。できれば自ら協力して欲しいと考えている」
「それに、何も永続的に、というわけではありません。還俗ではありませんが、十年経たずに婚姻などを理由に『塔』を出る者も、少ないですが存在します。夫婦で『塔』に所属している者もおります。出る時には記憶の一部に封印を施す必要がありますが、研究内容を口にできないといった程度のものです。ポルタ嬢なら、今から四、五年属しても、まだ婚姻には間に合いましょう」
いかがですか、とアーラは勧誘の手を緩めない。
アウローラは唸った。
条件が良すぎる。寝食を忘れるほど刺繍に没頭して暮らせるなんて、アウローラにとっては夢のような話だ。仕事の範囲以外は好きに刺すことができるというのなら、刺繍職人よりもずっと自由度が高い。しかも、予算も潤沢だというのだ。親の金、つまり税収や資産運用の心配をする必要もない。
それに、アウローラは今十八歳、たとえ五年『塔』に属しても、二十三歳だ。貴族社会では少々、婚姻には遅れ気味と呼ばれる歳ではあるが、それほど珍しいことでもない。社交界の花と謳われたルナ・マーレとて、婚姻を結んだのは二十四の時だった。五年くらいなら、と思わないでもない。
しかし。
アウローラはちらりと隣の男を見た。彼の顔色は悪いが、表情は完全なる無表情だ。固く口を引き結び、まっすぐに前を見据え、氷の彫像のように微動だにしない。しかしそれは、彼が冷静であるということとイコールではないと、アウローラはもう知っていた。彼の無表情は多くの場合、感情を抑制する――動揺を隠すためのものだ。頑なにアウローラの方を向かず、正面を向いていることこそ、彼が精神に受けた衝撃を物語っている。
一、二年は婚約関係を続けるつもりだっただろうフェリクスにとっては、悪い話だろう。五年後の彼は二十六歳、男性なら未婚であっても不思議ではない歳なのだから、真の婚約者であれば待つこともありえたかもしれないが、二人は仮の婚約者である。アウローラが『塔』に入るなら、婚約はおそらく破談だ。ようやく、縁談話や見合いの夜会から解放されたというのに、一年も経たずにその環境が終わってしまえば、残念だろうことは想像に難くない。彼の性格では今後、同じ条件を飲んでくれる娘を探すのは至難の業だろうし、今度こそ、逃れられない婚姻がやってきそうだ。
仮とはいえ、婚約者と相談せずに、先行きを決めるのは不誠実ではないか。この不器用な人を、何の説明もせずに放り出して良いものか。
アウローラはつかの間悩み、そして。
「……考えさせていただいても、よろしいですか」
と、魔術師たちに告げた。
*
アウローラの言葉で謁見がお開きとなり、侍従の案内で王宮の出口を目指す間、フェリクスは一言もしゃべらなかった。ちらちらとアウローラが視線を投げても、それに応えることもない。ふたりでいる時の沈黙はいつだって心地よいものだったのだが、流石に今日はなんとなくいたたまれず、アウローラは『塔』について考えながら歩いていた。
研究と称しての刺繍三昧の日々は、さぞかし楽しかろう、と考える。もちろん、仕事であるのだから、自由に刺せる頻度は趣味である今より下がるのだろうが、今だって人に頼まれたり、贈り物として刺したりと、何もかも自由に刺しているわけではない。贈り物ならセオリーの図案や相手のイニシアル、家紋など定番の図案が複数あるし、古くからの図案を教本通りに刺すこともある。それを思えば、さほど変わらないだろう。
刺す内容の自由度よりも、刺す時間の自由度のほうが、アウローラには魅力的だ。刺繍を刺していられるなら、睡眠が短くても、一日の食事が少なくても、一向に構わない。その上で、両親の補佐として家の中の差配をする時間や、人より少ないとは言えなくはない社交の時間がないならば、今の倍は時間を掛けられるだろう。憧れの大作だって刺せるかもしれない。
でも、それには一時的にとは言え、血縁や友人との縁を切る必要があるのだ。それは、クラヴィス家の面々も含まれるだろう。ルナ・マーレも、侯爵夫人も、――もちろん、フェリクスも。ポルタの家族は五年くらい離れていたとて、家族でいるだろうと信じていられるだけの絆があるけれど、そうでない彼らとは、きっとここで縁が切れてしまう。本当の婚約者であれば、待ってくださいというところなのかもしれないけれど、五年も待たせるのは失礼のような気もするし、五年もあったら、素敵な恋人ができるかもしれない。なにせ、彼はいい人なのだから。
「アウローラ嬢」
湧き上がった胸の痛みを誤魔化しながら機械的に動かしていたアウローラの足を、隣から響いた暗く低い声が止めた。気づけば前にいたはずの侍従の姿はすでになく、王宮の入り口にほど近い中庭の、東屋の手前に差し掛かっている。
「フェリクス様?」
くるりと振り返ると二歩ほど離れたところに、思いつめた表情のフェリクスが立っていた。それが何故か、母親を失った子狼か何かのように見えて、アウローラは我が目を疑う。どうしてそんなにしょんぼりしているのだろう。
黙って薄紫の瞳を見つめるアウローラに、フェリクスが薄い唇を小さく開いた。
「話を、受けるのか?」
「え? ええと、まだ決めていません。とっても魅力的なお誘いではあるのですけれど、人間関係を断ち切るのはちょっと寂しいな、と思いまして……」
「……そうか」
アウローラの答えを聞いた銀の柳眉がギュウギュウに寄せられる。深い谷間が刻まれて、フェリクスはひどく深刻そうな顔つきになり、彼女をじっと見つめた。深く息を吸い、立ち尽くすアウローラに、一歩近づく。
「それなら」
フェリクスはさらに一歩近づき、アウローラとの距離を詰めた。胸と胸、身体がふれあいそうに近くなり、青紫の瞳と明るい緑の瞳が交わる。
その視線の強さに、アウローラはたじろぐ。
フェリクスは瞳を細め、ひどく切ない顔をして、言った。
「まだ、私にもチャンスがあると思って良いだろうか」
「え……」
何のチャンス? 咄嗟に彼の言葉を理解できず、間抜けに口を開けたアウローラに、きっぱりとした言葉が降った。
「それならば私は、貴女が思い悩む暇もないほどにこちらに傾くよう、働きかけることにする」




