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今日は別にらぶらぶしておりません。
フェリクスが王太子との約束を取り付けてきたのは、完成からたった三日後のことだった。よほど待っていたのか、フェリクスが王太子の侍従に話を持って行ったところ、その日の内に日程を言い渡されたのだという。
「やあ、よく来たね、ポルタ嬢」
満面の笑みで両手を広げる王太子の前で、アウローラは引きつった笑みを浮かべた。体に染み付いた礼儀作法はそんな状態でも正しく作用し、深く腰を落として頭を垂れる。フェリクスも、苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、膝をついて礼を取った。
「ずっと待っていたんだよ」
ニッコリと笑う彼の表情は、先日見た王女殿下のそれと非常によく似た、好奇心旺盛で悪戯めいたものだ。アウローラは、王太子宮の応接室だという、通された部屋の豪華さに臆しながら、「お待たせして申し訳ございません」とひたすら頭をたれ続けた。
「話には聞いているよ。ルーミス侯爵の夜会に出るために準備に勤しんでいたんだって? ああ、話を聞いたのはクラヴィス侯だから、そこは観念するといい」
情報のリーク元を明かされて諦めた二人は、促されるままに頭を上げ、指し示されるままにソファへと腰掛ける。その座面の絹布の織りの艶やかさ、触り心地の滑らかさと適度な弾力に、アウローラは冷たい汗をかきながら浅く座り直した。隣で堂々と座っているフェリクスもいつも以上に無表情なので、それなりに緊張しているのかもしれない。
「うーん、ひどく緊張しているな? ……ああ、自由に喋っていいぞ。許可する」
「ありがとうございます」
「このような部屋に通すとは、一体何ごとですか殿下」
フェリクスが眉根を寄せる。首をひねったアウローラに、王太子は笑みのまま告げた。
「この部屋は、盗聴防止の魔術が特によく聞いているんだよ。他国の賓客との密会なんかにも使う部屋でね」
ぎょっとして口を開けて凍りついたアウローラの隣で、フェリクスが「やはり」とつぶやく。魔術師である彼にはこの部屋に掛けられている魔術がどのようなものか分かったのだろう。
「しかしなぜです?」
「今日は君たち以外にも人を呼んでいるのでね。――入っていいぞ」
パン、と王太子がひとつ手を打つ。すると応接室の奥、何やら隣の部屋へと繋がっているらしい白い扉が音もなく開き、見覚えのある眼鏡の騎士と、朽葉色を更に暗くしたような色のローブをまとった、片眼鏡の男性が現れた。その胸元には銀の鎖、そこに金の輪に銀の星の紋章をぶら下げている。『塔』と呼ばれる、国に属する魔術師の頭脳集団の一員である証しだ。
元は黒かったのだろう、今や灰色へと染まりつつある髪をなでつけた壮年の魔術師は、アウローラとフェリクスを視界に認めると、指を揃えた手のひらを左胸に当て、軽く頭を下げる。古く正しい魔術師の礼にフェリクスも、同じ礼を返した。
「紹介しよう。彼は『塔』の次席研究者、アラヌスだ。古い時代の魔術・魔法を長く研究している賢者だよ。ポルタ嬢の魔力のようなものを測るには非常に有用な男だから呼んだんだ。ただ、フェリクスなら知っていると思うけれど、『塔』の人間は基本的に俗世と縁を断つのが決まりだからね。俺が自分の興味関心のために彼を呼び出したと知れると、ちょっと都合が悪い。それで、盗聴防止性能の最も高い応接室に呼んだんだ。この部屋に掛かっている防音の魔術はちょっとすごいぞ。何しろ――」
「殿下、悪い癖が出ておいでです」
アラヌスは慣れているのだろう、軽く王太子をたしなめる。おっといけない、こちらも軽く返事をして、王太子は指を鳴らした。先ほどとは違う扉が開き、侍従がアウローラの籠を持ってくる。前回同様、検閲をくぐり抜けた裁縫籠を受け取って、アウローラはほっと息をついた。
「それでは、見せてもらおうか」
頷いて立ち上がるアウローラの腰を、フェリクスがそっと支える。彼女は籠からゆっくりとスカーフを取り出し、広く開けられた円卓の上に、そっと広げた。
「ほう……」
「おお、これはすごいな」
広げたスカーフを彩る、旧き好き言祝ぎの文様に、王太子も魔術師も息を飲む。魔術の有無はさておいて、その作品が素晴らしいものであることは、一目瞭然だった。
「古代の婚礼に用いられたと言われる刺繍の図案集が王立図書館にあるそうで、その写しを王都の刺繍職人たちはよく参考にしているのです。わたくしもそれをお借りしたのですが、婚約者様は皇太子殿下と同じお歳ですから、少々今風にアレンジしました」
巡る宇宙と、星降る唐草の茂みに絡まる運命の輪。連綿と続く命を祝福し、新しく関係をつなぐであろう『婚姻』を祝う、力ある文様。
まさか刺繍の図案としてこれほどの文様が受け継がれていたとはと王太子は驚嘆し、魔術師はそこに籠められた、刺繍を刺した人物の魔力に感嘆した。
「いや、良い柄だ。ありがとう、ポルタ嬢。あれは魔術のことはからきしだが、美しい物は素直に気に入る人間だから、喜ぶだろう」
「勿体無いお言葉です」
「……触れても構いませんか?」
アラヌスの言葉にアウローラは頷く。フェリクスに促されて、ソファに腰を下ろした。魔術師はまず布に触れ、裏返し、それから戻して文様を指でなぞり、布を顔に近づけ、耳を寄せ、鼻も寄せ、最後に目を閉じて中央の星を確かめた。手のひらを刺繍に当てたまま彼は身動きしなくなり、部屋の中は耳が痛くなるほどの沈黙に染められた。
「……すばらしい」
気温が下がったような緊張感と、呼吸すらためらわれるほどの静寂の末、ようやくに絞り出された言葉に、残りの三人がほう、と息をつく。空気が緩んで、室温が上がる。アウローラは額に滲んでいた汗をハンカチーフで拭って、肩の力を抜いた。ぽん、ぽんと宥めるように、フェリクスの手が背を叩く。
「実に見事です。効果はささやかだが、完璧な『祝福』が掛かっている。これを持つ花嫁は、ささやかな幸せを数多得られることでしょう。古い時代――まだ魔術師という存在が確立される以前、今では魔女と呼ばれる人々が、まじないとして施していたと言われるものに、とても近い。非常によく、魔力が巡っています」
アラヌスは片眼鏡の奥の理知的な瞳を子供のように輝かせ、スカーフから手を離した。
「まじないが発展して魔法と呼ばれるようになり、そこから枝分かれして魔術が生まれた。まじないなくして現代の魔術はないのです。……この刺繍は、お嬢様が?」
水を向けられ、アウローラは慌てて頷く。
「はい、わたくしが刺しました。……わたくしは、魔力はさほどないはずなのですが」
「おそらくお嬢様は『祈り』を魔力として物に込める力を持つ『原始の魔女』なのでしょう。刺繍として発露しているのは、お嬢様にとって非常に身近なものであるからだと思われます。原始の魔女――魔女が魔女と呼ばれる以前の魔力を持った女性たちは、現代の魔女のように強い魔力を持っていたわけではないと伝えられているのです。少ない魔力だったからこそ、まじないと呼ばれる類の効果だったのでしょう。古い文献や言い伝えでも、力を持つ者が現れるようになるのと同時に、『魔女』という呼称が現れます」
実に素晴らしい。アラヌスはまたつぶやき、王太子も深く頷く。魔術的な素養のいまいち薄いアウローラと眼鏡の騎士・センテンスは狐につままれたような顔をするばかりだ。
「本物か?」
「ええ、素晴らしいですね。まだ、このような魔力を持つ人が残っていたとは」
「ポルタ家は魔法伯の分家だからな。旧い血が継がれている可能性は大いにある」
「なるほど、それはありますでしょうな。彼の名家には昔から、名だたる魔女が嫁ぎ、生まれて来たと言いますから。遠い末に血が現れても、おかしなことではありますまい」
王太子と魔術師が、喜々として語り合うのを横目に、フェリクスとアウローラ、そして護衛に徹するセンテンスが目配せしあう。
「……殿下、アラヌス殿。客人が蚊帳の外です」
「おっと、すまないな! アラヌス、彼女が本物なら、例の物を」
「はい」
魔術師が懐から紙の束を取り出す。それは端が少し焼けた、古めかしい羊皮紙だった。羊皮紙の利用は、すでに一般的でなくなって久しい。少なくても数十年以上は古いものであることは間違いなく、アウローラとフェリクスは思わずそれを覗き込んだ。
「こちらは古い遺跡から発掘された、遺物を包んでいた布に施されていた刺繍の文様です。布そのものは経年劣化でもはやぼろぼろなのですが、発見当時の学者が精緻に写しとっていたので、この図案が残されています」
「この図案を刺してみよ、ということでしょうか」
アウローラの問いかけに、魔術師と王太子は深く頷く。
「この文様にも何らかの願いが籠められていたはずだからな。旧き魔法を再現するのに、ポルタ嬢の魔力は最適のようだし、ぜひ、頼みたい」
「それは構わないのですが、今までのわたくしの刺繍に現れた効果は、わたくしの願いが形になったものだという話だったかと思います。わたくしが物思いをしながらこの図案を刺せば、その思いが形になってしまうのではないでしょうか?」
「それは大丈夫だと思う。この文様の中には、この刺繍がなぜ刺されたのかが、古語で刺繍の一部として残っている。古語は読めるだろう?」
「はい」
魔法と学問の国と称するウェルバム王国の貴族にとって、古語は必須教養である。アウローラももちろん、幼い頃から家庭教師にならっており、今でも時折、兄の指導を受けていた。
「では、是非宜しく頼む」
王太子は微笑み、アウローラは「承りました」と羊皮紙を受け取る。もっとも、王太子の申し出を断ることなどできようはずも無いのだが。
*
午後の公務の時間が近いと侍従が声を掛けに来て、今日の謁見はお開きとなった。フェリクスに伴われて退出するアウローラを見送って、王太子と魔術師は、互いに囁き合う。
「本物だったか……」
「本物でした。非常に貴重な存在かと存じます」
「『塔』に、欲しいな」
「はい……」
「だが、招聘に応じれば、婚姻は難しくなるからな。そう簡単には頷くまい。さて、どうするか……」
不穏な言葉はもちろん、若い二人の耳には届かず、応接室の床にぽたりと落ちる。部屋にはまた、息苦しい沈黙が戻った。
若い二人、とはいえ王太子も25くらい。若い。




