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「……ご用件は?」
「相変わらずつれない方だ」
フン、と馬鹿にしたように鼻を鳴らすユールに、アウローラもムッとして眉根を寄せる。立ち尽くすアウローラの背で扉が閉まったが、彼は彼女に椅子を勧めることもなく、ジロジロと不躾に上から下まで眺め回した。前に噴水の前で遭遇した時とはえらく態度が違うなと思いながら、アウローラは嘆息する。
「着飾れば多少は見られるようになるが、奇抜なドレスでようやく人目を惹ける程度、か。まあ、確かにそのドレスの形や技術……胸元の刺繍は素晴らしくはあるが、どうせラエトゥス公爵夫人の手を借りているのだろう? 着る人間が優れていなければ宝の持ち腐れでしかないな」
(そう言えばこの男、伊達者で知られてるんだっけ……。礼装じゃピンとこないけれど。……しかし白服の刺繍もなかなか素敵ね、紺服とは意匠が違うなんて知らなかったわ)
ドレスは認めるのかと意外に思うが、そういえばと思い出す。
タイの結び方からジレの色合わせ、生地の織りや素材など、男性のおしゃれとやらは女性のそれとは少々異なる。ユールはそちらの方面でも名を知られているのだ。
「別の娘が着ればもっと活きただろうに、惜しいことだ」
アウローラはうんざりしてユールを睨み返した。
「そうでしょうとも。ですが他の方なら、この色をまとう必要などないでしょうから、もしもを話しても無駄なことですわね」
「それにしても声も顔形も極普通、と。……やはり分からないな。なぜ君なんかがクラヴィスの婚約者なんだ? 何か特技でもあるのか。弱みでも握ったか?」
「わたくしには、『指輪に選ばれた』からとしか申し上げられませんわ」
「その経緯は聞かせてもらったとも。だが、それをそのまま信じるのは馬鹿だろう」
(まあそりゃそうよね!)
そんな馬鹿げた理由をそのまま信じるのは、よほどの単純か、夢見がちの子供だろう。アウローラだって他人事だったなら、なにか裏があるに違いないと考えたはずだ。婚約しなければならない事情があり、しかしその事情が表に出せるような内容ではないのだろう、と。
しかし残念ながら、この件ばかりは『指輪に選ばれた』のが、紛れもない真実である。一体どうすれば彼を納得させられるものだろう。
「どうしてそれほどまでに、フェリクス様の婚約者を気になさいますの?」
言外に、貴方には関係ないだろうと含ませれば、ユールはその美貌を勿体無いほどに歪めた。
「……それは奴が、クラヴィスだからだ」
しばしの間の後、彼がこぼした言葉はほとんど呻くようだった。
「対抗する派閥の、同じ家格、同じ立ち位置の家に、同じ年に、同じく嫡男として生まれ! 共に美しい顔を持ち! 士官学校から近衛隊へと、同じ道を進み!」
ダン、ユールの手が壁を打つ。アウローラはぽかんとしながら、自らを美しいと言い放った男を見つめた。あの時も芝居がかった仕草をしていたが、どうやら彼の癖であるようだ。
「だというのに僕は奴に、一度足りとも、勝てたことがない! 奴の魔術、剣技、馬術は同級の中でも突出している。同期で近衛隊に入り、すでに班長を務めているものは、奴だけだ。だというのに奴はそれを、毛の先ほども気にしていない……。圧倒的な差を持つ周囲の奴らは、単純にやつを褒めそやす。それは仕方ないだろう、奴とその他の差はあまりにも大きいのだから。だが、いつも肉薄し、ギリギリのところで敵わぬ僕に、それがどれだけ腹立たしく、惨めか、分かるだろう?!」
語り始めたユールの髪の上で、金の光が踊る。白い指が暗い空間に翻り、淡い軌跡を描くのを、アウローラはただただ眺めた。
騎士でもなければ、同じ世代の人間と己を比べたことが殆どないアウローラには、彼の言うことは分からなくはないが、実感には乏しい。
「……フェリクス様が出来過ぎていて、気に食わない、ということですか?」
「違う!」
ダダン! 彼の拳が壁を再度打つ。
「奴は……奴は完璧だ。美しく、強く、飄々として冷静で――貴様も見ただろう、あの、模擬試合を! 僕は多少卑怯な手を使ってすら、いつも、あと一歩、奴に届かない。一度這いつくばらせたいと、床に叩きのめしてやりたいと、十五の……いや、初対面の五つの頃から何度も思ってきたが! 一度も! 一度足りとも!! 奴を倒せない!」
犬歯が薄い唇から覗く。血走ったユールの青い目が爛々と瞬いて、アウローラをひたと睨んだ。顔をしかめた彼女の鼻先に、ユールは指をつきつける。
「そんな奴が! 永遠の僕のライバルが! なぜ! お前のような凡庸な女を娶ろうと言うのだ! 奴には永遠に僕の壁でいてもらわなければならぬというのに! あれほど美しい姉を持つ男だというのに! 奴は絶世のとか傾国のと呼ばれるような女人と縁付いて、僕を歯噛みさせるだろうと思っていたのに! なぜ! 貴様が! 貴様より美しい女を嫁にするなど、簡単すぎるではないか! 越えがたい壁を超えてこその完全勝利だというのに!」
「えっと……つまり、完璧なフェリクス様に、わたくしという疵がつくのが、許せない、と?」
「そうだ!!」
(これって……まさか……)
一刀両断に言い切ったユールに、アウローラは開きかけていた口をぱたんと閉じた。
つまり。
(……ルーミスはフェリクス様のことが好きで好きでしょうがないってこと?!)
女性に囲まれ、けなされることは覚悟していたが、まさか、ご令嬢ではなく男に、『あの方にお前はふさわしくないわ!』と言われる日が来ようとは。現実は小説よりあり得ないとはまさにこの事。憧れの人にさもない者が縁付くのが許せない、とはもはや盲目的に恋する乙女ではないか。
(ど、どうしよう。いや、どうもしなくていいのよね? そういう偏見はないつもりだったけれど、び、びっくりしたわ! 兄様も何度か危なかったと言っていたし、学園寮とか騎士団みたいな男所帯では男の方同士の恋愛も珍しくないとは聞くけれど! あっ、学園寮と騎士団……士官学校の寮ってそれそのものじゃない!)
――正しい認識であるかはさておき、アウローラはそう判断した。ちらりと男を盗み見る。ユールは彼女の目線に気づかず、荒れた息を整わせようと肩を上下させていた。
(フェリクス様の無表情がただの人見知りだなんて、そんな乙女の夢を壊すようなことは言えない。でも、仮婚約だなんて言えば逆上するかもしれないし。どうしたら穏便にお引き取り願えるかしら? ……いや、この場合引き取るのはわたしだけれど)
「何を間抜け面をしている」
「……まあ、これはわたくしの常態ですわ」
「なんて残念な女だ。やはり解せぬ。なんで貴様なんだ」
「ですから、指輪が選んだのです」
「そんな戯れ言が通用すると思うな!」
ユールは吐き捨てる。怒鳴られ、しかしそのようなことで怯むアウローラではない。騎士団の怒号には慣れがあるのだ。睨み返したアウローラに、ユールは陰湿な笑みを浮かべた。
「気の強さと図太さは買ってやってもいいかもしれんな。しかしそんな嘘をそれでよいとしてやれるほど、僕は人間ができていないのだ。――ふん、よく見れば豊満な体つきをしているじゃないか。その身体で奴を落としたのか?」
かちん、とアウローラの脳裏が鳴った、。ムカムカと、トゲトゲした感情が胃の腑からせり上がってくる。あの、真面目一辺倒で不器用な人に、なんという言い草だろう!
「失礼な! フェリクス様は紳士です! 婚前の乙女に手を出すような方ではありません!」
お前といっしょにするんじゃないと言外に叫べば、ユールもムッとして言い返す。
「だがそれ以外に貴様に何がある?! 何故貴様だ! 何かあるんだろう! 言え!」
「ですから指輪が選んだんですってば! 本当の本当に!」
「そんな訳があるか!!」
「ぎゃっ?!」
ガツンとユールの腕が伸び、アウローラの肩を押す。よろめいたアウローラはそれでも転ばずに一歩下がった。
「僕は認めない! 奴の婚約者が凡人であるなどと! 認めない! ――そうか、貴様を婚約者から外せばいいんだな?! 外れるようにすればいい!」
「はあ?!」
「その身が穢れれば侯爵家の婚約者になどなれないだろう!」
「何言って――ッ!」
興奮状態に陥ったユールの腕が再びアウローラに向かって伸び、アウローラは腰をひねって、慌てて逃れた。
「ちょっと、なんなの?! 自分で手出しをしてくる人がいる!? それじゃあわたしがフェリクス様の婚約者でなくなっても、あんたが責任を取ることになるだけじゃないの! 叶わぬ恋に自棄になるんじゃありません!」
三度伸ばされた腕を避け、差し出される長い足を飛び跳ねて避け、ドレスを翻し。ソファの横のテーブルが倒れて、ガチャンとグラスが割れ、残っていた液体が流れだす。
「うるさい! 奴に一泡吹かせてやれるならそれもまたそれだ!」
「あんたさては酔っ払っているわね?!」
(なんか様子がおかしいと思ったら! そういえば部屋に入ってきた時、この男、飲んでたわ!)
ただでさえ夜会ではワインを飲んでいたはずで、それを思えばかなりの酒量だ。酔っ払って自制を失っているのなら、この暴挙も頷ける。とはいえ、理解ができても、アウローラのピンチであることに変わりはない。
(さすがにまずいわ、どうしようどうしよう)
「ええいちょこまかと!」
「痛ッ!」
椅子の向こうで右へ左へ、小さな家具をなぎ倒しながら、机を挟んでぐるぐると。狭い部屋で騎士に追いかけられ、令嬢が長々と逃げ続けられるはずもなく、さほど間をおかずにアウローラは壁際に追い込まれた。首の左に手を置かれ、命を握る急所にゴツゴツとした手が迫る恐怖に息を呑む。なんとかこの場を打開できないかと、猛然と記憶の中をさらった。
(そ、そうだ、こういう時は、腰をかがめて……ッ)
「観念するんだな!」
「誰が!」
アウローラはキッとユールを見上げ、ぐっと腰を落とした。思い出すのは兄の言葉だ。
少女のような美貌の上に身体が細く、しかし男所帯で過ごさねばならなかった兄は、幾つか、体力や腕力のない子どもでも使える護身術を身につけていた。それを、『ローラも女の子だからね』と、社交界に出る前年に、アウローラに教えてくれたのである。
(息を吸って、腰を落として、顎を狙って、全身全霊で…………頭突き!)
「食らえっ!」
「ぐあっ!?」
ガツン! なんの躊躇いもない渾身の頭突きが、ユールの細い顎に見事に入った。火花の散るような痛みと衝撃が彼女の額とユールの顎を襲う。まさか伯爵令嬢が騎士に反撃しようとは思わなかったのだろう、突然の衝撃に彼は大きくよろめいた。
「っ、ぐ……こ、のッ!」
しかし、顎を押さえふらつきながらも彼は倒れはしなかった。長い手指がアウローラの細い首に掛かかる。
(あああ復活が早過ぎるさすが騎士! ……そうだ、耳飾り!)
『助けてフェリクス様!』
急ぎ魔力を耳飾りに流した、その刹那。
アウローラの胸元で、青い魔石が爆発するように発光した。瞬く間もなく光は小部屋の中を染め、目の前が真っ白になり――気が遠のいたその刹那、何かがアウローラを、ぐっと包み込んだ。
ギャグ回 (のつもりなんじゃよ)。




