第74話 色々
目を覚まし、体の感覚がはっきりとしてくるに従い、喉が、地味だが、無視はできない程度に痛んでくる。
しまった、と思った悠貴はむくりと起き上がり、書卓の上に置いてあったペットボトルに入った水を飲む。冬の空気に空調が加わって生み出される乾燥に自身の喉が弱いことを自覚しているが、昨日は研修が始まった高揚感に浮かされて対策を怠ってしまった。
もう一度、水を口に含み、喉に染み渡らせるようにゆっくりと流し込んでいく。少しは楽になったような気がして悠貴は静かに息を吐く。
ベッドの脇に置かれたナイトテーブル。その上に小さな時計が置かれていた。昨日の夕食の時に伝えられた今日の朝食の集合時間にはまだ時間があった。
窓を開けると、夜が明けた冬の澄んだ空気が入ってきた。室内に入り込む空気は冷たかったが、不思議と寒いとは思わなかった。
研修施設と外の世界を隔てる塀の、更にその向こうに聳える山々。その山々が描く稜線から昇ったばかりの朝陽。
その景色を見ていた悠貴は外へ出てみたくなった。顔を洗って身支度を整える。研修中は原則ローブを着用するように、という規則を思い出し、クローゼットにかかっていた研修生用のローブを手に取り、部屋を出る。
ローブを羽織りながら廊下を少し進む。鍵をかけてなかったことに気付き、慌てて戻るが鍵は閉まっていた。オートロックだったのか、とほっとした悠貴だったが、鍵は……、と一瞬ドキリとした。ローブのポケットをまさぐる。指先に触れた鍵に安堵した。
研修期間中は施錠に気を使わなくてもいいと分かり気分が軽くなる。
悠貴は改めて廊下を進んで階段を下り、1階のロビーに出る。案内を辿り、演習場方面へ抜ける出口を見つける。
外へ出る悠貴。辺りを少し散策し、そのまま朝食へ向かおうと思って部屋にあったローブを羽織って来たが、それでも凍える。
(流石に……散歩は無理だな……)
そう思い、建物の中へ戻ろうかとも思ったが演習場のある方から目を離せない。
目線の高さからは、部屋の窓から見えていた演習場は見えない。しかし、目の前のこの道を進んだ先にあの演習場があると思うと、上から眺めたときよりも実感が湧いてくる。
悠貴は右手を握り締める。そして、掌を開き、そこに魔法で小さく風を起こす。
血が、沸き立つ。
事前に配布された資料、好雄や優依の話から何度も想像した。それが現実となる場を目前にして、高揚する気持ちが押さえられない。
逸る気持ちを落ち着かせようと悠貴が深呼吸をしたとき、背後から掛けられた声があった。
「あれ……、もしかして、羽田……悠貴さん、ですか?」
突然自分の名前を呼ばれた悠貴。右手に呼んだ風の魔法を散らせ、振り向く。悠貴と同じように魔法士のローブを羽織る若い男が立っていた。両手で大きな段ボール箱を抱えている。
悠貴は同期の研修生かとも思ったが、すぐにそうではないと分かった。ローブが研修生の仕様ではなかった。何よりも顔に見覚えがあった。昨日、自身の個室の番号を伝え、鍵を渡してくれた男だった。
戸惑いながらも、そうです、と悠貴が返すと男は破顔し、抱えていた段ボール箱を足元に置き、悠貴に近づいた。悠貴が自分よりも年下だとにらんでいたその男の顔は笑みを浮かべると更に若く、幼く見える。
「あー、やっぱりそうだったんですねっ。昨日、研修生の名簿の写真とお顔を見て、あぁ、あなたが……、って思ったんですよー。よっしーさんから聞いていた通りの人で」
よっしーさん……、昨日初めて会ったばかりの男の口から出てきた、その第三者の名前は、容易には悠貴の中のその友人の名前と結び付かなかった。
「あ、す、すみません! いきなり捲し立てちゃって……。小村侑太郎っていいます。好きに呼んでくださいっ。あ、ちなみによっしーさんとか優依さんは僕のこと、ゆたろーって呼んでますよー」
ゆたろー……、その呼び名に悠貴は聞き覚えがあった。好雄から新人研修の話を聞いたときに何度か出てきた名前だった。確か、好雄と優依と同じグループだった双子の姉弟の1人……。
悠貴の中で話がつながり、確信は持てないが恐らくそうだろうと思い、
「あ、よっしーさんって、もしかして……。じゃあ、好雄と研修で一緒だった……」
と、尋ねると侑太郎は、
「そうですそうです! よっしーさんから悠貴さんが今回の研修に参加するって聞いてはいたんです。ホントは直ぐに自己紹介したかったんですけど、昨日は研修生の皆さん方の誘導とかあったので……。今日こそはどこかのタイミングでお話し出来たらって思ってたんです。ていうか、よっしーさん、僕がいるってこと、悠貴さんに話してなかったんですね……」
と、最後の方は好雄を冗談めかして責めるような口調で返した。
(好雄の奴……、研修の前に駅まで見送りに来たんだし、教えておいてくれても良かっただろ……。まあどうせ、「あ、わりぃ、忘れてた!」の一言で片付けるに決まってるんだろうけど……)
好雄への苦情は帰ってからのことだと軽く頭を振って気を取り直す悠貴。
「そうだったんだな、改めて、宜しく! 好雄の知り合いがいるなんて心強いよっ。あ、でも、魔法士としては先輩なんだし、それに研修の運営してるスタッフでもあるんだし、呼び捨てで、普通に年下として接するってのも……」
そう悠貴は言い淀んだが、侑太郎は大きく首を横に振って答える。
「いえいえ! 全然気にしないで下さい! 普通にゆたろーで大丈夫です。それに、確かに研修の手伝いには来てますけど、ただのバイトみたいなものですからっ」
侑太郎はその辺りの経緯を悠貴に語った。研修の運営自体は法務省が行う。が、あくまでそれは建前だった。研修の内容にしても指導にしても、そもそも魔法が使えなければ話にならない。魔法士であり、かつ法務省に役を食む者もいないではないが、圧倒的に数が少ない。現場の運営は経験を積んだ先輩の魔法士が行っているのが実際のところだった。
「バイトでも何でも、こうやってわざわざ研修にスタッフとして参加出来てるなんて、ゆたろーは優秀なんだな」
驚いたような反応をして侑太郎は必死に悠貴の言葉を否定する。
「違います違います! 自分はただ前に研修でお世話になった人に手伝ってくれって頼まれただけで。本当に優秀な人はグループの教官として呼ばれてますから……。僕はただの雑用係ですよ」
はは、と乾いた笑いと共に発した侑太郎の息は白い。朝の空気が辺りを満たす。周囲に人の姿も目立つようになってきた。悠貴と同じように外の空気を吸いに来る研修生。他にも、施設の職員が往き来している。
それに、という言葉に侑太郎は続けた。
「よっしーさん、言ってましたよ、悠貴さんのこと。あいつは強い、強くなる、って。えっと、大学のサークルの合宿で……でしたっけ、森で魔獣を倒したらしいじゃないですか、それ、実はスゴいことなんですよ?」
森で相対した異形の獣。目の前の侑太郎はそれを魔獣と呼んだ。森での一連の出来事を思いだし悠貴は震えた。木に叩き付けられた痛みはまだはっきりと覚えている。
その悠貴の様子に侑太郎は、
「ああ、寒いですよねっ、すみません、こんな所に長居させちゃって……。中へ戻りましょう。そろそろ朝食が出来てる頃ですよ。あ、僕もこれ、教官室に配って回らなきゃいけないんでした!」
自分が仕事の途中だったことを思い出した侑太郎は急いで段ボールを持ち上げる。
建物の中へ戻ろうとする侑太郎に、
「ゆたろーはさ……、自分のときは、その、何て言うか、研修、どうだった?」
と、悠貴は尋ねた。答え方に困るような聞き方をしてしまったかと悠貴は思ったが、尋ね直すことはせずに答えを待つ。
立ち止まった侑太郎。振り返り、少し複雑な表情を浮かべた。そして、視線の先を悠貴から、悠貴の後ろに広がる景色に移した。
悠貴も侑太郎に倣ってその景色を見る。
雪寄せがされている、演習場へ続く道。
白紙に一本の線を引くようにしてその道は景色の奥へ続いていた。更にその奥、雪の白さとは僅かに、しかし確かに異なる白い色をした塀が左右に広がっている。塀の背後の山々、冬の抜けるような青空……。
侑太郎はその景色から目線を逸らさずに悠貴の問いに、こう答えた。
「色々、ありましたよ……が僕の答え、ですかね。──良かったことも、そうじゃなかったことも」
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