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指輪の選んだ婚約者  作者: 茉雪ゆえ
本編

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 アウローラがあんまりにも瞳を輝かせるので、フェリクスは自然と緩んでしまう頬を保つのに必死だった。ちらりと横目でガラス戸に映る己を見れば、いつも通りの無表情ながら、見る人が見れば完全に『腑抜けた顔』だと分かってしまうような顔がこちらを見ている。

 コホンと喉を鳴らして冷静を保とうと試みるが、全くうまくいかない。日頃のフェリクスをよく知る近衛隊の同僚たちは、きっと驚愕して後ずさるだろう、と彼は思った。

 しかし、視線を戻せば再び緩んでしまうのは、もう仕方のないことだった。それほど、隣に佇む娘はときめいた顔を見せていたのだ。


 どこへでもとは言ったが、特別行きたい場所があるわけでもないというアウローラを、ならばとフェリクスが連れてきたのは、とある小さな工房だった。そこには黒塗りの古い木に金の文字で、『メゾン・バラデュール 装飾工房』と書いてあった。――あの仕立屋の、装飾を手掛ける専門の工房である。高級メゾンや宝飾店が立ち並ぶ通りの一本裏、昔気質の職人の店が多く立ち並ぶその一角に、その工房も佇んでいた。

 馬車から下り、古いがよく手入れされた石畳の上で呆然と看板を眺めるアウローラの横で、フェリクスが淡々と説明する。


「この建物は丁度反対側が、ラディウス中央通りのメゾン・バラデュール本店になっている。中庭を挟んで繋がっているそうだ」

「そ、うなのです、ね」


 うっとり、ぼんやり、夢見るように。森の精霊のような緑の瞳は水を湛えた泉のように潤み、透けるように白い肌は、色づき始めたばかりの果実のように薄赤く。そんな頬には白魚のような、白くほっそりとした指が添えられている。

 物語の王子様に憧れる幼い乙女と言うのはきっとこんな顔をして、手の届かぬ天上人に憧れたりするのだろうか、とフェリクスは益体もないことを考える。口下手であり、彼女に何も与えられていないような気がしていたフェリクスだが、己の行動が彼女のこの表情を引き出したのだと気づけば、心が震えた。


「姉上の衣装にいつも刺繍をしている職人がここにいてな。嫁に行く前からのことだから、今も母が懇意にしている。私の服のいくつかも、その職人の手によるものらしい。それで、貴女が刺繍好きだという話をしたら、見学に来ないかと言われてな」

「……楽園ですかここは」


 すでにガラスの向こうに目が釘付けになっているアウローラの前で、カタンと黒塗りの扉が開かれた。そこから出てきたのは、金縁の丸メガネに鼻の下には綺麗に整えられた白い髭、という執事的な風貌の壮年男性である。思わずガラス窓から一歩下がったアウローラに、彼はニコリと微笑んだ。


「お待ちしておりました。クラヴィス様とポルタ嬢でございますね? わたくし、オーナーの執事を努めております、ラルエットと申します。どうぞお見知り置きください」

「ああ、よろしく頼む」

「はい、ルナ・マーレ様からくれぐれも、とお言葉を頂戴してございます。……どうぞ、中へ」


 楽園の扉が開いたわ、とアウローラがポツリと言ったので、フェリクスは吹き出しそうになるのを懸命にこらえた。





 人は本当に感動すると泣いてしまう、というのは本当のことだったのだなぁ、とアウローラは他人事のように考えた。天上の国の扉が開き、自然光を程よく取り込んだ作業に最適な明るさの作業室、材料室、それから資料室、と移動するに当たって、アウローラの瞳はどんどんと湿り、最後にはぽろり、頬を伝うほどになってしまったのだ。

 それは今、資料室で作品やサンプルなどを見せてもらうにあたり最高潮となって、観劇のラストシーンに涙する貴婦人のような有様になってしまった。横からすっと出てきたハンカチーフに瞳をそっと拭われて顔を上げれば、フェリクスと視線が絡む。彼が隣で困惑しているのに気がついて、アウローラは慌てて首を振った。


「違いますのよ、フェリクス様、悲しいわけではないのです。ただ、素敵なお芝居を見たあとのように、あんまりにも素晴らしくって……胸が詰まってしまって……」

「……それなら、いいんだが」

「そう仰って頂けますと、わたくし共としましても、胸に迫るものがございますね」

「本当に、なんて素敵なんでしょう……」


 ラルエットが柔らかな笑みを浮かべる。アウローラは頷いて、卓の上に広げられたサンプルや図案集に魅入った。

 初代の残したサンプラーや、はじめて王侯貴族のドレスを仕立てた時のサンプル、裕福な庶民層が現れた頃に若い娘がこぞって求めたという花刺繍のワンピース。何十年も前にブームを巻き起こした色鮮やかな刺繍糸の見本や、二代目が近隣諸国を回って集めたというデザイン画や刺繍図案、布見本の数々に、エマ・プリュイ女史が新人だった頃のはじめてのデザイン画。

 それは、浅くはないメゾン・バラデュールの歴史の粋といっても過言ではないものだった。


(宝の山だわ……!)


 ドレスの刺繍をなぞる手は震え、百年以上も前の刺繍に心が踊る。


(昔は魔法染めなんて技法はなかったものね……でも、自然のものから取れる染料の素朴さは、古い時代の図案に相応しいわ。宗教色が強い図案のようだから、中世のものかしら。宝石のカットが甘いのも、古い時代ならではね。輝きは弱いけれど、かえって力を感じるのは、採掘された時の状況に近いものだからなのかしら……。あ、この図案は見たことがあるわ、知の神様と始まりの魔女さまの婚姻の場面よね。……今はこういう、物語の場面を刺繍することはないものね。ほとんど織りのタペストリーばかりだもの。いいわあ、こういう大作……! 作ってみたい……!)


「アウローラ嬢、その図案はかなり力の強いものだから、あまり触れない方がいい」

「はい……」

「……ラルエット、彼女の手元からそれを取り上げて、別のものとすり替えてくれ」

「かしこまりました」


(あら……この図案も素敵。今流行の東洋趣味と似ているけど、ちょっと古いわね……あ、もしかしてこれ、この図案が実際東洋で流行った頃に交易でもたらされた実物じゃない?!)


「そちらの品は、二百年ほど前に東国へ向かった商人が持ち帰り、当時の王家の方に捧げたものだとか。それを騎士のどなたかが拝領し、それが巡り巡って、先代の頃に我がメゾンにたどり着いたものと聞いております」


(や、やっぱり……本物! これが、本場の『藍』の糸なのね……! すごいわ、なんて深い青なの! 金と銀とが散りばめられているのに、こんなにシックになるなんて……しかもこれ、宝石もガラスも何もついていないのに、なめらかに輝いている。よほどいい絹の糸なのね。飾り石やレースに全く頼らないでこのびっしりとうめつくされた刺繍……昔の人ってすごいわ、一体どれだけの時間と情熱が費やされたのかしら)


 ほう。


 もはやため息をつくことしか出来ないでうっとりと立ち尽くすアウローラの後ろで、男二人がちらりと目配せしあう。放っておけば彼女は寝食も何もかも忘れて、ここに立ち尽くし、次から次へと現れる刺繍の数々に目を奪われ続けるのだろう。


「……お嬢様、そこまで喜んでいただいて、こちらとしては非常に喜ばしいのですが、そのう。もう、こちらにいらして、三時間ほど、経っておりまして。昼の休憩に、お嬢様にお会いしたいと切望している職人がおりますので、どうぞお会いしていただけないでしょうか」

(ええっ、もうそんな時間なの?!)


 ラルエットの引き離し作戦に、アウローラは我に返った。ぼんやりと潤んだ瞳でくるりと振り返り、背後の二人を見つめる。幼い子供が『帰りたくない』とだだをこねるのを必死に我慢して目線だけで訴えてくるようなその目に、ふたりは喉をつまらせながら、アウローラを促した。


「フェリクスさま」

「……また連れてくる」

「……きっと、きっとですよ!?」

「ああ、約束する」

「……さあ、お嬢様、こちらでございます」

(あああ、宝の山が遠ざかる……!)


 絶対ですからね! と繰り返すアウローラに、ラルエットがしのび笑う。アウローラはフェリクスに背を押され、後ろ髪を引かれに引かれながら振り返り振り返り、部屋を後にした。







デートだろうが相変わらずのアウローラであった。


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