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そして昼下がりを大分過ぎた頃。アウローラとフェリクスは王都の大公園の中にあるカフェで、遅い昼食をとっていた。山間のウェルバムは秋が早い。夏の終わり、早くも和らぎ始めた日差しのもとに広がるテラス席の端で、のんびりと、涼やかな風に吹かれている。
カフェは、しばらく前から王都の民衆の間で流行っている飲食店の形態だ。ウェルバム王国におけるカフェの歴史はそう短くはなく百年以上前からあるのだが、夜になるとアルコールを提供するため、長いこと『ちょっと風紀の乱れた』店であると、上流階級には認識されていたのである。
しかし、民衆と貴族の垣根が年々低くなり、庶民向けであっても質の良い物を出す店が増えてくると、カフェは一気に広まり、市民権を得た。中には著名な作家や画家ばかりが集う、サロンのような店もあるらしく、貴族や王族もお忍びで現れることがあるらしい。とはいえ、ご夫人やご令嬢からは今でも、『女性だけでは絶対に入れないお店』、という印象である。
しかし、大公園の中にあるカフェは『席代』のかかるテラス席のみという、庶民には少々敷居の高い作りであるため、最近は若い貴族のデートによく利用されているそうだ。恋人に連れて行ってもらったとなれば、少女たちの間ではちょっとしたステータスになるらしい。
らしいらしいと伝聞ばかりなのは、フェリクスがルナ・マーレに聞いてきた情報が元になっているためである。刺繍大好きなインドア派の箱入りお嬢様であるアウローラは当然として、フェリクスもまた、流行とやらには乗り遅れがちな人間であった。ご令嬢でも行けるカフェなど、彼が知っているはずもない。
……そう、フェリクスは頑張ったのだ。共に出かけようと誘いの手紙は送ったものの、どこに連れて行けばアウローラが喜ぶのかなどさっぱり分からず、途方に暮れた彼は、思いつめるあまりに姉に助言を求めた。彼女の言いなりに占術を行ったり、近衛隊の独身男性をルナ・マーレの友人に紹介させられたり、私的な時間を大量に犠牲にした末に、彼は姉に仕立屋の職人部隊を紹介してもらい、おすすめの食事処をピックアップしてもらい、最後に服装を選んでもらった。姉が彼を振り回すことは多々あれど、彼が自ら姉を頼るなど、アウローラと知り合うまではなかったことである。
感慨に浸るフェリクスの向かいでアウローラは、出てきた温かいサンドウィッチと濃い目のコーヒーを好奇心いっぱいの瞳で眺めていた。綺麗に凪いだ黒い水面には、恐る恐る、しかしどこかそわそわとはしゃいだ、緑の瞳がくっきりと映り込んでいる。
「……あの、お先に頂いても?」
「ああ」
「では、失礼して。――頂きます」
きりりと何かに挑む目をして、意を決したようにカップに口をつけたアウローラは、顔をぎゅっとしかめる。
「う、わ、苦……っ」
「コーヒーを飲んだことは?」
「は、初めてですわ……」
涙目になりながら、アウローラはフェリクスを仰ぎ見た。
「いつだか読んだ紀行小説で、主人公の旅人がさも美味しそうに、『褐色の飲み物』を飲んでいたので、一度は飲んでみたいと思っていたのですけれど……こんなに苦いとは思いませんでした」
「紀行物を読むのか?」
軽く目を見開いたフェリクスに頷いて、アウローラは手元のカップを、少しだけ遠ざける。
「古い山間の村で、美しい刺繍の花嫁衣装を賛美するシーンがあるのですけれど、そこが素晴らしいんですの。兄が書店で見つけて来てくれましたのよ。……でもどうしましょう、別のものを頼むにしても、カフェはコーヒーを出すところなのですよね?」
「ならばこれと交換するといい」
フェリクスは自分の前の、まだ口をつけていない飲み物をアウローラの方に押しやり、彼女の手元のカップをひょいと取り上げた。アウローラの目の前に現れたのはグラスで、ふんわりもこもこした白いクリームが乗っている。どうやらケーキなどに乗っているクリームと同じょうなもののようで、鼻を近づけてみれば、かすかに甘い香りがした。
「アインシュペナー(一頭立ての馬車)という飲み方だ。コーヒーは紅茶同様、ミルクを入れれば味が和らぐ。これは半分が砂糖入りのクリームだから、きっと飲めるだろう」
「一頭立ての馬車?」
「なぜそう言うのだろうな」
フェリクスは首を傾げるが、初めて聞いたアウローラには分かろうはずもない。
とはいえ、せっかく譲ってもらったものだ、とアウローラは再び勇気を出してグラスに口をつけた。ふわりと入り込んでくる柔らかいクリームの甘みと、あとからやってくる、コーヒーの苦味。しかしそれは融け合って、こっくりとした味わいの、ほろ苦い飲み物になっている。
「あ、飲めます……やっぱりすこし苦いですけれど。……フェリクス様は平気ですの?」
「騎士隊では茶より良く出る。最初はその苦さに顔が歪んだものだが」
相変わらずの薄い表情で、けれど少しばかり遠い目をしたフェリクスは、その時のことを思い出しているのだろうか。
「ひょっとして、わたくしが飲めないかも、って思ってらっしゃいました?」
「……しかし、いい天気だな」
(お気遣いとっても嬉しいですけど、あからさますぎますよフェリクス様……)
二人の後ろについている護衛と侍女も苦笑を浮かべる気配が漂う。コホン、とフェリクスは不自然な咳払いをして、「ところで」と今度こそ話題を変えた。
「メゾン・バラデュールの工房は楽しかったか?」
「ええ、それはもう!」
思わず全身に力が入り、アウローラは前のめりになって拳を握った。
少なくともこの数年、ひょっとしたら生まれてから今までで、最も心躍った日であったかもしれない。思い出すだけで心が沸き立ち、微笑みがこぼれていくのが止められない。
「あんなに素晴らしい、作品や資料や糸や布や人や……もう最高でした!」
「職人たちにも大人気だったしな」
「あ、あれはちょっと、お恥ずかしかったですわ……」
アウローラは頬を染める。
会いたいという職人がいるからと工房の応接室へ連れて行かれたアウローラを待っていたのは、メゾン・バラデュールの刺繍細工職人部隊全員だったのだ。彼ら彼女らはアウローラの夜会のドレス刺繍にも携わっており、アウローラを『黒薔薇刺繍の姫君』などと呼んで、図案の原案となったアウローラの刺繍に受けた感銘を滔々と語り、アウローラが最後に付け加えた胸元の薔薇刺繍について熱く感想を述べたのである。
『あの立体的なバラの刺繍をヒントにして、刺繍を施した布を使ってコサージュを作り、ドレスやヘッドドレスのパーツにする案も出ているんですよ』
と続けられた時には、アウローラは感激のあまり失神しそうになった。自分の趣味でしかなかった刺繍が、他者に――それもプロフェッショナルの職人に認められたのだ。あの日、プリュイ女史には絶賛され、それもとても嬉しかったのだけれども、実際に刺すことを仕事にしている人たちの言葉は、アウローラにとっては神託にも等しい、もっとずっと重いものだった。
「連れて来て下さって、本当に有難うございます」
噛みしめるように、そう応え、アインシュペナーを小さくコクリと飲み込む。
「それなら、良かった」
フェリクスもまた、満足気な深い安堵の息を吐き出して、目を細めてしみじみとそう言った。
「確かに貴女は心の底から楽しんでいるように見えたからな。本当に、刺繍が好きなのだな、と良く分かった」
「……フェリクス様を放っておいて、すみませんでした」
「刺繍を眺めている貴女を眺めているのも楽しかったから構わない。何を話しかけても上の空で、面白くもあった」
「そんなに、夢中でしたか。自覚がなくて、お恥ずかしいですわ……」
そう言われれば、あらゆる資料を眺めていたあの三時間あまりの時間、彼はアウローラと同じ部屋、それも彼女の真横か真後ろに常にいたはずなのに、記憶が全く残っていない。
さっと青ざめたアウローラに、フェリクスは首を振る。
「私も古い占術の資料を大量に渡されれば、周囲など置き去りにして読みふけるからな」
「でも、折角お誘いいただいたのに」
その恩人を放っておくなんて。しょんぼりと肩を落としたアウローラを見て、フェリクスは慌てて首だけではなく手も振った。
「気にしなくていい。好きなものに関わる時には当然のことだ。貴女の刺繍の技術の素晴らしさは、あの集中力と好奇心からくるのだろうし、殿下の目に止まったのもそれあってのことだろう。どれだけ貴重な魔力だとしても、拙い刺繍では気にされなかっただろうと思う」
それはあるかもしれないと、アウローラは僅かに気持ちを上昇させた。そもそも、拙い腕前の刺繍であったなら、礼の品として差し出さなかっただろう。
「……幼い頃のような腕前でしたら、まずそんな作品を差し上げられませんでしたから、魔力がお目に触れることもなかったでしょうね。……初めての刺繍はひどいものでした」
「ひどいものとは?」
「……何を思ったか、いきなりバラになど挑戦して。未だ捨てられずに取ってあるのですけれど、なんというか……赤い紙くずに緑の取っ手がついているようにしか見えませんでしたわ」
戒めと思い出を兼ねて、今でも領地の屋敷の部屋の引き出しの中に仕舞っている。いくら幼い頃のことだと言っても、あの腕前からよくぞここまで成長したものだと、自分をほめてやりたくなる程だ。
「それは逆に見てみたいような気もする」
「まあ、いじわるを言って」
「幼い貴女が懸命に刺繍をしている様は、とても愛らしかっただろうからな」
「どうでしょう。おてんば娘でしたよ。乗馬も剣術も、兄とともにやりたがって」
想像したのか、フェリクスが顔をほころばせた。反則級の美貌の笑みに、アウローラは途端にいたたまれなくなって、顔を俯けた。――どうしても、眩しいような気がしてしまう。
(兄様も、父様も、キラキラしてるんだから、わたしは人よりも美形に慣れていると思っていたのに、なんでこんなに眩しいのかしら。……精霊級の美男子は格がちがうってこと?)
「そういえば、殿下ご依頼の刺繍はどうなったんだ?」
「半分は終わっています。フェリクス様が帰られてから、だいぶ時間がありましたし。でも、どうしても使いたい糸が避暑地では手に入らなくて。取り寄せるよりも、こちらに戻ってくる日程の方が早かったので、一旦手を止めているところです。糸は帰ってきた翌日には注文しましたから、もうすぐ届いて再開できるはずです。ちゃんと集中できれば、完成は来月の半ばくらいではないかと考えています。……頑張らないと」
「集中できないこともあるのか? いつも夢中で刺しているのに」
目を丸くしたフェリクスの言葉に、アウローラは唇を震わせる。
「い……いつも、そんなにじっくり見ているんですか?!」
「貴女を見ているのはとても楽しいから。少し眠くなってうたた寝して起きたら、貴方が手以外全く動いていなかったから驚いたこともあるが」
「そ、そういうときはお声がけくださいませ!」
集中して刺している時の自分がひどいという自覚はある。デビュー前の少女時代、領地の屋敷では、兄の声にも父の声にも返事をせず、母親の手で部屋から引っ張り出されることも珍しくなかった。集中しすぎて暗くなっていることに気づかず、使用人に幽霊かと悲鳴をあげられたことさえあるのだ。
ちびちびとコーヒーの上のクリームを舐めながらしょぼくれるアウローラに相好を崩すと、フェリクスは温んだ濃いコーヒーをあおった。
「まあ、冗談はさておき」
「冗談?!」
「来月の末あたりに謁見が可能かどうか、殿下に伺っておこう。しかし……」
突然顔をしかめたフェリクスに、アウローラがまばたきする。フェリクスは長い脚を組み替えながらしかめた顔もそのままに、残ったコーヒーの水面を覗きこんで息をついた。そよりと青い風が吹く。
「殿下といえども、貴女と他の男を会わせるための段取りを付けるというのは、あまり快いことではないな」
「はい?」
「私はあまりこういうことの経験がないが、これが嫉妬というものなのだろうか……」
「えええ、っと?」
アウローラの頬に血が上った。真顔でそんなことを言われても困る、と頬を冷やすためパタパタ仰ぐ。しかし、素直な質であるフェリクスは、自覚もなくトドメの言葉を放った。
「殿下に貴女の刺繍を見せるために出かける予定を立てる、というのが何やら、胸のうちにもやもやとしたものが湧き上がるというか、苛立たしい気分になる」
ぱくぱくと、アウローラの口が開いたり閉じたりするのを眺めながら、はあ、と息をもう一つ。フェリクスは右の手袋を外すと何やらつぶやき、長い指の先、整えられた爪で、コーヒーカップの縁を三度叩いた。高く澄んだ、良い磁器らしい音が響いて、暗褐色の水面が一度、淡い青紫の光を帯びる。
それはほんの一瞬のこと。あっという間の元の静謐を取り戻した水面を覗いて、フェリクスはその柳眉をひそめた。
「ほら、占いの結果も良くはない。……謁見なんてやめてしまおうか」
「えええっ、いや、いやいや、ダメですわ! フェリクス様の信用に関わりますでしょ! それより、いまのはなんですの?」
「水盤占いの簡易なものだな。水面に映る影から行く先を占う。古の大占術者は未来の像を見ることさえ出来たというが」
「ちなみに、今の結果はどのような?」
「『暗雲』だな」
「……見通しが暗い、という意味でしょうか?」
「よくないことが起こるかもしれない、という程度だな。私に対してだから、貴女が気にすることはない。――外れることも多いものだ、そんな顔をしないで欲しい」
表情を曇らせたアウローラの前で、フェリクスは残りのコーヒーを飲み干した。そして、サンドウィッチに手を伸ばす。
「でも、心配です。……随分前にもお話した気がしますけれど、わたくしは心配くらいしか、できることがないのですから」
「そんなことはない。隣に座っていてもらうだけで、存分に助けとなっている。……貴女と話すためならば、私の口も多少はまともに動くようだから」
「そういえば、随分話が続くようになりましたね。最初の頃を思えば、今日なんて、びっくりです」
しみじみ、アウローラはそう思う。あんなに口下手で、仕事の話くらいしか話題もなかった人と、こんなにも話が弾む日がくるなんて、想像もできなかった。彼がこれほど喋ってくれるようになるとはとても思えなかったし、アウローラ自身も、これほどに打ち解けるとは思わなかったのだ。
何しろ彼は乙女の憧れ、凍れる銀月の騎士様とやらだったし、実際にとてつもない美貌で、そのうえ侯爵家の嫡男だ。手が届かないほど遠い身分の人ではないけれど、近づきがたい存在ではある。当たり障りのない感じで婚約者をして、一年か二年で破談にする予定だったのに。
「古くからの知り合いが見たら腰を抜かすだろうな」
フェリクスは少しだけ口の端をもたげ、それからひどく真剣な顔をして、椅子の上で居住まいを正した。アウローラは目を丸くして、グラスから放した手を膝に乗せる。
「……殿下との謁見が無事に終わったなら、聞いてもらいたいことがある。時間をくれるだろうか」
「……いつものお茶会とは別にですか?」
まっすぐな視線に射られ、アウローラも背を伸ばす。そして、そろそろ偽装婚約終了のお知らせだろうか、と考えた。今年のシーズンも残りふた月ばかりだ。冬になれば領地に戻る。想定よりちょっと早いが、あまりに長く婚約していては最後に破談になった時、外聞が悪いのだろう。
(でもこの感じなら、破談になっても、お友達ではいて貰えそうかしら……?)
つきん、と心臓の奥が痛んだような気がしたけれど、気のせいだと思うことにする。
アウローラはいっそう背を伸ばして、しっかりと前を向いた。彼は浅く頷く。
「そうだな、別にして欲しい」
「分かりました。ご連絡を、お待ちしております」
神妙な顔で頷いた彼女に、フェリクスはまた、ふんわりと目元をゆるめた。
……この期に及んでアウローラときたら。




