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ちょっと短めです。
一方、フェリクスは暑い王都で、いつも通りに勤務をこなしていた。近衛隊員はそれぞれに役割があり、各班の人数もさほど多いわけではない。ほとんどの貴族が長期休暇を楽しむこの季節であっても、彼らは王室を、王宮を、王都を護っている。
フェリクスの所属する第四班も、平常通りに王宮内の結界の修正や調整、隠し転移陣の整備や攻撃魔法の開発など、魔法騎士ならではの任務に従事していた。
しかし。ただひたすらに黙々と書類を作り、己の肉体をいじめ抜くように鍛錬をし、王宮を護る魔術を執拗なまでに確認するフェリクスの後ろ姿に、部下たちは困惑の目を向けていた。
「班長の没頭っぷりが、おかしい……」
「……班長が、いつもにまして静かだ……」
「三日くらい、声を聞いていない気がする……」
「俺は五日くらい聞いていない気がする……」
ここ数日のフェリクスは、いつもより更に言葉数が減り、表情も無表情を極めていた。『氷の騎士』どころか『氷の彫像』のような、生命を感じない冷たさである。
浮かれてよろめいていた頃からひと月も経たっていないというのに、まるで別人のような静けさで、あの日見た朱に染まった頬、緩められた口元は夢幻であったのか。部下たちは影でこっそりとささやきあい、沈黙する上司を慮った。
「……婚約者殿と喧嘩でもしたのだろうか」
「まさか、破談、などということは……」
「おい、縁起でもないことを言うな」
はっと部下たちが上司を窺い見るが、彼は部下たちの囁きには気づきもしないようで、今は淡々と、剣の手入れをしていた。しかし剣は磨きぬかれて今や一点の曇りもなく顔を移して、もはや手入れの必要性などみじんもない。
「おい、誰か聞いてみろよ……」
「無理だろう。どうして藪を突くんだ。氷の礫が飛んできても知らんぞ」
「触らぬ神に祟りなしって言うからな」
「でも俺、あんな班長、なんか見てられねえよ」
「それは俺もだ……」
ふう、とフェリクスが息をつく。部下たちはビクリと震え、しかし上司がまた剣を磨き始めたのを見て、渋面になった。
「具合でも悪いんじゃあないのか」
「ルーミスの言ってたあれか、ほら、お医者様でも温泉でも治らない」
「あ、そうか、夏だからかもな」
ぽん、と手を打ったのは、伯爵家の三男坊である。
「なんだ、心当たりでもあるのか?」
「ほら、避暑の季節だからだ」
「うん?」
「ああ!」
首を傾げたのは、領地を持たない男爵家の次男。避暑だと言われて膝を打ったのは、伯爵家の四男だった。
「たぶん、婚約者殿が王都にいないんだ。ほら、領地持ちの家って大体、夏は別荘にいるだろう」
「ああ、そういえばそうだな。うちには別荘なんて優雅なもんはないから……ってそういうことか?!」
「おそらくそれだな。それで落ち込んでるのか……」
「それじゃあ、夏が終わるまでどうにもならねえな……」
「あら、みなさんが班長代行で仕事を片付けてくだされば、あっという間に片付く案件ですわよ?」
突如響いた高笑い。鈴が鳴るような可憐な声色ながら、やたらと威圧感のある声に騎士たちはぎょっとして、声のした方を振り返る。そして揃って、あっと声を上げた。
そこに立っていたのは、絶世の美女だった。
眉も瞳も鼻も唇も、これ以上にバランスの良い配置があるのだろうかと思わせる造作で、画家であるならこぞって画布へ写し取ろうと画策するだろう、完璧な美だ。
月光を紡いだような細くやわらかな金の髪を複雑な形に結い上げた髪型は今まさに流行り始めのもので、柄を織り込んだ少し透ける素材の生地を、ミルフィーユのごとく幾重にも重ねた涼し気なドレスは、避暑地で大流行を見せているデザイン。氷を宝石にしたような、透明度の高い薄青の宝石と真珠が胸元を彩るさまは、水の妖精か海の精霊か。
思わず足元にひざまずきたくなるような風情の彼女こそは、話題の班長の姉、ルナ・マーレ・クラヴィス・エル・ラ=ラエトゥス公爵夫人である。
「ラエトゥス公爵夫人……!」
「愚弟がいつもお世話になっておりますわ。随分腑抜けていると母から連絡があったものですから、活を入れてやろうと思ってお伺いしたのですけれど、わたくしが入れたところで、また数日で元に戻りそうですわね」
情けないこと! ルナ・マーレは口元を夏扇で隠し、ぼんやりと剣を磨いて姉に意識すら向けない弟を、鋭い目線で睨みつけた。
「まあ、遅い初恋と言うのは拗らせがちなものですものね。みなさまにも身に覚えのある方がいるのではなくて?」
従騎士から騎士になるにしろ、士官学校から騎士になるにしろ、幼い頃から男所帯で育ってきたものの多い騎士たちには、初恋が非常に遅かった、というものも少なくない。
幾人かが頷いたのを見て、ルナ・マーレはにっこりと、見るものによっては脚にすがりついて慈悲を乞いたくなるような、女神の如き笑みを浮かべ、こう宣った。
「こんな状態の愚弟では、王都防衛にも王族警護にも差し支えますでしょ。活を入れてお返ししますから、ちょっと休みをよこしなさいな」
*
そんな一幕があり。フェリクスは今、馬上の人となっていた。前を行くのは黒い軍馬にまたがった彼の義兄で、後方からは、騒がしい姉と侍女たちの乗った、華麗な馬車がついてくる。
「……あの、義兄上」
「なんだ」
「姉上が、申し訳ない」
「彼女の我儘を聞くのは我が使命であるから、気に病まずともよい」
傭兵団の長か山賊の頭か。見る人にそんな思いを抱かせる、いかつい顔に、盛り上がる筋肉。生まれ落ちたその時には母親を失神させ、祖父には『今が乱世であったなら、覇者と呼ばれようものを』と言わしめたというこの男。かつてては騎士団の幹部を努め、その戦闘力の凄まじさに鬼神と称された、彼の名はヴィンセンツィウス・イル・レ=ラエトゥス。別名『野獣公爵』である。
しかしその二つ名は彼の容貌の凄まじさの評判が一人歩きしたものであり、本人はいたって真面目で実直、その上誠実な、至極まっとうな人物だった。
「しかし……、職権濫用の上に、公爵家の避暑旅行に同行するなど、義兄上にはなんとお詫びしてよいか」
姉により、強制的に休暇を取らされ、その上婚家の避暑旅行に付き合わされる事になったフェリクスは、暗いため息をついた。大きくいかつい体を馬車に押し込めるのが辛いのか、軍馬にまたがり並走する公爵は義弟を振り返り、威厳溢れる太い声で応える。
「家族が避暑に同行するのは至極当然のことだ。それに貴殿はまだ、今夏の休暇を取っていないと言うではないか。近衛隊の勤務規定にも騎士団の勤務規定にも、夏季の二週間の休暇は認められているだろう。上の者が休まねば下の者も休めぬ、上にいるならば積極的に規定の休暇を消費すべきだ」
我も良く、騎士団時代はそう叱られたものよ、と公爵は口角を上げ、フェリクスは頷いて前を向く。
「しかも何やら気落ちして、班の士気を下げたそうだな。部下を持つなら、いつでも機嫌よくしていねばならぬぞ」
「心に刻みます」
「――此度の行き先は君も知っていると思うが、素晴らしい景勝地だ。何が理由かは知らないが、きっと貴殿の心も瘉えよう。例年ならヴィタエ湖畔の別荘に行くのだが、あそこは人も多いからな。心を休めるには美しい山々と涼しい空気は最適だろう。……さあ、そううつむくものではない、少々早駆けでもするか!」
「はい」
顔に似合わぬ気遣いの男、ラエトゥス公は、軽く膝を締め『ハッ』と気合の掛け声を上げた。それだけで彼の愛馬はパカランパカランと、軽快な足音を立てて走りだす。あっという間に遠くなる、黒い駿馬の後ろ姿を、フェリクスの芦毛もまた追った。
突然でもないですが、書籍化しますよというお知らせ。
↓若干詳しく書いてあるブログの記事に飛びます。
http://mono.pepper.jp/dairy/info/1543/




