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指輪の選んだ婚約者  作者: 茉雪ゆえ
本編

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10/59

 避けられるはずがなかった。

 何しろアウローラは、ちょっと刺繍を過剰に愛している以外は、ごくごく普通の伯爵令嬢である。隣の村まで馬を走らせればすっかりくたびれてしまうし、3回続けて踊ればぐったり疲れてしまう筋力と体力の持ち主なのだ。日がな刺繍に明け暮れて、じっと座り込んでいる乙女が、勢いをつけて飛来してくる物体を俊敏に避けられるわけがない。

 アウローラは呆然と、間抜けなまでにポカンと口を開けて空を見上げた。

 ほんの数秒であるはずのその時間は、まるで時を止める魔法でも使われたかのようにゆっくりと流れる。見開かれたアウローラの新緑の瞳に映り込む銀の刃はまばゆく、真昼の星のようだった。

 剣はまっすぐに落ちてくる。おそらくはアウローラの頭上に。ブンブンと聞こえるのは刃の鳴る音だろうか。

 目を閉じることさえできない。


『krtt!』


 短く鋭い、奇怪な音。それが響いた瞬間、何かが剣を吹き飛ばした。


「な……」

「ポルタ嬢!!」


 ガシャンと鳴った音に糸が切れたように、ぺたんと尻もちをついたアウローラの向かいに、白銀の影が差す。呆然としたまま見上げれば、青い星が二つ。ぱちぱち、瞬きしてゆるりと焦点が合う。フェリクス・イル・レ=クラヴィス。


「大丈夫か?!」

「は、い」


 呟くように応えて、アウローラは深く息を吐き出した。冷たくなっていた皮膚に、急流が巡るように血が回る。カッと熱くなって、目眩が起こり、それが収まると頭がようやく回転を取り戻した。


「痛みは? 怪我はないか?」

「……お、驚き、ました」


 ゆっくりと視線を巡らすと、少し離れた乾いた地面に剣と、なぜか氷塊が落ちている。飛んできて、剣の軌道を変えたものはどうやらこれらしい。そういえばフェリクスは、氷の属性の魔法が得意だと言っていたような気がする、とアウローラは思い出す。咄嗟に剣の切っ先を弾いたのは、彼の魔法のようだ。

 ――あんな短い音で、こんな魔法が繰り出せるとは、流石、優秀な魔法騎士。


何故(なにゆえ)観覧席から降りてきた」


 ガツンと両の腕を掴まれて、アウローラは目を白黒させ、現実逃避に満ち溢れた思考の世界から舞い戻った。

 恐る恐る正面を見れば、不機嫌の絶頂に美貌を歪めて、乾いた大地に膝をついたフェリクスがアウローラを睨んでいる。視界には青年と心地よく晴れ上がった青い空しかなく、瞳と瞳の距離は、彼のこぶし3つ分程もない。近い。

 こんな間近で触れられるのは、あの夜会以来かしら。まだぼんやりと麻痺の残る頭で、アウローラは考えた。

 生真面目で堅物で口数の少ないこの騎士は、そうやすやすと彼女に触れたりはしないのだ。清く正しいにもほどのある婚約者様なのである。

 そんな態度が吹き飛んでしまうとは、これはよっぽどの事態だったのだ。一歩間違えば大怪我、それどころか死んでいたのかもしれない。急に背筋が冷たくなったアウローラはぶるりとひとつ身震いした。


「近寄れば危険であることが、貴女に判らぬ筈がないだろう」


 新入生を叱責する士官学校の教官のごとく、苦い声で眼光鋭く見つめてくる彼の瞳に、アウローラはじっと見入った。

 青い瞳の奥で揺れる薄紫の焔は怒りか憤りか。端正な白い肌が紅潮しているのは戦いの余波か激高か。それらが形作るのは、幼子が泣き出しそうなほどのひどく不機嫌な表情だ。

 今日のフェリクスはここに着いてからずっと、なんとなく不機嫌だった。しかし今は、それとは比べ物にならないほどはっきりと、機嫌が悪い顔をしている。あの、人形めいて整った綺麗な顔がこんなふうに歪むこともあるのなら、彼もやはり人の子なのだと、感嘆の思いさえ湧いてくる。

 しかし、その頬に刻まれた、じわりと血の滲む赤い筋を目に映ると、彼女は我に返ったように小さく息をついた。


「ポルタ嬢?」


 ため息以外に反応のないアウローラに焦れたのか、低い声で呼ばったフェリクスは眉間の皺を深める。

 そんなに怖い顔をしたら、貴方を慕うお嬢さんたちに驚かれてしまうのじゃないかしら。綺麗な顔で凄まれると、恐ろしいなんてものじゃあないのよ。

 詮無いことを思いつつ、アウローラはドレスの隠しから、新しいハンカチーフを取り出した。真っ白なリネンに青い糸で、東洋伝来の「守護」の意匠を刺してある。今日の案内の礼として、フェリクスに渡すつもりだったものだ。

 本当に大丈夫なのかと誰何する目に微笑みを向けて、アウローラはハンカチーフを握った手を伸ばした。うっすらと紫がかった青の、宵の始めの星空のような瞳がぱちぱちとまたたいて、銀色の短い睫毛を揺らす。アウローラの手が頬に触れると、青年は痺れたかのようにかすかに震え、ぎょっと目を見開いた。


「な……にを、」

「なにゆえ、とおっしゃいましたね」


 呟いて、ハンカチーフを頬に強く押し当てる。白地にじわりと赤が染みこんで、シミひとつない美しいリネンを汚した。ピキンと硬直した婚約者殿に笑みを深めて、アウローラは囁いてみせる。


「クラヴィス様が血を流されたから」


 もう少し力を込めて、止血するように押し当てれば、彼は息を呑んだ。


「心配になって、思わず降りてきてしまったのです」


 わたくしにできるのは、貴方を心配することだけですから。

 その言葉は飲み込んで、アウローラは微笑みを解く。ぎゅ、と力を入れれば、フェリクスの眉がわずかに歪んだ。浅い傷とはいえ、痛みはあるだろう。

 そっと、それこそくすぐるように。慎重に慎重に。ほんの僅かに日焼けた男性らしからぬ滑らかな肌をハンカチーフで撫ぜる。濡れた髪から水気を取る時のように、ゆっくりと押さえて。


「わたくしを安全地帯に留めておきたいのでしたら、心配させないで下さいませ」


 彼は妙なところで無鉄砲で、要らぬところまで潔い人だ。せっかく勢いのある一族の嫡男として生まれたというのに、誰かが気にかけてやらねば、人生大損をするに違いない。

 仮とはいえ婚約者である身でなら、気にかけ、心配しても不自然はないはずだ。期間限定とはいえ、すでに対女性用の風よけなのだから、更に「対人用」の防波堤となってもよかろう。

 爵位を持つ家の者は奉仕の精神も持たねばならぬと言うではないか。慈善事業の範囲拡大である。


 アウローラはフェリクスに微笑んでみせた。それは社交用の当り障りのない笑みでも、身近な人に向ける満面の笑みでもなく、騎士が敵に対して凄むような笑みだ。

 フェリクスは軽く目を(みは)り、眉間の皺はそのままに、拗ねたように視線を逸らした。頬骨の上が、僅かに赤味を増す。


「洗っておけば治るだろう」

「ちゃんと治療なさってください。それに、それは負う必要のない怪我でしょう? 違いますか」


 後半は声を潜め、アウローラは眉根を寄せて、フェリクスの肩越しに見える景色を睨んだ。

 融けた氷の横に転がる刀剣を拾い上げながら、フェリクスの背を()めつける、金の髪の男はアウローラの視線に気づき、敵愾心に満ちたほほ笑みを寄越す。傍目にはただの色男にしか見えない笑みを。

 ――気に食わない男だ。


「要らぬ心配はさせないと、お約束なさって?」


 ぺちん。

 良からぬ笑みを浮かべる男に見せつけるように、手袋越し、戯れのように頬を叩く。怒った振りで手を離そうとすれば、指先を軽く握られた。


「…………善処しよう」


 我に返るより早く、声が届く。驚いて視線を戻せば、紫味を帯びた青の瞳が細められてアウローラを見ていた。

 急に腹の底が落ちつかない心地になったアウローラは、手を振り払う。阻むことなど容易かろうに、フェリクスはあっけなくその手を離した。

 奇妙な沈黙が落ち、アウローラが顔をしかめたその時。

 パン、パン。

 空間を切り裂く柏手が響き渡った。


「なかなか見事に尻に敷かれそうだな」


 呪縛から解き放たれたかのように、空気が動き出す。我に返ったフェリクスとアウローラが顔を向けると、黒い髪の男がにこやかに、こちらに向かってくる姿があった。その瞳は紫玉のごとく深い紫。人の瞳には有り得ぬ『至高の紫』である。

 訝しげに目を眇めたアウローラに、男はふっふと微笑む。


「――――エーリク様?」

「やあ、久しぶりだ。ポルタのお嬢さん」


 よく覚えていたね。

 それは、あの日、アウローラの顔を覗きにやってきた、自称宮廷魔導師の男だった。






そろそろちょっとラブってくれろ。

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