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ちょっと短め。
王太子に依頼された刺繍が完成したのは、二人で出掛けてからちょうど、二週間後のことだった。フェリクスが事前に謁見の申請を出していたこともあり、予定はすんなりと通って、完成から二週間後の晴れた日に、アウローラはフェリクスと、三度王宮を訪れていた。
前回訪れた時は夏の暑い盛りのわずか手前で、太陽は照り雲は湧き、まばゆい生命に溢れていたというのに、今日は空もすっかり秋雲で、風もひんやりと力なく吹き寄せている。王宮の裏に広がる森も眠りの手前の恵みの季節で、豊穣の賑わいを見せていた。
そんな、豊かな秋空の下。二人が侍従に通されたのは、王太子の暮らす宮の裏庭にある、大樹のもとだった。精霊が宿っていたとも言われる、王都で最も大きな木である。
「やあ、待っていたよ」
彼はそこにテーブルと椅子を持ち出して、優雅なティータイムと洒落こんでいた。後ろにはもちろん、眼鏡騎士のセンテンスが呆れ顔で立っていて、今日はその隣に、ローブをまとった影がふたつあった。ひとりは先日の謁見にも同席していた『塔』の次席研究員、片眼鏡のアラヌス・アラヌス。もう一人は、アウローラもフェリクスも見覚えのない人物だ。
アラヌスより頭一つ分背の低いその人は、年齢不詳の男性だった。十代と言われればそうも見えるし、三十代だと言われても、そう見えなくもない。ローブで半分隠れているが、風が吹く度にちらりと見える面差しは恐ろしく端正で、瞳は金色。少々人らしからぬ風情である。彼は黒く長い髪をローブのフードの左右から垂らし、房の先に銀の飾りをつけていて、胸元には銀の鎖から下がる、金の輪に銀の星の紋章がきらめいていた。それだけて、『塔』の人間であると分かるのだが、更に彼の紋章には、何やら巨大な、無色透明の魔石がぶら下がっていた。
「フェリクス、ポルタ嬢。紹介しよう。彼は『塔』の主席研究委員のアーラ・アーラ。精霊の血を引いておられる、御年……ごほん、年齢を超越した人だ。――アーラ、彼女がポルタ嬢。隣の男が彼女の婚約者の、クラヴィスだ」
名を聞いて、二人は驚愕する。外に出ることのないと言われる、門外不出の『塔の主』、アーラ。魔力も魔術も桁違い。半精霊で見目麗しく、整いすぎたその姿を見れば目を灼かれる。そう言われている神秘の存在、宮廷魔術師たちの中でも一線を画す魔術師が、彼だ。
「お初にお目にかかります、お若い方々。アーラと申します」
年齢のところで王太子を冷たく睥睨していたアーラは、アウローラとフェリクスに向かって典雅な礼を取る。慌てて礼を取り返した二人に微笑めば、人によっては卒倒しそうな、とんでもない美貌がそこにあった。
(…………フェリクス様を上回る美貌に、こんなところでお目にかかろうとは。でもここまで行くと本当に人外ね……。さすが精霊の裔の方。子孫でこんなに美人だったら、精霊ってどれほど美人なのかしら)
相手が美人すぎると逆にどうでも良くなってしまうのだなあ。美形慣れしていてよかった、と遠い目をしたアウローラを、アーラはくすりと笑う。
「なかなか豪胆なお嬢様ですね。ご令嬢方はわたしを見ると失神される方も多いのですが」
「アーラの顔は『見てはいけないものを見た』と思わせるレベルだからなあ」
「わたしなど、人間の血が強く出ている方なのですがねえ」
(これで?!)
驚きのあまり、思わずフェリクスを仰ぎ見れば、彼も唖然としてこちらを見ていた。
「精霊と呼ばれる存在はもうほとんど神がかっているからな。昔話に『神を見て目が潰れた』とか『眩しくて顔が見えない』とかそういう説話がままあるが、きっとこれは神ではなくて『精霊』に会ったんだろうな。俺も何度か会ったことがあるが、そんな説話もさもありなん、という感じだぞ。……まあ、皆座れ」
王太子の号令に、護衛のセンテンスを除いた面々は腰を下ろす。音もなく近寄ってきた侍女たちが茶と茶菓子を用意して立ち去ると、大樹の下は木の葉擦れの音と鳥の鳴き声、茶器の音のみの響く、閑静な空間となった。
「今日は、防音はよろしいのですか」
「ああ、アラヌスに防音結界は張ってもらったしな。アーラがいれば人避けは完璧だし、中より外のほうが、潜むところもないから良いだろう」
穏やかな声でフェリクスに応え、王太子は居住まいを正し、アウローラへと向き直る。
「それでは、見せてもらおうか」
アウローラはうなずいて、しずしずと籠から布を取り出す。三度目だからなのか、今日は検閲のあとすぐに彼女の手に戻され、ここまで自ら運んできたのである。
広げたのは、フェリクスの片腕ほどの長さの辺を持つ、ほぼ正方形の布だった。密度の高い麻の生成りの生地で、縫い取りは紅の花の染料で美しい緋色に染められた綿糸だ。四方に、同じ糸で作られたと思われる房が付いている。
茶道具を退け、開いたテーブルの中央にアウローラが布を広げると、男たちは息を呑んだ。
「うお、これは……よくまあ、これほど」
「なんと……これほど精密に再現されるとは」
「素晴らしいですね」
白い布に上で、古代の文字が円を描いている。所々に散っているのは、去りゆく人を悼み、その魂の地上での安らかな眠りと天上での安寧、そして来世での幸福を祈る、古い呪術の文様だ。選ばれた緋色は生命を表す、火の色であり、血の色である。ひと針ひと針丁寧に、力を込めて縫われているのが、魔術師の目には良く分かった。それは力をもって、存在を主張する。
呪術、というと聴こえが悪いが、呪うための技術ではなく、まじないが魔術として確立する前、一足先に確立されつつあった占術や、魔術とは系統の違う『魔法』と区別するために呼ばれていた呼称が『呪術』である。魔力さえあれば魔術を発動する事のできる技術が確立されたために、今ではすっかり廃れてしまったが、呪術は魔術よりもより、人間の一生に関わりの深い術だった。
それ故に、遺跡の壁や古文書には、呪術の文様が多く刻まれている。アウローラが縫取った元の図案も、まじないが呪術と呼ばれ始めた時期のものだ。
「古い文字の解読については、歴史に詳しい兄に力を貸りました」
「兄上……というと、ポルタ家のルミノックス殿ですな」
「ご存じなのですか?」
「殿下が学生の頃振り回した方のお一人としてですが」
「ルミノックスは大学でも、国史学を修めていたからなー。魔法・魔術史研究にちょっと力を貸してもらってただけだ。……それで?」
アウローラは布を撫ぜると言葉を続けた。
「兄のおかげで、どの遺跡の図案であるかが大体わかりましたので。兄の助言で、その時代にも存在したと思われる素材の布と糸を用いました。糸も、魔法染めのものではなく、当時の遺跡からよく出るという、紅の花の染料で染めたものを使っています」
「おー、さすがだなあ。あいつも嫡男でなければ、学者として大成しただろうに」
「兄は諦めておりませんわ。でも、兄の場合は立場より、体が弱い方が問題かと思います。……それから、兄に刺繍の中の古代文字を読んでもらって、遺跡でおそらく、故人の遺品に添えられていた布だろうと判断しました」
「ええ、そうですね、あたりです。こちらの図案の元となった布は、故人の遺品と思われる剣と短剣をくるんでいました。……こちらの図案は『塔』の研究者達の間で、『弔い』の文様であろう、とあたりをつけているものです。死後の世界で安穏として暮らせるように、という遺族の願いが込められたものだろう、と」
アーラが言い、アラヌスが頷く。
そこまで分かっていながら、その図案がどのような術であったのか、再現することが出来ずにいたのは、その時代に多くいたと言われる『原始の魔女』と呼ばれた、魔力量は少ないながらまじないを施すことのできる女性として人々の間に存在していた人たちが、現代にはほとんどいないからだった。魔術と学問の国という立ち位置で諸外国に対しているウェルバム王国では、魔力量が多い娘達は魔女を目指すし、魔女になれない程度であっても、訓練して魔力量を最大限まで引き出し、魔術師となることが多い。そこにすら達しない娘達は多くの場合、魔術師や魔女になる道を諦めて他の道へと進むから、覚醒せずに一生を終えるのだ。
意識しなければ魔術を展開できない『魔術師』は、こういった文様をかつての姿で再現する、という技術には向かない。意識して、ひと針毎に魔力を調節して込めねばならないので、必要な魔力量に対して大変な労力が必要であり、小品であればなんとかなるものも、大作となると精神消耗が著しいのである。
ならば魔女に再現してもらえば、という話なのだが、魔女というのは、息をするように魔力を扱う人々である。おそらくはこのような図案を刺繍として施せば、強力な陣となってしまい、まじないどころではなくなってしまう。場合によっては、完成前に魔力が発動してしまうだろう。
呪術――まじないを使える人間は、非常に少ないのだ。とっくに廃れ、よほどのことがなければ立身することの出来ない技術を身につけようとする庶民はいない。日銭を稼げなければ飢えてしまうからだ。ではゆとりのある貴族はというと、魔術師でも魔女でもない娘は花嫁になる道を選ぶのがほとんどだ。
育てれば、同じような力を持つことのできる人間はいるのだろうが、アウローラのように、周囲の導きなしで、当時の人のように力を開花させている娘は希なのだった。
「……アラヌスから聞いてはいましたが、本当に素晴らしいです。想像以上でした。安らかに眠れるように、との思いなのでしょうか、護りの力が穏やかに満ちています。きっと、当時、故人が埋葬された時には、あの布はこのような力を宿していたのでしょう。試してみなければ分かりませんが、この布に包まれていた剣は世の理よりも長く、曇りのない状態を維持していたはずです」
アーラが感嘆の声を上げる。いつかのアラヌスと同じように、眺め、触れ、ひっくり返し、手で触れて目を閉じ。周囲が息を呑んで黙りこくっている中で、ひとり検分を続けている。
そして言った。
「ポルタ嬢、貴女は魔力は少ないかもしれない。でも、稀有な力の持ち主です。どうです、『塔』に入る気はありませんか」




