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(甘い……なんだか、甘い……!)
夜会も、翌日のルナ・マーレの質問攻めも乗り越えて、ようやく戻ってきた日常。しかし、恒例の週末茶会にて、アウローラは糸と針を握りしめて身悶えていた。
「どうかしたのか? あまり身が入っていないようだが」
「な、んでもありません、わいったあ!!」
「余所見をするからだ」
(貴方のせいです!!)
何年ぶりかに指を刺し、アウローラは顔をしかめた。幼い、初心者であった頃ならいざ知らず、歳が二桁を超えてからは、たとえ寝ぼけていても、こんな初歩的なミスはしなくなっていたのに。
ぷくりと指先に浮かんだ血の球を、涙目で恨めしげに見つめていると、やんわりと手を取られて硬直する。
「ほら、傷を見せて」
「だ、大丈夫! ですから! こんなの舐めておけば治りますから!」
「唾液には雑菌がいるだろう」
有無を言わさず手を握り、フェリクスは手元のコップに魔術をかけた。お湯になったそれを、懐から取り出したイニシャル入りの白いハンカチに注ぎ、小さな血の浮いた指先を優しく拭う。
その仕草が壊れ物を扱うように柔らかで、アウローラは思わず身をすくめた。
「よし、綺麗になった」
「ありがとう、ございます」
(むっ……むず痒い!)
先程からフェリクスは、万事この調子だった。
夜会以来の逢瀬となる茶会、彼はポルタ家のタウンハウスに訪れた時からおかしかった。
アウローラの好きな菓子と茶葉を携えて現れた彼は、いつものようにきっちりと着込まれた夏の紳士服に、少々不釣り合いながら輝く、緑の石のイヤーカフを身に着けていた。夜会の時のそれと同じものだと気づいたアウローラが首をかしげると、彼は低く落ち着いた声色で、こう宣った。
『耳元に貴女のささやきが、いつ届くかわからないから』
貴女もぜひ、積極的につけて欲しいと目を細められ、アウローラはブンブンと首を横に振った。
『あ、あれは、夜会用のデザインですもの、日常的に付けるには華美過ぎます』
『では近いうちに日常使い用の耳飾りを贈らせてもらおう』
『む、無駄遣いしてはなりませんよ!』
『何が無駄遣いなものか。ただ私が贈りたいだけだ』
どうか受け取ってくれ、と囁かれれば拒否も難しい。仕方なく頷いたアウローラを見て、フェリクスは機嫌良く、テラスのソファに腰掛けた。
思い出したアウローラは額を押さえ、どうしたものかと息を吐く。
「……額の傷が痛むのか?」
「いいえ、あれは本当にかすり傷ですから。もう、間近で見ないと分かりませんわ」
「本当に?」
すっと前に陰が差す。膝の上の刺繍枠へと視線を落としていたアウローラが顔を上げると、フェリクスの青紫の瞳と白い手が眼前に迫っていた。
「な、なに、か?」
「動かないで」
手袋をはずした素手の指が、クリーム色の前髪をそっと持ち上げる。薄紅色の爪の先が、アウローラのまろい額をするりとなでた。
「うっすら桃色に残ってはいるが、確かにこれなら遠目には分からないな」
良かった、と、氷の美貌が柔らかに緩む。雪解けを間近に見せつけられたアウローラは逆に凍りついて、糸を変えようと持っていた針をぽろりと落とした。
「気をつけて。ドレスに針が紛れると危険だ」
「あ、ありがとう、ございます……」
レースに埋もれてしまうような細い針を拾い上げ、フェリクスがそっと差し出してくる。震える指で取り返した針を、アウローラはギュッと握った。
(落ち着け、落ち着くのよアウローラ。これは王太子殿下の婚約者さまのためのスカーフ。粗相があってはならないのだから! 集中! 集中!!)
ふうふうと息をつき、目を閉じる。
しばらく息を深く吸ってはゆっくり吐くのを繰り返し、アウローラは目を開けた。心を無にし、ひと針ひと針丁寧に、締めくくりの模様を刺してゆく。
針に通った糸は輝く白、最上級の絹に施された刺繍は、あともう少しで終わるところだった。今朝までは刺繍台にセットしてあったのだが、出来栄えをフェリクスにも見てもらおうと、残りをテラスで刺すことにしたのだ。最後に残った、スカーフの中央にある白い一番星を刺せば完成である。
常よりも更に集中し、一心に針を繰るアウローラの横顔を、フェリクスは熱心に眺めていた。
夢中になって刺繍を刺す、彼女の横顔は彼にとって、何よりも好ましいもののひとつだ。ろくに会話を持たせることのできない己の情けなさが浮き彫りになって、落ち込まないこともないが、それを上回る魅力が、その横顔にはあった。
彼女と出会うまでのフェリクスにとって貴族の女性というのは、母親や姉のように美しくあることに心血を注いで精力的に社交に取り組む既婚女性と、良い婿がねを得ようと必死に己を売り込む未婚女性のふたつだけに分けられていた。アウローラのような、健康的で、何か己の得意とすることに没頭するような女性とは、縁がなかったのである。
きっと、今まで邪険にしてきた女性たちの中にも、彼女のように何かに取り組む人はいたのだろう。彼女以外にも、同じような魅力を持つ人はいたに違いない。けれど、彼女に出会わなければ知らなかった。彼女が自分の世界を広げてくれたのだ。きっかけは己の放り投げた指輪で、人は偶然だと言うかもしれないけれど、自分にとっては必然だったような気がする。
フェリクスはそんなことを思いながら、ティーテーブルに頬杖をついた。
アウローラの緑の瞳はきらきらと、夏の日差しに輝きながら、己の手元をじっと見つめている。
「……よしっ、これ……で、端を始末して……っと」
どれくらいそうしていたか。青空が徐々に褪せはじめ、日の傾きを意識させるようになるころ、不意にアウローラが顔を上げ、ふう、と大きく息を吐く。それからとんとんと肩を叩き、膝の上の刺繍枠を持ち上げて、にっこり笑った。
「でーきた」
ひどく満足気な表情に、フェリクスがひょいと、刺繍枠を覗きこむ。肩を寄せられ、一瞬びくりと震えたアウローラだが、すぐに力を抜いて、手にしていた枠を少し傾け、フェリクスに差し出した。
「……これは、すごいな」
「王太子殿下の婚約者様へ、ということで、古来よくある花嫁へ送る刺繍にしましたの」
胸を張るアウローラに、フェリクスは素直な感嘆を漏らす。
柔らかく上品な藤色の絹布を埋め尽くすのは、濃い紫、青みの紫、明るい紫と、あらゆる種類の紫の糸だ。それらが象るのは古い時代、海の国の王女の婚礼に用いられたと言われる、生命を言祝ぎ運命を導く、車輪と蔦の文様である。車輪の内側は白い糸と銀糸、銀のビーズであしらわれた北の一番星と星空の意匠で、先を読み人生が障害のないものとなるようにという、旅立ちを祝福するものだ。
古王家派でも新王家派手もない、『旧王家派』から嫁ぐという、長い間例を見なかった立場の花嫁への、励ましと祝福の刺繍である。
意匠の良し悪しは分からないが、技術の高さはフェリクスにも分かる。しみじみと眺める彼に、アウローラは照れたように頬を染めた。
「これでようやく、ひとつ肩の荷が下りますわ」
「……王太子殿下との謁見を、また設定せねばならないな」
「よろしくお願いいたしますね」
軽く会釈をし、それからアウローラは「あっ」と小さく声を上げた。斜め後ろの侍女へと目配せすると、彼女は心得たように頷いて、少し離れた椅子の上の籠をアウローラへと渡した。フェリクスが、ごそごそと中を漁る彼女を見つめていると、「はい」と突然手渡されたのは、白いタイである。
「これは……」
「王太子様のタイをお預かりした時に、クラヴィス様からお預かりしたタイですわ」
「フェリクス」
「はい?」
「夜会の時はそう呼んでくれただろう?」
囁かれて、アウローラはまた身震いした。ごほんごほんと咳払いして、フェリクスを半眼で睨みつける。
「フェリクス、様」
「なんだ」
「ですから、これはあの時のタイですわ」
顔をしかめたまま頬を僅かに赤くして、アウローラはタイをひらりと揺らした。白いタイには白い糸で、フェリクスのイニシアルをモノグラムにしたものが刺されている。くるりと唐草があしらわれ、内側に芯を入れ膨らませているそれは見事な品で、クラヴィス家がリネンやハンカチーフに刺繍を発注している職人との差が分からない程だった。
そして、本人も気づいていないだろう魔力が、ほんのりと刺繍を覆っているのをフェリクスは感じ取る。身に付ける人間にささやかな幸せが訪れるようにとの願いの込められた、心地よい魔力だ。
「王太子殿下のタイは国章にしたのですけれど、フェリクス様は、家紋よりイニシアルがいいかなと思ったのです。家紋だと、クラヴィス家のどなたのものか分かりにくいでしょう?」
自分だけのためのもの。言外に籠められたその言葉に気がついた時、フェリクスは己の胸にぐっと何かがこみ上げるのを感じて、心臓をそっと抑えた。込み上がった何かは胸の内を熱く満たし、心拍数を跳ね上げる。
揺れる白いタイを受け取り、フェリクスはまじまじと見つめてから、そっと額に押し頂いた。
「素晴らしいものを、ありがとう」
「い、いえ、そんな、大層なものでは……」
「だが、私のためだけのものだ。こんなに嬉しいことはない」
(ああもうだから、その顔は、反則なんですってば……!)
再びの笑みに、アウローラはもはやうつむくことしかできない。
「避暑に出る前にお渡ししてしまいたいので、早めに謁見を設定してくださいね!」
常になく早口でそう言って、刺繍枠で顔を隠してしまったアウローラを、フェリクスは表情をゆるめたままじっと見つめていた。
浮かれ初恋野郎。




