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「お茶会……ですか」
「うん、フロース家の奥方様から招待状をもらってしまって。この辺りの別荘にきているんだってさ。でも、わたしが行ってもなあ、と思って」
薄い黄金色の水色の眩しい紅茶が白い磁器に満ち、馥郁たる香りを漂わせている、昼下がり。脇に添えられたクッキーをさくさくとかじりながら、ポルタ伯爵夫人・ディーエは肩をすくめた。場所はポルタ家の別荘の、前庭に張り出したテラスである。彼女の右隣りには娘が座っており、彼女は何やら夏の花を、リネンに刺しているらしかった。
「断りづらいんだけどねえ……」
フロース家はポルタ家の本家であり、魔法伯の地位を戴く、ウェルバム王国でも指折りの名家である。伯爵家でありながらその地位は侯爵家、魔術師にとっては公爵家にさえ匹敵すると言われ、分家であるポルタ家に取っては、断りづらいお誘いだった。
「ほら、なにせわたしは騎士家の出だろう? ご婦人方の話題は相変わらず今ひとつ分からないし、何故か黄色い声を上げらて、ご夫君方の恨みを買うし。今年の社交界の話題なんてより一層分からないしさあ」
「母さまが騎士の装いで赴いた時は、すごい歓声でしたものね」
「うん、なんでだろうね?」
首を傾げる彼女は育ちこそ準貴族の家柄だが、伯爵家の嫁をやって長いというのに、その立ち振舞は相変わらず騎士の風情がある。騎士の装いをまとえば男装の麗人の雰囲気となり、ご婦人方には大絶賛なのだった。
「それにほらあ、わたしはドレスも似合わないし? 若様の面倒見なきゃいけないし? 若様ほうっておくと拗ねるし?」
「はあ……分かりました、わたくしがお邪魔してまいりますわ」
「やった! さすがうちの天使、話がわかる!」
途端、瞳を輝かせた母親に、アウローラも笑う。すると母は目を細め、アウローラの頭をぽんと叩いた。
「よかった、やっと笑顔になったね」
「え?」
「若様もノックスも言ってたけど、ここ数日、ローラちょっと沈んでたから。フロース伯爵はノックスの友人だし、ローラも面識があるだろう? フロースの若奥様はローラに歳もまあ近いし、きっといい気分転換になるよ」
「ああ、フロースのおにいさま、去年代替わりしたんでしたっけ」
「そうだよ。一昨年の結婚式にも、去年の叙爵のお祝いにも行ったじゃないか。あれっきりお会いしてないのは薄情なんじゃない?」
そう言われては、参加しないという選択肢はない。家族皆にそんなに心配されていたとは思わず、アウローラは眉を垂れた。
「……それで、お茶会って、いつなんです?」
「明日」
「え」
「明日だよ」
「……訪問着なんてまだ荷物の奥底ですわよ! そういうことは、早く言ってください!!」
心配を掛けて申し訳ないなどという気持ちは一瞬で吹っ飛んでゆく。アウローラは小さく悲鳴を上げて、侍女を呼ぶと駆け出した。
*
(あー、素敵。淡いミントグリーンのフリルは多分木の葉をイメージしてるのね。そこにガラスビーズで水滴の刺繍をキラキラ散らして……粋だわぁ。あっちの娘さんのは薄いピンク……刺繍は全面薔薇だし、多分、ドレスそのもののイメージも薔薇なのね。ところどころに蝶の刺繍を別色の糸にしてあるのがいい感じ。どこに頼んだのかしら。あら、あっちの方は扇子が刺繍。……透ける素材に泳ぐ魚だなんて、なんて涼しげなの! でもあの形の魚は見たことがないわ。どこか異国のモチーフなのかしら? あ、でも待って、前にクラヴィス家の応接室で、あの形の魚の絵付けの大皿を見たかも……だとすると東洋のものかしら? ああっ、近くで見たい! でも確かあの方って伯爵家の方だわ、今日はじめて面識を頂いたのにそんなに図々しく迫れない……っ!)
燦々と日差しの降り注ぐ、晴れ渡った夏の午後。
フロース伯爵家の別荘の庭で、淡いラベンダー色をしたシャドーストライプの薄手の生地を何層にも重ねたドレスを身にまとい、アウローラはうっとりと息をついていた。父親のおみやげの中にあったそのドレスは避暑地で流行の形らしい。同じように何層にも重なったフリルやレースを持つドレスの貴婦人たちが、花のように開いたパラソルを持ち、緑の濃い芝の上でめいめい楽しげに語らっている。
招待状には茶会と書いてあったが、ガーデンパーティと言っていい規模のものだった。客はおそらく数十人はおり、広い庭のあちらこちらには、魔法伯らしくふんだんに魔術が込められたもてなしが用意されている。下に入ればひんやりとそこだけ秋が来たかのように涼しいパラソルや、夏だというのにキーンと冷えた甘い果実や溶けない氷菓が饗されているテーブル、氷の入った果実水やフルーツ入りのお茶や、いつまでたってもしおれない薔薇の飾りなど、王宮でも難しいような贅沢さだ。
フロース伯の親戚として招待され、身内待遇を受けていたアウローラだが、一通りの挨拶をこなすと早くも気疲れしてしまい、眺めの良いパラソルの下に引き込んで時々お菓子をつまみながら、行き交う令嬢たちや貴公子の夏の装いを眺めることに専念することとなった。
(うーん、魔法伯だからなのかしら、呼ばれている人たちもなんだか雰囲気が違うわね。きっと魔女とか魔術師の人が多いのだわ。ドレスの刺繍も魔術っぽい文様が多いし、フロースのおにいさまのローブの刺繍なんてあれ、魔法陣なんじゃないかしら。そっか、魔法陣を刺繍で刺す、っていうのもありなのね……。そういえば王太子殿下からお預かりした図案も、魔法陣みたいなものだったわ。古いものだと言っていたから、まだ魔法陣として確立されたものじゃないのかもしれないけど。……わたしが刺して、意味あるのかしら。力持つ魔女の方が針と糸に力を注いで刺したほうが、王太子殿下の求める結果が出るのじゃないかしら……)
ぼんやりと、渡された仕事のことを思い出して、アウローラは息を吐き出した。同時に思い出した銀の髪と青い瞳の面影に、なぜだか胸がギュウと軋む。
(……わたし、一体どうしたのかしら。刺繍のことを考えてる時に、別の事を思い浮かべるなんて)
らしくないわと首を振る。
いつだって、美しい刺繍を眺めているときは、他のことが入る隙間などなかった。どんな図案なのか、どんな生地なのか、どんな糸なのか、どんな技術なのか。そんなことをつぶさに観察し、そこにすべての意識を注いで、心の帳面に一心不乱に書きつけていたのだ。だというのにこの数日は、刺繍を刺していても、おみやげの美しい刺繍を眺めていても、折にふれて彼の顔を思い出している。
(この三ヶ月でこんなに顔を見ないのは初めてだから、なんだか不思議な感じがするんだわ)
淡々として抑揚の薄い、けれど低くで落ち着いた声とか。一見無表情と見せかけて雄弁な、熱を秘めた青い瞳とか。『氷の貴公子』と呼ばれる彼はきっと、本当は完全燃焼の青い炎なのだ。
二人でいると、最近はちょっと甘さが突き抜けてそわそわしてしまうけれど、不意に落ちる沈黙や会話のない時間も気にならず、心地の良い時間が流れるのだ。
(……ああやだもう、また考えちゃってた。王都に戻るのはまだひと月は先なんだから、考えても仕方ないのに。……あ、あの方の帽子のリボン、星のモチーフの刺繍だわ。あれも魔術的ななにかかしら。そういえばフェリクス様のシャツの胸元には、家紋と守護の陣の刺繍が入っているって言って……ああもう、また考えてる!)
「アウローラちゃん」
落ち着けわたし! 侍女が綺麗に結い上げた髪をかき乱しそうになりながら悶えていたアウローラに、小川のせせらぎのような声が届いた。振り返れば、月色の髪を結わずに背に流した美しい魔女が、端正に微笑んでいた。『宵月の魔女』と呼ばれる、フロース伯爵夫人である。兄の友人であるフロース伯の奥方である彼女はアウローラを、親戚のお姉さんとして可愛がってくれているのだった。
なにかしら、と頭を傾けた彼女に向かい、伯爵夫人はちょいちょいと、薄紅色の綺麗な爪の生えそろった指先で手招きした。導かれるままにパラソルを出たアウローラは、いつのまにやら庭先が、随分騒がしくなっていることに気がついた。ざわめきには興奮が混じっていて、先程に比べると随分、落ち着かない雰囲気だ。どうやら何かあったらしい。
「おねえさま、わたくしなにか、粗相を?」
「いいえ、新しいお客様がいらっしゃったから。貴女、挨拶しておいたほうがいいわよ」
「わたくしの知っている方?」
「ええ、もちろん。ほらほら、早くいらっしゃい」
にんまり、美しい魔女は赤く染めた唇をもたげ、誘い出されたアウローラの背をトンと押した。
バランスを崩したアウローラはよろめいて、二歩三歩、とまろびつつ進む。一体誰かしらと顔を上げたアウローラの目に飛び込んできたのは、鋭く輝く長剣のような、銀の髪と、そして。
「アウローラ嬢!」
低く冷たい声色ながら、喜色混じりだとはっきり分かる銀の声が、アウローラの名を呼んだ。




