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「見つけたぞクラヴィス! 僕と勝負をしろ!!」
(えええなんでこの人が?!)
ぱかんとアウローラの口が開き、フェリクスの目も見開かれる。
栗色の、美しい毛並みの馬の上で揺れるのは、馬よりもつややかに光を放つ金の髪と、青の瞳。最早すっかりお馴染みの、ユール・イル・レ=ルーミスだった。
*
「何なんだ一体……」
「貴様に勝負を挑みに第四班へ足を運んだら、夏季休暇だというからな! ラエトゥス公爵がこちらに向かったことはすでに周知のことだったから、貴様もこっちだろうと踏んで追いかけてきたのだ!」
「……つきまとい犯罪者のような真似はやめろ!」
ユールはなぜか胸を張り、馬から軽快に飛び降りた。手綱から手を離せば、ユールの馬もフェリクスの馬と同じように、湖に近寄って行って水を飲み、同じように湖畔の草を喰む。
「愛されてますね、フェリクス様……」
「悪いが本当にそっちの気はない!」
思わず漏れたアウローラのつぶやきにフェリクスはぶるりと震え、鳥肌が、と腕を見せる。白いシャツをまくった肌はポツポツと粟立っていた。そんな睦まじい二人の姿に、ユールが何故か、声を上げた。
「おお、女神! 貴女も来ていたのか!」
「……はい?」
つかつかと迫ってくるユールに、アウローラは及び腰になる。ずりずりと後ろに下がる彼女とユールの間に、フェリクスがずいと割り込んだ。
「何なんだ。彼女にあのような恐ろしい思いをさせたお前が、近寄るんじゃない」
「そうだな、その節は大変に失礼をした。心から詫びよう」
この前とは態度が違いすぎる。フェリクスは警戒も露わにユールを睨めつけ、アウローラも怪訝な顔で彼を見る。するとユールは役者のような動きで二人の前に跪いて、何故か恍惚の目を向けてきた。
「あのあと、考えたのだ」
語り始めるユールの前で、二人は目配せしあい、少し下がる。
「貴様のような男が、何もない女を娶るはずがないのではないかと。そして、あの夜会でのポルタ嬢の振る舞いを一つづつ、思い返してみた。そうして気がついたのだ。彼女が得難い女性であると!
容姿で劣ることも物としない、堂々とした態度! 陰に隠れてしまうことのないよう、不本意であろう色のドレスをまとう健気さ! 参加者の殆どの名を正しく認識し、敵を作らぬ会話で相手に印象づけ! 最も手強い夫人の口撃も華麗にかわし、あまつさえ味方につけたその手腕! 窮地に陥ろうとも泣きも喚きもせず、退路を探しながら相手に立ち向かう豪胆さ!
そして! なにより! あの……あの踏みっぷり! 緩急をつけ、僕を痛めつけようとするあの重み! ぐりぐりとえぐられる筋肉のもたらす、快い痛み……!
ポルタ嬢の足を思い出す度に眠れず、僕は幾晩も震える事になった……!」
うわあ。
声には出なかったが、アウローラとフェリクスの口元は同じように動いていた。おそらく、アウローラを見なおしたからというよりは、焦った末の渾身の踏み付けが、彼の中の開けてはいけない扉を開けてしまったらしい。それが好感度と結びつき、彼の中の印象をひっくり返したのだ。
ユールの熱に浮かされた瞳が、アウローラを捉える。
「お願いだ! ポルタ嬢! どうか、今一度、僕を踏んでくれ!」
「お、お断りします!」
「なんで!」
「させるわけがないだろうが!」
迫るユール、仰け反るアウローラ、彼女を背にかばうフェリクス。コメディアンも驚きの構図が出現し、アウローラは引きつった笑みを浮かべて「無理です」と呟いた。
「ルーミス様の美貌であれば、いくらでも踏んでくれる人がいそうですけれど……」
「そこを何とか! 貴女でなければ駄目なのだ!」
聞きようによっては熱烈な愛の告白のようだ。そう思ったのはアウローラだけではないらしく、フェリクスがただでさえ鋭い目を余計に釣り上げて、ユールに掴みかかる。
「絶対にさせん!」
「何故クラヴィスが邪魔をするのだ! 僕はポルタ嬢に懇願している! 貴様はすっこんでいろ!」
「馬鹿野郎、俺の婚約者だ!」
こくこくとアウローラは激しく首を振る。あの時は非常事態だったが、足を見せるのは基本的に、身内、それも配偶者か同性に限られるものだ。例え形は見えなくとも、踏むだの撫でるだのといった動作もそれと同様である。
折れる気配のない二人に何を思ったか、ユールは腕を組むと今度はフェリクスに迫る。
「……よし分かった、夫の許可があればいいんだろう? クラヴィス、今から僕と乗馬で勝負しろ! この湖を一周し、お前より先に着いたら彼女の足に踏まれる権利を僕によこせ!」
「おおおお夫?!」
「俺になんのメリットもないだろうが!!」
「貴様が勝てばもう迫らん!」
「乗った」
(乗るの!?)
目を白黒させるアウローラを他所に、男二人はいつの間にやら、それぞれの愛馬を呼び寄せている。馬が嫌そうにしている気がして、アウローラは何やら憐れむような気持ちになってきた。
「いいか、ルールは至極シンプルだ。ポルタ嬢の掛け声で、馬を走らせる。湖の周りをぐるりと周り、先にここに戻ってきたものの勝ちだ」
「ああ」
(……勝手に話が進んでる)
アウローラは遠い目をして、美しい山並みを眺めた。感動が半減だ。
それから後、アウローラの掛け声で走りだした彼らは、しばらく戻って来なかった。やっぱり刺繍道具を持ってくればよかったな、とぼんやり空を見上げるアウローラの前に先に戻ってきたのは当然のごとく、フェリクスである。彼は馬から降りると、悔しがって地団駄を踏むユールを背に、爽やかにこう告げた。
「勝算があったから乗ったのだ。ルーミス領は馬の産地で名馬が多く、奴も自信があったのだろうが、奴の馬は走ってきたばかりで、私の馬は休んでいたところだった。銀雪号も軍馬だからな。そんな状態なら負けるはずがないし、それに」
言葉を切ったフェリクスは、ちらりとアウローラを流し見る。
「相棒も、よくよく私の気持ちを汲んでくれた。――絶対に負けるわけには行かないという気迫が伝わったのか、平時よりもよほど速く走ってくれたのだ」
*
そんな波乱もありつつ、フェリクスとアウローラはそれから数日、避暑地の観光を楽しんだ。
でかけた先でユールに再び遭遇したり、入った食事処でラエトゥス公爵夫妻と隣りあわせてしまったり、ポルタ伯爵が泣きついてきたりはしたが、概ね楽しい日々を過ごし、フェリクスの短い休暇はあっという間に過ぎてしまった。
「明日には王都に向けて、立たないといけない」
「……まあ、お休み、短いのです、ね」
「二週間はもらえるが、移動時間を計算しなければならないからな。――また貴女に会えなくなるのは残念だが」
今日が最後という日の夕暮れ、二人は再び、あの湖畔を訪れた。並んで岩の上に腰掛け、まばゆく光るビブリオ山脈を眺める。
今度こそ二人っきりの湖畔は、ひどく静かだった。アウローラはしみじみと、ここ数日を思い出す。
山間の街の特産品の卵やミルクを利用した素朴な焼き菓子は、洗練されてはいないけれどとても美味しかったし、都でやれば眉をひそめられるであろう、『買い食い』も楽しかった。
露天に並んでいた木彫の人形はちょっと不気味で、けれども横に並んでいた木彫のクマは可愛かった。一つ買ってもらった小さいものを、刺繍箱に入れてある。
ひどく古めかしい店があると思ったらまじないの道具が売られていて、中にはまじないではなく占いの道具もあり、フェリクスが夢中になってしまっていたのも面白かった。何がいいのかアウローラにはさっぱりわからなかったけれど、彼はあれこれと店主に質問し、幾つかの道具を買い込んでいた。
民家の間の小道では、平民のおばあさんがテーブルクロスに刺繍をさしていて、それがとても素敵で彩りも鮮やかだったので、つい話し込んでしまった。フェリクスを長いこと、待ちぼうけにさせてしまったっけ。
会話はいつもの通り少なかったけれど、本当に楽しかった。けれど明日からは、彼はいないのだ。そう考えると、美しい景色さえ物悲しく見えて、アウローラはぐっと、急に締め付けられたような傷みを訴え始めた胸元を握りしめる。
「……あとひと月もしないうちに、わたくしも戻ります」
「戻って来たら、今度は王都でも出かけよう」
「手芸用品店でも、付き合ってくださいます?」
「手芸だろうが菓子だろうが宝石だろうが、どこへでも」
口元をほころばせた彼に、アウローラも微笑み返す。
「お手紙、書きますね」
「……筆不精だが、努力しよう」
「まあ、お言葉も少ないのに、お手紙も少ないなんて」
「……苦手なんだ」
困ったように眉をたれた彼の手を、アウローラはそっと握った。彼は目を見開き、それからぱっと頬を染める。
けれど、振りほどかれることはなく。
二人はしばらくのあいだ黙ってそうして、鳥の鳴き声を聞いていたのだった。
最初の一行は敢えての(略)
ユールについてはいつもの(略)
いつまでも避暑していても仕方ないので次から王都のターンに戻ります。




