この世界のトイレ事情 その1
◇ヴェイン・ラ・ラドランシュ
コンコン
「ミランジェ、そろそろ出ないと間に合わなくなりますよ」
「……嫌です」
「何が嫌だというのです。ぜひ出席したいと言ったのは、ミランジェでしょう」
「……ごめんなさい、お母様。……でも、でも、……グスッ」
母が困ったように僕の顔を見て来た。そして囁き声で僕に言った。
「ヴェイン、あなたからも呼び掛けて頂戴」
「もちろんです、母上」
僕は一度息を大きく吸うと吐き出してから、先ほどの母みたいに扉を叩いた。
コンコン
「ミランジェ、ロックウォール伯爵家のお茶会に間に合わなくなるよ。可愛く着飾ったんだよね。その姿を僕に見せて欲しいな」
そう声を掛けたら部屋の中で「ワッ」と、泣き出す声が聞こえてきた。母と僕は顔見合わせて困惑の表情を浮かべたのだった。
お茶会に行くために新しいドレスを着れると、ミランジェはとても喜んでいた。それなのに着替えが終わると侍女たちを追い出して、自室に鍵をかけて閉じこもってしまったんだ。いくら呼び掛けても出てこようとしない。それどころか、泣き出してしまうなんて。
結局、ミランジェは体調がすぐれないことにして、僕と母と二人でお茶会に出席をすることにしたのだった。
さて、お茶会も終わり邸に帰ってきて普段着に着替えた僕は、ミランジェの部屋の前に来た。邸の者に聞いたけど、やはりミランジェは部屋から一歩も出てこなかったそうなんだ。
コンコン
「ミランジェ、ヴェインだけど」
「……お兄様?」
返事をもらえてホッとする僕。
「そうだよ。えーと、大丈夫かい? どこか、具合が悪いのかな~。お医者様を呼んだ方がいいかい?」
しばらく返事がなかった。
「お兄様、お一人ですか?」
扉越しとはいえ、近いところから声が聞こえてきた。どうやら、先ほどとは違い、扉のそばまで来ているみたいだ。
「そうだよ。僕だけしか、ここにはいないよ」
カチャ
鍵が開く音がして細く扉が開いて、ミランジェが覗くように見てきた。僕が微笑んだら、ゆっくりと扉が大きく開いた。
「入ってください、お兄様」
僕が部屋の中に入ると、ミランジェは素早く扉を閉めて、また鍵をかけてしまった。そしてソファーのところに歩いて行くとそこにストンと座った。扉のそばに立ったままの僕に手招きすると、向かいに座れと示して来た。
やれやれと思いながら、僕はミランジェの言う通りに向かいに座った。
「ミラ、いくら二人だからって、その態度はないだろう」
僕の言葉にミランジェはむうっとして、頬を膨らませた。
「いいじゃない、令嬢ぶりっ子は大変なのよ。お兄様の前でくらい、気を抜いたっていいでしょう」
「いや、その豹変ぶりはどうかと思うんだけどさ。それに俺らが記憶を思い出して、まだ十五日だろ。というか、お互いに前世の記憶持ちだとわかってから、まだ五日しか経ってないだろ」
苦笑をしながら言ってやる。
「お兄様だって、私と二人だと言葉が怪しいじゃない」
「まあ、そこはそれだろ。でもミランジェ、この世界でちゃんと貴族らしく生きていくって決めただろう。なのに、さっきのあれはなんだい?」
むくれて文句を言ってきたミランジェに注意をしたら、途端に目に涙が盛り上がってきたのが見えた。
「だって、だって~」
と言って、シクシクと泣き出した。その様子に俺は目をぱちくりと瞬いた。
「一体どうしたんだよ、ミラ。泣くほどのことって、何があったんだよ」
そういったらキッと睨むように俺のことを見てくるミランジェ。一瞬、目力強いなと、思ってしまった。
「じゃあ、先にお聞きしますけど、お兄様は用を足すときにはどうなさっているんですか」
「用? 用って?」
言われたことの意味が解らなくて、また瞬きを繰り返した。
「おし……トイレのことですわ!」
いま、おしっこって言おうとしたよな?
頬を真っ赤にして、目線を逸らしていうミランジェは……かわいいじゃないかー。
は、置いておいて、トイレ?
「えーと、用を足すための部屋があるよな」
「ええ、あります。……けど、どういう風になさっているのか、お聞きしているんですの!」
その言葉にピンとくるものがあった。
「えっと、まさかなんだけど、その~、女性も用を足すのは……壷……なのか?」
その言葉にミランジェの顔はもっと真っ赤になった。えっ? 本当に?
「えーと、それじゃあ、お茶会に行きたくなかったのって、そのせいか?」
そうしたら今度は顔色が青く変わった。一度引っ込んだ涙が、みるみる盛り上がってきた。
「私、社交なんてしたくありません!」
そう叫んで、ソファーの腕置きのところに倒れるようにして、泣き出した。今度はすぐには泣き止みそうになかった。俺はそっと扉へと行って鍵を開け、離れたところから心配そうに見ている侍女を呼び、お茶の支度を頼んだ。
侍女が茶器を持って部屋に入り、お茶を入れたら部屋から出ていってもらい、また鍵をかけた。
音で分かったのかミランジェが顔を上げたから、「喉を潤そう」と俺は言ったのだった。




