25
「……何だ?」
ピタリと足を止めた二人は、思わず周囲を見渡した。出てくる前と比べて、なにやら広間が騒がしい。ざわざわと落ち着きのない、高揚した空気が充満しているのだ。夜会の空気というのはそもそも熱を帯びたものではあるが、まるで祭りのようなざわめきが、ひそひそと人々の間を行き交っている。
「なんでしょう……」
「おや、クラヴィス殿、どちらへ行っていらしたのです?」
「テラスへ涼みに。何かありましたか」
途端、騎士らしい警戒を宿し、鋭い目つきとなったフェリクスに、声を掛けた男は慌てたように首を振る。
「いやいや、侵入者だとか乱闘だとか、そんな悪い話ではありませんよ」
「そうですか」
「なんでも、いと高き身分の方が、お忍びでいらっしゃったそうでね」
紳士の瞳は喜びに輝いたが、一瞬無表情に戻ったフェリクスの目は、再び剣呑に光を帯びる。
――いと高き身分の方とは、つまるところ王族である。王家の分家といった扱いである公爵家は別として、ただの臣下である貴族の夜会に王族が現れることは、主催に取っては格段の誉れ、何代にも渡って語り継がれるような出来事だ。
新王家派たるルーミス家の立場からすれば、訪れる可能性のある王族は、国王、第一王妃、第一王女の三人。しかし、国王と第一王妃が現れるとなれば、いくらお忍びといえども事前に綿密な計画と下準備が必要である。近衛隊のフェリクスの元に情報が入ってこないはずがない。
ちなみに、最も『お忍び』という言葉に近いのは王太子だ。彼は魔術によって髪や瞳の色を偽装し、学生時代に培った『街言葉』で、城下の平民の間にも平然と紛れ込む。優れた魔術師である彼は短距離転移術なども使えてしまうため、王太子がお忍びと称して行方をくらませる度に、彼の乳兄弟であり専属護衛である近衛隊副隊長を始めとした王太子の護衛たちが、阿鼻叫喚の様相を呈するのだ。
しかし、彼は第二王妃の息子。古王家派の人間である。新王家派筆頭とも言われるルーミス家の夜会に、『王族である』ことを明らかにして顔をだすとはとても思えない。彼ならばどこかの子爵か男爵あたりに変装して、しれっと混じっているだろう。となれば。
「……第一王女殿下、でしょうか」
「さすがは近衛隊のお方ですな。我々もまだ詳しくはお伺いしていないのですが、どうもそのようですよ。いや、王女殿下が臣下の夜会に足を運ばれるとは珍しい。お怪我をなさってから、王城の夜会以外は避けておいででしたからな。ありがたくも良き機会に恵まれましたなあ」
はっはっはと男は腹を揺らして笑い、それでは、とグラスを掲げて立ち去ってゆく。違う派閥であることを気にも留めないのは、酔っ払っているせいか、フェリクスひとり程度では脅威にならぬと思われているのか。単に人がいいだけかも知れない。
眉間に深いしわを刻んだフェリクスに不安がこみ上げて、アウローラは思わず、彼の袖をそっと引っ張った。
「第一王女殿下……、前の王太子だった姫君ですよね。新王家派の旗頭の」
「ああ」
「どのような方、なのでしょうか?」
「お会いしたことは?」
「式典と、お城の夜会の時にほんの少しでしたら」
社交シーズンの始まりと終わりにそれぞれ王城で開かれる、王妃と国王の主催する夜会。それには全王族と全公爵が参加するので、すべての王位継承権保持者の顔を見ることができる。だが、アウローラのようにデビューしたての若者は、せいぜい挨拶の時にちらりと顔を見られるくらいである。
アウローラの記憶の中の第一王女は、濃いブルネットに紫の瞳が美しい、いかにも王族然とした
威風堂々の立ち姿の女性である。王族の正装である白いドレスも、白金のティアラも大変美しかったのに、その若獅子のような雰囲気ばかりが記憶に残っているのだ。
「大変凛々しい女性で、王太子殿下曰く、自身よりよほど王太子向けの人格者であると」
記憶の人で間違いはないらしい。ならば、とアウローラは首を傾げる。
「第一王女殿下がいらっしゃると問題なのでしょうか?」
「いや、そんなことはない」
「では、どうしてそのようなお顔を?」
「この夜会において異質な客である私たちは、殿下にご挨拶せずには帰らせてはもらえない」
苦い薬草を噛み潰したような顔で、フェリクスがボソリとこぼす。思い至ったアウローラも、額に手を当て天を仰いだ。
まずは主催から始まって、新王家派の重鎮たちの挨拶が一通り済んでからが、客の挨拶の時間だ。主催や重鎮の挨拶が、数分で終わるようなものであるはずもなく、アウローラとフェリクスが挨拶できるのは、随分先になるはずだった。
「……とりあえず、王族の方にお会いする前に休憩室をお借りして、衣装を整え直しましょうか」
「……そうだな」
二人は干物の魚のような目を合わせて、しょんぼりと頷きあった。
*
(……おかしいわ)
柔らかな絨毯がひかれた廊下を歩きながら、アウローラは内心、ひとりごちた。『衣装を整えたい』と夜会を一旦退出し、フェリクスと別れて、ルーミス家の侍女たちに女性向け控室への案内を頼んだのだが、どうも道行が怪しいのである。
夜会ではいくつか、休憩室が用意されている。まずは疲れた者のための休憩室、体調を崩したもののための救護室や、崩れた衣装を直すための男女別の休憩室、主催専用の控室に、連れてきた侍女や侍従が控えるための小広間など、規模の大きい夜会であれば、十をくだらない数の部屋があるものだ。
しかし、その休憩室が、広間から離れて設置されることはない。だというのに先程から、前を行く侍女はどんどんと、離宮の奥へ進んでいるようなのである。気がつけば周囲から夜会のざわめきはすっかり消え失せていて、細い月の頼りない灯りが窓から差し込むのが見えるばかりだ。
これはひょっとして、嫉妬にこがれた女性に呼び出されて嫌がらせをされるという、宮廷物語によくあるやつだろうか、とアウローラは想像を巡らせた。
屋根の下にいる間は刺繍に勤しんでいるので、彼女はそれほど小説を読まないのだが、領地の館の祖母の部屋には、年若い頃は都人であった祖母が嫁ぐときに持ってきたと思われる、女性向けの恋愛小説や大河小説がいくらかあった。内容は少々古いが、女性騎士だった母がそういった書籍にあまり興味を示さなかったこともあり、アウローラが読んだ数少ない小説のほとんどが、祖母の蔵書だ。
古いインクの匂いのする華やかな表紙のそれらは、概ね、貴族の娘が大恋愛の末に結ばれるだとか、長い別離の末に幸せになるだとか、そんな展開だった。しかし中には恋愛がメインとは言いがたい『小国の姫が大国に嫁いで苦労しつつ王族をまとめ上げる』話や、『没落貴族の娘が女官として王城で奮闘する』話もあって、そう言った『辛い思いをした末に頂点に立つ』物語のほとんどには、人生の苦難を盛り上げるスパイスとして、嫌がらせをされたりいびられたりするシーンがあるのである。
とは言えそれらの物語の主人公たちは仕事のできる美女か、可憐で守ってあげたくなるような繊細な姫だ。その美しさや清い心根、才能などに嫉妬され、いびられるのである。華やかなりし宮廷の闇、出る杭は打たれるのだ。
(ああでも、顔は美しくないけど心の綺麗な娘さんが貴公子たちに見初められて、それをよく思わない女性陣にいじめられる、みたいな話はあったかも……)
侍女の後ろを楚々として歩きつつ、アウローラはしみじみ、物思いに耽る。『お呼び出し』の主は一体誰だろう。キルステン侯爵夫人が真っ向から挑みかかってきたので、すっかり油断していたが、社交界における高嶺の花の婚約者を連れながら、派閥でも一二を争う優良物件に声をかけられ、あまつさえダンスの誘いを頂いたのに断ったのだから、目障りに思われても致し方ない。
アウローラは一人で納得して、前を行く侍女の背に声を掛けた。
「あの、本当に休憩室に向かっているの?」
「申し訳ございません、お答えできません」
「パートナーが待っているので、装いを改められないのなら戻りたいのだけれど」
「我が主が別室へご招待したいと申しております。どうぞもうしばらくお付き合いください」
広間へ戻ったほうがいいかもしれない。そう思って背を振り仰げばいつのまにやら、アウローラの前だけでなく後ろにも、侍女が二人ついてきている。逃さないぞと言わんばかりの態勢だ。
(ルーミス家の仕着せよね、これ。あら、裾の刺繍が凝ってるわ、共糸で蔓草、それもなかなかオリエンタルな……じゃなくて。ルーミス家の使用人を三人も手配できる人物、ってことは相手はルーミス家の身内? 婚約者とか? 姉妹はいなかったと思うんだけど)
仕方がない。嫌味やイビリのひとつやふたつならば甘んじて受けよう。アウローラがそう腹をくくった時、廊下を曲がった先の扉の前で、侍女は恭しく頭を垂れた。
「主がお待ちでございます。どうぞこちらへ。――若旦那様、失礼いたします。お客様をお連れいたしました」
(若旦那様――!?)
ルーミス家の若旦那様、と呼ばれる人物など一人しかいない。
侍女がが音もなく開けた両開きの扉の向こう、一人がけのゆったりとしたソファから男が立ち上がる。サイドのテーブルには琥珀の液体。狭い部屋にはふんわりと、甘い酒精が漂っていた。
明かりの足りないランプのもとで、黄金の髪が光り輝く。僅かに赤い頬は高揚か、酩酊か。剣呑な瞳をした甘い美貌の、ユール・イル・レ=ルーミスその人だった。
お前かよ、と。彼女も思ったに違いない。
お祖母様の蔵書はこう、ちょっと昔のドラマとか少女漫画を想像していただけるとよろしいかと……。
2016/08/22:「おっとり刀」急いで首をふった様を表現してたのですが、どうも「おっとり」と使っていると思われてしまってるようなので「慌てたように」に変えました。紛らわしくて申し訳ない。




