『先代旧事本紀』
お待たせ致しました。
ちょっと力が入ってしまいました。
『先代旧事本紀/著者不明(興原敏久説あり)』
大同二年(八〇七年・引用元である『古語拾遺』成立)~承平六年(九三六年・講師の矢田部公望が書名を口にしたとされる承平の日本紀講筵)までの間(平安時代・平城天皇の頃から朱雀天皇の頃)には成立。――ただし、成立年の下限については、「本文が引用された」=「既に書籍が成立していた」と定義するならば、『令集解』(八五九年~八七六年編纂)の注記に本文が引用されていることを理由に「八七六年まで」に成立した、あるいは穴太内人が個人的に著した「令」の注釈書である『穴記』(八一〇年~八三三年成立)に本文が引用されていることを理由に「八三三年まで」に成立した、と考えることもできる。
著者の手持ちの資料であった「物部氏関係の系譜を主とする記事」「尾張氏関係の系譜を主とする記事」「諸国の国造についての記事」に、『日本書紀』『古事記』『古語拾遺』の本文を切り貼りして仕上げられたとされる史書かつ神道の根本経典。全十巻。『旧事紀』・『旧事本紀』とも。
ちなみに全十巻の出典は概ね以下の通り。
(巻一)『日本書紀』『古事記』を混ぜ合わせ、『天書』も参考にしたもの
(巻二)『日本書紀』『古事記』を混ぜ合わせ、『古語拾遺』も参考にしたもの
(巻三)『日本書紀』『古事記』『古語拾遺』を混ぜ合わせたもの
(巻四)『日本書紀』『古事記』を混ぜ合わせたもの
(巻五)「物部氏関係の系譜を主とする記事」「尾張氏関係の系譜を主とする記事」に『日本書紀』『古語拾遺』を混ぜ合わせたもの
(巻六)『日本書紀』『古事記』を混ぜ合わせたもの
(巻七)『日本書紀』『古事記』『古語拾遺』を混ぜ合わせたもの
(巻八)『日本書紀』からの抜粋
(巻九)『日本書紀』からの抜粋
(巻十)「諸国の国造についての記事」を付け加えたもの
延喜四年(九〇四年)~承平六年(九三六年)の間に矢田部公望によって添加されたとみられる序文のせいで、書籍の存在全体にまで偽書説が及んでしまったため、神道古典の一つとしての方が尊ばれている。なお、書名の名付けのタイミングには、「本文が完成した時点」説と「序文が添加された時点」説とがある。
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「推古二八年(六二〇年)三月に推古天皇の命を受け、聖徳太子と蘇我馬子の共撰によって推古三〇年(六二二年)二月に完成した」とする序文から、長年『古事記』(和銅五年(七一二年)成立)よりもさらに古い「最古の歴史書」として長年尊ばれてきた『旧事本紀』。――当時は『旧事本紀』の本文こそが本家で、『日本書紀』『古事記』『古語拾遺』はそれぞれ「引用した側」という扱いを受けてきたというから驚きです。
江戸時代に入るとまずは水戸藩の研究によって「推古三〇年(六二二年)」という成立時期が疑われるようになります。さらには国学者・多田義俊の研究によって、『旧事本紀』そのものが偽書扱いされてしまうように。ただし、当時の研究者界隈が偽書説一色に塗り潰された、というわけではなったようです。以下、四つの立場と代表者を紹介しておきます。
(一)神道古典として尊重する立場(新井白石など)
(二)偽書として一切の史料価値を認めない立場(多田義俊など)
(三)偽書と認めながらも、史料として一定の価値を認める立場(本居宣長など)
(四)史料価値を過大に評価し、擁護する立場(橘守部など)
明治時代に入ると、御巫清直(『先代旧事本紀析疑』)によって「結局、偽書説の元凶は序文にあって、序文さえ切り離してしまえば、『旧事本紀』自体は偽書とまでは言えない」という、決定打とも言うべきスタンスが打ち出されます。
これを受けて現代では、『旧事本紀』(序文なし)に対する評価は完全に安定したそうです。――「『日本書紀』『古事記』に比べ、その史料価値ははるかに劣る」という残念な評価ではありますが。
◆
それでも。
序文と本文とを切り離して考えるというスタンスが定説化したことで偽書説を乗り越えた(と思われる)現代では、『旧事本紀』の本文は、「平安中期以前の時点での、『日本書紀』『古事記』の誤字の少ない本文を残す資料」として一目置かれるようになっているんだとか。
一周回って落ち着くべきところに落ち着いた、と思うべきなのかも知れません。
『先代旧事紀』は分類上は確かに「史書」なんですが。
歴代の歴史書たちは一貫して「作中から『日本書紀』に関する歴史的記述を探し出してみた」というアプローチだったのに対し、今回だけは「(歴史とは何ら関係のない)『日本書紀』活用編(物は言いよう)の草分け的存在を紹介してみた」といったアプローチにならざるを得ず、違和感が抑えきれませんでした。




