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「アウローラ!」
「う、う?」
「大丈夫か、しっかりしろ!」
身を包んでいた温かい何かが、アウローラをそっと揺さぶる。気がつけば光は収まっていて、光に焼かれた視力も戻っていた。あたりを見回せば、床の上でユールがいもむしのように転がりながら呻いている。
「だい、じょ、ぶ」
「無理はするな」
聞き覚えの多分にある低い声に安堵して、ゆるゆると脳が覚醒する。侍女たちに先導され、小部屋に連れ込まれ、ユールに襲われ、追いつめられたところで助けを呼んだら、光が。
――そう、光が。
「いった、い、なに、が」
声の主――フェリクスはアウローラのかすれ声に顔をしかめ、不機嫌な低い声で囁く。
「それは俺の台詞だ! 君が戻ってこないからおかしいと思い、ルーミス侯爵と殿下に失礼をして探していたのだが、魔石が展開して……アウローラ、傷が」
「え?」
傷を負うような場面はなかったはず。アウローラは首を傾げたが、骨ばった指が額を撫でるに至ってはっとする。頭突きか。頭突きのせいか。礼装の衿には、徽章も留め具も着いているし、夜会用の髪型はいつもより額が出ているのだから、掠って傷ついてもおかしくない。
「これは、その……」
「あの野郎……」
思いっきり頭突きしたからです、とは言いづらい。口ごもったアウローラに何を思ったか、フェリクスはやおら立ち上がり、ようやくに床から上体を起こしていたユールの頬を、思いっきり殴り飛ばした。
「フェリクス様!?」
「っこの!」
咄嗟に応戦したユールは腐っても騎士というべきか。ふらふらながらも鍛えられた拳が、フェリクスの頬をかすめる。怒りに燃える青紫と青の、少々酔っ払った男二人の瞳が、激しい閃光を散らして交差する。
そこからはもう、目も当てられない乱闘だった。
先に動いたのはユールだ。
ゆらり、彼の上体が揺れ、ついさっきまで地に伏しのた打ち回っていたとは思えぬスピードで、利き足を繰り出す。無論、そんなものに脚を掛けられるようなフェリクスではない。飾緒の揺れる礼装の重みも物ともせずに飛び退り、後方に着地下かに思えた次の瞬間にはもう飛び上がっていた。
振りかざした拳はユールの顎に入る寸前で僅かにかわされ、しかし彼がかがんだ瞬間に、フェリクスの膝が腹に入る。吹き飛ばされ、壁に激突したユールはそれでも崩折れず受け身をとって転がり、フェリクスの膝下へ蹴りを叩き込んだ。
(よ、よっぱらいの喧嘩の、酷いやつだわ……!)
あわあわと震えるアウローラの前で、彼らの乱闘は続いた。
魔術や武器を使わないのは互いに、相手を殺しかねないと分かっているからか。しかし彼らは騎士、それも近衛騎士である。フェリクスはもちろんのこと、ユールとて、人間性に問題があっても、騎士としては優秀なのだ。生身、拳であっても、殺傷力が低いとはとても言えない。
ドカッバキッと不穏な音がするその度に、机の上の物が飛び、椅子が倒れ花瓶が割れた。
(あああああ、高そうなシノワズリの陶器が……端正な刺繍のテーブルクロスが……)
ポルタ辺境騎士団の男たちも、酔っ払うと喧嘩を始めることは多々あった。彼らはフェリクスたちよりよほど荒くれで、喧嘩っ早いのだ。
しかし、彼らはその分『喧嘩慣れ』していて、引き際も、相手の身体にダメージ少なく相手を叩きのめす術も熟知していた。騎士団にも『喧嘩(私闘)の罰則』がちゃんと定められているし、うっかり熱くなりすぎたとしても、周囲が止め方をよく知っていた。それどころか、祭だ大会だ演習だと事ある毎なものだから、『またか』と笑って放っておくくらいなのだ。
しかし、貴族育ちの男ばかりの近衛隊ではそんなこともないのだろう。アウローラの目に映る彼らは明らかに、『喧嘩慣れ』していなかった。繰り出される互いの拳はほとんど本気で、うっかりすれば頭蓋を砕きそうですらある。そんな間に立ち入って止めるすべなど、アウローラにはさっぱりわからない。
(ど、どうしよう……)
気がつけば二人の礼装はよれよれ、整えられた長く美しい髪はボサボサである。美形が台無しだ。
しかし、ちょっと酔っただけのフェリクスと、すでに身体にダメージが蓄積されていたユールでは、どちらが優位かは明白だった。気がつけばフェリクスの拳がユールのみぞおちに叩きこまれ、彼の身体は紙切れのように吹き飛んで、タペストリーの掛けられた壁に激突し、ズルリと崩れ落ちた。
カツンカツンと軍靴を鳴らし、フェリクスがユールに歩み寄る。
(あああ、いけない!)
フェリクスは完全なる無表情で、ユールを見下ろしていた。邪悪でも憤怒でもないその顔は、かえって彼の怒りの深さを示すようで、怒気を向けられているわけではないアウローラの背を、ぞっと冷たい冷気が駆け抜ける。白い肌に白い髪、薄暗さの中で死神のような、黒にしか見えない濃紺の礼装。手のひらがゆらりと光り、何かの陣が動く。アウローラは慌てて彼の腕に飛びついた。
「フェリクスさま! だ、ダメです! トドメを刺してはダメです!! 本当に死んでしまいます!」
「だが」
「大丈夫、わたしは大丈夫ですから! 貞操も無事ですし! おでこは自分の頭突きのせいです!」
「でも」
「トドメはダメです!!」
それでも収まりがつかない様子のフェリクスに見おろされ、アウローラは焦ってユールに駆け寄り、フェリクスに向かって口走った。
「恨みがあるのはわたしです! 殴っていいのはわたしのはずです!!」
「ぐえっ」
むぎゅっ。
殴ると痛い、とっさにそう判断したアウローラは、横たわっていたユールの背を踏んだ。けっして可憐ではない体型のアウローラの重みが、ユールの背筋に突き刺さる。
呆然と口を開いたフェリクスは、アウローラのドレスの下でうめき声を上げるユールにようやく、我に返った。
「えいえい!」
「うっ……」
「ア、アウローラ嬢、ルーミスが死……」
「えいっ!」
「……あっ」
「はい、そこまで!」
踏んでいる内に恨みつらみがこみ上げてきて、思わずぐりぐりとかかとをめり込ませていたアウローラを、高原を吹き抜ける風のようなよく通る声が止めた。瞬間、バタン! と大きな音を立て、重い両開きの扉が開く。扉の左右には青ざめた表情の、先ほどアウローラを先導してきた侍女たちが立ちすくんでいる。そして、彼女たちの真ん中に、黒いローブの男を従えたブルネットの女性が、仁王立ちで佇んでいた。
女性は動きを止めたフェリクスに目配せすると満足気に口角を上げ、ゆったりと部屋へ進入する。右足を痛めているのか少し引きずっていて、右手には銀の杖を持っている。動作はゆっくりだったが、その仕草は上品でありながら威風堂々としていて、さながら獅子を思わせる風情だった。
女性にしては長身、しかし身体の曲線、日に焼けぬミルク色の肌は紛れもなく女性であり、結い上げられた栗色の髪はつややか。飛び抜けた美女ではないが整った顔立ちは、どこか中性的で凛々しく、男装でもしたならば、少女たちが黄色い声を嗄らしそうだ。そして何よりも、煌々と輝く聡明そうな明るい紫の瞳が、彼女の身分を指し示す。
身に纏うドレスは高貴の紫、コルセットの要らないゆったりと身体のラインに沿ったものだが、腿の半ばからたっぷりと広がったドレープは大きく、足や身体への負担を格段に減らしながら、大輪の紫百合のような優美なシルエットを生み出していた。施された刺繍はもちろん一級品で、散らされた石にはまがい物などひとつもない。
彼女こそ、ウェルバム王国の第三将軍、メモリア第一王女殿下である。
緊迫感の長続きしないお話だなあ(他人事のように)
フェリクスの「素」は「俺」です。




