第80話 見据えた、中空。
既に夕日は遠くに見える山の向こうに沈み、稜線に沿って残る茜色の空も刻々と夜に染まっていく。
悠貴は火照った体を少し冷まそうと上半身だけ湯から出しながら、その移り行く景色を眺めていた。辺りを漂う湯気が冬の雪山の寒気を和らげる。それでも時折吹き付ける風は驚くほど冷たかった。暑いけど、寒い。そのもどかしい気持ちに折り合いをつけ、悠貴は物思いに耽る。
午後の講義が終わった後、悠貴は俊輔に研修施設の屋上にある露天風呂に誘われた。体を洗い流した悠貴は俊輔より先に露天風呂に浸かり、午前の実践演習のことを思い浮かべていた。
(なつも手塚教官も凄かったな……)
悠貴は掌の上に魔法で風を呼び起こす。
更にはっきりと認識をすればもっと大きな風を呼ぶことは容易にイメージすることが出来た。しかし……。
(あの……、手塚教官とかなつが使っていた魔法。あれはただの魔法じゃない……。ただの風や火じゃなくて、まるで、自分で意思を持って動いているようで……)
悠貴の脳裏に浮かぶ火の竜や、風の鳥、虎……。
自分がどれほど大きく、強力な風を呼び起こしたとしても恐らく彼らには勝てない。勝てない気がする。感覚的ではっきりしないが、絶対的な壁がある。戦い方それ自体にしてもそうだった。あの2人は同時に複数の魔法を使い分けていた。
(駆け出しの身なんだし、最初から分かってはいたけど……、俺ってホントまだまだレベル低いんだな……)
悠貴は湯を掬って体にかけた。思ったよりも体が冷まるのが早かった。改めて肩まで湯に浸かる。
「悪いな、待たせて」
俊輔が中から出てきて、そう言って露天風呂に入り悠貴に並んだ。
「しかしまあ、ここの露天風呂も立派だよな……。最上級ってまではいかないけど、これ、研修だろ? 親父から魔法士の研修にはかなりの予算が組まれてるって聞いてはいたけど、ホント贅沢だよなぁ」
俊輔の言う通りだと悠貴は思った。
白一色で、綺麗ではあるものの素っ気ない感じがする施設も中に入れば作りは豪奢だった。毎回の食事は高級感に溢れたビュッフェ。カフェやジム、室内プール、図書室、大きくはないがシアタールームまであった。売店で買い物をするときは代金は支払うが、その分は魔法士の登録後に支払われる俸給に上乗せされると聞いた。
悠貴は過分なその待遇に戸惑っていたが、周囲の多くの研修生たちは喜んで享受していた。
「ホントそれな。好雄……あ、大学の友達が魔法士なんだけどさ、事前に研修のこと聞いてたんだけど、施設がこんなに凄いってのは聞いてなかったな」
好雄から研修の話を一通り聞いていた悠貴。
脱走した同じグループの仲間を死なせてしまった話は衝撃的で、ここに来るまでに相当な覚悟をしてきた。実際、見え隠れする特高の影は気になるし、午前の実践演習ではなつみや手塚教官のレベルの高さに驚いた。しかし、少なくともここまでの所、人の生死に関わるような出来事はない。
「……てことは、悠貴のその友達だって奴が研修受けたのは少し前のことなんだろうな。魔法士に関連する予算は年々膨れ上がってる。それに合わせてこの研修施設も整備、拡張されてるんだとよ。へっ、国の連中が俺たちにそれだけ媚を売ってるってことだな。まあ悪い気はしねぇけどよっ。お、そろそろ飯の時間だな」
そう言って立ち上がった俊輔に悠貴も倣う。
最上階から食堂がある2階までエスカレーターで下りる2人。俊輔が間違えて1階のボタンをを押してしまったが、悠貴はちょうど売店に寄りたいと思っていた。1階の売店経由で2階の食堂へ向かおうという話になった。
2人は1階に着くと広い廊下を歩き売店へ向かう。広々とした吹き抜けのロビーに出る。
「おい、悠貴……。あれ見ろよ……」
そう言われ、俊輔が指差した方へ目をやる悠貴。広いロビーの中、行き交う研修生や施設の職員が目を向けてはクスクスと笑い通りすぎていく。
ポツンと敷かれた一枚の畳の上で正座をするなつみ。頬を膨らませ憮然とした表情をしている。
近寄る悠貴と俊輔。
「なつ……、お前、何やってるんだよ……」
遠慮がちに声を掛けてきた悠貴に顔を上げ、大きくため息をつくなつみ。
「何って……、正座よ、正座。見て分からないの?」
と、不機嫌に言ったなつみに、俊輔が返す。
「いや、そりゃ分かるんだけどよ、何でだ?」
「なつが俊君を瞬殺フルボッコにした罰よ。あんまり研修生に可哀想なことするなって手塚教官がね……」
馬鹿にするような目線を向けながら俊輔になつみが言う。なつみの台詞に俊輔はすぐ反応した。
「んだと、コラ……。確かに俺は敗けはしたけど、フルボッコになんかされてねぇからな! キズ1つ負っちゃいねぇ。大体お前が正座させられてるのだって教官のくせして勝手なことしたからだろうがよ」
「ふん。なつの魔法にすくんで一歩も動けなかったくせに……」
怒りを露にする俊輔。スタスタと歩いてなつみの背後に回る。
「えっ……、ちょっ、何っ?」
なつみがそう言った直後、俊輔は正座をするなつみの両足の裏を掴んだ。
「きゃーーーー!」
痺れた足に一撃をくらったなつみは悲鳴を上げて転がる。その様子を満足そうに眺める俊輔。
「へ、ザマー見ろっ。お高く止まりやがって」
と、ふんぞり返る俊輔。震えるなつみ。
「俊君……、こ、この私に何てことを……。ただじゃおかないわよ……。大体やることがガキ過ぎる……。今時、小学生だってこんなことやらないわよ」
なつみはゆっくりとした動作で畳の上に戻り正座をし直す。そして、
「まあ、おこちゃまな俊君は魔法では私に勝てないから、こんなことくらいしか出来ないんでしょうけど」
クスッと笑ってそう言ったなつみ。舌打ちをして拳を握りなつみに近寄ろうとする俊輔。それを見たなつみも、
「あら、やる気? いいわよ、かかって来なさい。一日に二度同じ相手に負ける屈辱を味わうといいわ」
と手を翳す。
飛び掛かろうとする俊輔を悠貴が押し止める。
「あぁ、もう! なつも俊輔も止めとけって!」
悠貴の腕の中で、離せ、と暴れる俊輔。
なつみの肩の辺りから急に声がした。
『悠貴も苦労するね』
悠貴と俊輔が声のした方を見る。
何もない空間。手塚との実践演習の時に姿を見せた、なつみにこてつと呼ばれていた黒猫の従者がぱっと現れた。
「おわ、で、出た!」
こてつの出現に驚いた俊輔が声を上げる。
『なんだよ、出た出たって、お化けみたいに……。確かに僕は人間じゃないしー、君たちから見たら得体の知れない存在かもだけど。元はと言えば君たちが呼ぶから僕たちは来るんだよ。それなのにそんな気持ち悪がられるなんて心外だなぁ……』
そう言って、こてつはなつみの肩にちょこんと座る。
悠貴はまじまじとそのこてつを見る。どう見てもただの小さな黒猫だが、宙に浮いたり人語を話したりとおよそ悠貴が知る普通の猫とはかけ離れていた。
『悠貴ー、いくらそんなに僕が可愛いからってそんなに見られたら恥ずかしいぞぉ』
へへっと照れ、くねくねと動くこてつ。
「ね、猫が照れるって……。クレイジー過ぎる……」
呆れたように俊輔が言う。
そのやりとりを聞いていたなつみが大きくため息をついて話に割って入る。
「何か用? こてつ。あんたが出てるとそれだけで私の魔力が勝手に減っていくんですけどー」
自身の肩に乗るこてつをジト目で見るなつみ。
『別にぃ。ただ、一触即発ななつと俊輔を必死に止める悠貴が大変だなぁって思ったから、それを労いたくてね。第一、さっきの戦いでなつみには従者がいるってのはバレちゃったからね、もう隠れている必要はなくなったなって』
隠れている……。その言葉にひっかかりを感じた悠貴。何で隠れて……と口にした悠貴に俊輔が答える。
「従者ってのはな、魔法士にとっては切り札、隠し球なんだ。狙い狙われることもある仕事だからな。従者を呼べる奴は大抵それを隠す、いざって時の為にな」
「え、じゃあ、なつは……」
俊輔の説明を聞いた悠貴は驚いた声でそう言ってなつみを見る。なつみはこてつを一瞥し、答える。
「そうよ、なつが従者を呼べるって話はもう業界に広まっちゃってるでしょうね。なつ、天才だし有名人だからね。これからなつのこと狙おうって奴は従者が使えるって前提でかかってくるでしょうね」
「……、大丈夫なのか?」
心配そうにそう言った悠貴を他所になつみは余裕そうな顔をしている。
「別に大丈夫よ。なつ、強いからね。今までこてつ抜きで戦ってきたんだし。むしろこれからは大っぴらにこてつも使えるから楽になるかもね。そう考えると手塚教官には感謝しなきゃいけないかもしれないわね」
悠貴の目に映るなつみ。無理をしてそう言っているようには見えない。第一、これほどの魔法の使い手のなつみに訳もなく戦いを仕掛けるような者がいるとは思えなかった。まだろくに研修を受ける前に、既に同時に火の球を複数操ることが出きるレベルの俊輔をなつみは簡単に退けた。こてつ無しでも恐ろしく強い。
それでもわざわざ研修の、しかも、ただのデモンストレーションでその切り札を明かすことに悠貴は甚だしい違和感を覚えた。究極的には自らの命だって懸かっている、少なくとも自分がなつみの立場だったら、たとえ手塚教官に負けることになるとしても従者のことは隠し通すだろう。
「そうまでして……、手塚教官に勝ちたかったのか?」
悠貴にそう問われたなつみは明後日の方を向き、一拍置き、表情を変えて悠貴を見返し、
「そうまでして、勝ちたかったのよ」
と低く、静かに言った。
「あー、さっきの猫さんだぁー!」
悠貴が声のした方に振り向く。聖奈が駆け寄ってくるのが見えた。後ろにゆかりの姿も見える。荷物からして2人も露天風呂に行って来たのだろう。
こてつは聖奈に向かって飛んでいった。聖奈の周りを飛び回り戯れる。
「はわわわ……、じ、従者……。あんな炎を出されたら、わ、私なんて一瞬で黒こげにされちゃいますね……」
と、恐る恐るこてつに近寄るゆかり。がぉー、とふざけてゆかりを威嚇するこてつ。ひぇ、と変な声を上げてゆかりが慌てふためく。聖奈がその側できゃっきゃとはしゃいでいる。
その光景に目を細める悠貴。なつみに目を戻す。なつみはじっと真っ直ぐに中空を見据えていた。
「なつ?」
と悠貴が声を掛ける。なつみは悠貴を一瞥し、
「そうまでして、勝ちたかったのよ」
と、呟くようにもう一度繰り返した。
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