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想像しすぎて幻覚を見たのかと、アウローラは口を間抜けにあけ、思わず目をこする。しかしその姿は消えることなく、それどころかどんどんと彼女の方へと向かって迫ってくるのだ。
「え、え、なんで」
涼し気な青みの灰色の衣装をまとった姿はすっきりとして人目を引いているが、周囲には見向きもしない。見目麗しい青年は足取りも軽く、アウローラに駆け寄る。そして彼にしてははっきりと笑みを浮かべて、周りの人々の驚愕やざわめきを物ともせず、立ちすくむアウローラの手を取った。
「十四日ぶりだな。会えて良かった」
「お、お久しぶり、です、フェリクス、さま。ほんもの?」
「もちろん」
「ど、どうして、ここに? 王都でお仕事なのではありませんでしたか?」
「夏季休暇だ。姉上とラエトゥス公に連れて来ていただいた」
フェリクスが首を向けた方へつられて首を向けると、フロース伯爵夫人の隣で、ルナ・マーレがにっこり、女神のほほ笑みを向けていた。太陽の女神と月の女神が並んだような神々しい絵面だが、その後ろに鬼神のような男が立っているせいで、周囲はぽっかりと人のいない空間になっていた。ざわめきの理由は彼女たちだったのだとアウローラは悟る。
ひょっとして自分が呼ばれたのは彼が来ることになっていたからでは、と思い至って、アウローラは途端に頬を染めた。ポルタ伯の夫人は貴婦人というより騎士である面が強く、社交的な場面では娘が出てくる可能性の方が高い。それを知っているルナ・マーレとフロース伯爵夫人が共謀したのだろうと気がついたのだ。
「うふふ、ごめんなさいねえ、アウローラさん。鬱陶しい弟から離れて羽根を伸ばしていただろうところに、連れて来ちゃって」
「あら、アウローラちゃんもいつもより随分大人しかったから、きっと恋しかったのよー」
うふふ、ほほほ、貴婦人たちにからかわれ、アウローラは思わず、フェリクスの背に隠れる。対抗派閥のご婦人たちよりも、身内のお姉さま方の方がよっぽど恐ろしい。
「あらいやだ、この子ったら脂下がっちゃって」
他人には無表情にしか見えずとも、姉には一目瞭然であるらしい。フェリクスはムッとした顔を隠しもせず、背後に隠れたアウローラの肩に手を伸ばして、姉とその友人を半眼で睨んだ。
「からかうのはやめていただけますか」
「嫌なら男気を見せなさい」
ふふん、と姉が胸を張り、隣の美女が苦笑する。フェリクスはもう一度二人を睨み、隠れたままのアウローラをそっと覗いた。
「……大丈夫か?」
「は、はい……」
か細い声を上げたアウローラの頬は未だに薄紅色をしている。こんな顔を、他人には見せたくない。その思いが胸にこみ上げたフェリクスは、アウローラの腰を支えて歩き出した。
*
「フェリクス様、どちらへ?」
フェリクスに背を支えられたまま、伯爵家の前庭から連れだされたアウローラは隣を歩く婚約者を見上げた。庭を出るまで、出てからも、彼は一言も喋らなかったのだ。無口な彼にしても、何も言わずに連れて歩くようなことは流石にしない。
何か怒っているのだろうか、自分は何かしただろうか。
不安は表に出ていたのだろう、アウローラを見下ろしたフェリクスは、突然ぴたりと足を止めた。引っ張られる形で足が止まり、バランスを崩してよろめいたアウローラを、力強い腕が抱きとめる。そしてそのまま、ぐっと抱き寄せた。
「えっ、あの?!」
「……すまない」
胸と腕とで作られた堅牢な壁に囚われたアウローラの耳に、どくん、どくん、心の臓が脈打つ音が届く。それはとても平静な速度ではなく、彼女の心音もつられて早まった。困惑して見上げれば、見下ろすのは紫の混じった、澄んだ青の瞳である。
「私のいないところで貴女があんなに可愛らしい姿を見せていたのかと思ったら、苛立ってしまった」
(な、なにそれ?! フェリクス様、目がおかしくなったのでは?!)
すまない。また繰り返した彼に、アウローラは混乱の極みに達して浅い呼吸を繰り返した。
あんなに可愛らしい、とは一体なんなのだ。羞恥のあまり、目の前が赤く染まる。
アウローラには、自分が平凡である自覚がいやというほどある。美貌の兄と父を持ち、フロース家やポルタ家の親類にも美人が多く、集まればその中で悪目立ちをするのだ。幼いころからそうだったので、もはや衝撃すら受けない。美しい人達の隣に並べば、太陽のそばにある星が全く見えないような、そういう状態になるのだ。
そんな自分を本気で可愛いというのは、父親くらいのものである。
熱冷めやらぬアウローラがぱくぱくと、酸素不足の魚のように口を開け閉めしているのを見て、フェリクスは彼女の頬に触れた。「熱いな」と呟いて、思案するように目を閉じる。
「よし、少し冷まそう」
「えっ? フェリクス様、あの、どちらへ!?」
「馬を預けてある。この付近に良い水場があるそうだから、涼みに行こう」
「え、あの、馬に乗れるような服装じゃあ……!」
「横に座れば問題ない。私が抱えていこう。昔からよく、出かけたがる姉を乗せさせられたから慣れている。落としたりはしない」
さあ行こうと手を取られ、彼は機嫌よく歩き出す。アウローラは驚愕から回復できないまま、フェリクスの後ろに続くことになった。
*
「すごいわ、速いわ! あっという間!」
「銀雪号は芦毛にしては類を見ない駿馬なのだ。士官学校を卒業した時に、主席祝だと言って祖父がくれた馬でな」
「二人乗せても速くてその上賢いだなんて、得難い馬ですわね」
フェリクスの前に乗せられて、アウローラは心からはしゃいでいた。乗せられた直後は、久々の馬の高さと、己の両わきできっちり固定されたフェリクスの腕に緊張し、こちこちになっていたのだが、馬が軽快に走りだすとその速度と流れる景色に夢中になって、あっという間にくつろいだようになった。
「まあ、ほら見てフェリクス様、赤い野薔薇です! やはり緑に赤は映えますわねえ。今度のテーブルクロスは蔦に野薔薇にしようかしら」
「完成する頃には夏は終わっているのではないか?」
「ああ、そうかもしれません。あ、じゃあ向こうに見える山並みはどうかしら? ビブリオ山脈の雪は夏でも溶けませんもの、涼しげでいいんじゃないかしら」
「山並みの模様のテーブルクロスというのはあまり見たことがないな」
「……そうでえすわね、じゃあそれはベッドリネンにしましょう。涼しい気がして、よく眠れるかも!」
楽しげな二人の会話に馬も嘶き、上機嫌に進む。
「目的地の景勝も素晴らしいから、それを図案化してはどうだろうか。許されるなら、私の部屋の壁に掛ける何かを作って欲しいのだが」
「壁にですか? 額装して飾るなら、山並みの刺繍もいいかもしれませんわね。第二の窓のような……まあ! すごい! すてき!」
馬が速度を落とし、顔を上げたアウローラは息を飲み、瞳を激しく瞬かせた。
森の小道が切れ、開けたそこに広がっていたのは、涼やかな風のそよぐコバルトブルーの湖。対岸は鮮やかな緑の深い森で、その向こうにはウェルバムで最も高い山を戴く、ビブリオ山脈の万年雪を抱く青い峰が連なっている。連峰の背はよく晴れた蒼天で、それが鏡のような湖面に映り、まるで裏側の世界でも覗いているかのような雰囲気である。そして、手前には柔らかな草地が広がり、白と黄色の花が咲き乱れていた。
「なんて美しいの……」
「これならば、壁に飾るのが良さそうだろう?」
「ええ、ええ……」
馬を止め、ひょいと飛び降りたフェリクスは、アウローラを抱えて下ろすと馬を放った。芦毛の馬はポクポクと気ままに歩き始め、湖の水を飲み、草を喰む。
「滞在中に、これを見せられればと思っていたのだが。まさか初日に見せられるとは思わなかった」
呆然と目の前を見つめているアウローラの横でフェリクスは、岩の上の砂を払って、ハンカチーフを広げた。その上にアウローラを座らせると、自分も隣に腰掛ける。
「……糸と針を持ってくれば、よかった」
「流石にそれは準備がないな」
「これを目に、焼き付けて帰れるのか心配で……ああ、でも、これを表現するのは本当に大変そう。名だたる職人の方でもきっと、うんと悩むような大作になってしまいますわ」
「貴女ならできるだろう」
「買いかぶりすぎです」
「しかし、先日の王太子殿下にお渡ししたスカーフも素晴らしかった。魔術師殿も、副隊長殿も感嘆していたぞ。あとからわざわざ思い出して語っていらっしゃったくらいだからな」
「それは……嬉しいお話ですけれど」
熱を冷まそうと思ってきたはずなのに、余計に興奮してしまった気がする。一向に落ち着く気配の見えない己の頬に、アウローラは手を当てた。手のひらがひんやりとして感じるので、よほど熱くなっているらしい。
「ああそうか、日焼けするといけないな」
アウローラの仕草を勘違いして、フェリクスは己の上着を脱ぎ、アウローラの頭にかぶせた。すっぽりとヴェールのように覆われて、アウローラは沈黙する。
(な、なんかいい匂いがする……っ)
「貴女とこの景色が見られて嬉しい。ここ数日、どうも具合が優れなくてな。……貴女に会いたかったのだと、先ほど貴女の顔を見た途端に気がついたのだ。どうして今まで気づかなかったのだろうと、今は不思議で仕方がない」
声色はひんやりとして冷静ながら、内容は情熱的だ。かぶる上着の前を引っ張って、アウローラは顔を隠す。本当は、顔を冷まさせる気なんかないんじゃないだろうか。
アウローラが沈黙してしまったので、二人の間の音は途切れた。アウローラはただ己の早鐘を打つ心臓の音を聞き、フェリクスは隣で膝を抱えて、目の前の景色に見入っている。
どのくらいそうしていただろう。ヒヒンと馬がいなないて、二人は同時に顔を上げた。鳴き声のした方を振り返れば、芦毛がポクポクとこちらへ駆けて来る。
「どうした?」
「……あの、何か聴こえませんか?」
「聴こえるな。……蹄の音、か?」
はじめはかすかに、しかし次第に大きくなったそれは、パカパカと軽快な馬の足音だった。ここへの道は一本道。音がするならばそこから以外にありえない。二人は森の切れる小道へと視線をやり、足音に耳を澄ませた。
すると。
「見つけたぞクラヴィス! 僕と勝負をしろ!!」
またお前か。




