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日本書紀本文神話を愉しむ  作者: 村咲 春帆
正史篇
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『日本三代実録』

正史篇に『日本文徳天皇実録』の項がないのは、『日本書紀』的には正しいのです。たぶん。

日本三代実録にほんさんだいじつろく藤原時平(ふじわらのときひら)大蔵善行(おおくらのよしゆき)ら』


 延喜元年(九〇一年)八月九日(平安時代・醍醐天皇の頃)成立。


 源能有(みなもとのよしあり)(文徳天皇皇子・宇多天皇の従兄)・藤原時平(ふじわらのときひら)(北家・藤原基経の長男)・菅原道真(すがわらのみちざね)(菅原是善の三男。言わずと知れた天神様)・大蔵善行(おおくらのよしゆき)(漢人系渡来氏族。政・学界に多数の門下を抱える私塾経営者。道真を激しくライバル視。地仙)・三統理平(みむねのまさひら)(大蔵善行門下の一)が、宇多天皇(光孝天皇第七皇子)に命じられて編纂が開始された勅撰史書。六国史の第六にあたる。全五十巻。漢文表記の編年体で、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇の三代三十年間、延喜元年(九〇一年)までを扱う。



 左右大臣を押し退け、異例の大抜擢で撰国史所総裁を務めたという、名が体を表わしまくりのハイパー源氏・源能有の薨去でいったん中断した『日本三代実録』。

 能有薨去の後は、自らが一門の切り込み隊長として華々しく出世街道を突き進んでいた菅原道真と、自らは道真&菅原一門を失脚させるまで出世に恵まれず、私塾経営にむしろ力を注いでいた大蔵善行の共著状態であったであろう六代目『日本三代実録』。

 五国史の伝統を受け継ぎ、日本史の研究史料を集成するのが目的の『国史大系』以外の全集、日本の古典「文学」を対象とした全集には案の定お呼びではない『日本三代実録』ですが、年中行事などのイベントや慣行についての記載がやたら詳しいことや、当時の読者層(官人)の内情などを鑑みれば、歴史書というより実用書、それも『小右記』や『権記』に代表されるような「日記」に近い存在なのかも知れません。



 さて。

 『日本三代実録』の中で『日本書紀』絡みの記事といえば、勿論「日本紀講筵(にほんぎこうえん)」に関する記述。読み始めの「元慶二年(八七八)二月二十五日(巻三十三)」の条(陽成天皇の御代)と、再開した「元慶三年(八七九)五月七日(巻三十五)」の条(陽成天皇の御代)、読み終わりと打ち上げをまとめて記事にした「元慶六年(八八二)八月二十九日(巻四十二)」の条(陽成天皇の御代)です。


・読み始め

 (元慶二年二月)二十五日。(当時政治の中心であった)宜陽殿の東廂にて、従五位下(五位の下の下)の位階にありながら格下(七位の上の下相当)の助教(じょきょう)を務めていた善淵愛成(よしぶちのちかなり)に命じ、従五位下(五位の下の下)の位階にありながら格下(七位の上の上)の大外記(だいげき)を務めていた(六国史の第五にあたる『日本文徳天皇実録』の編纂者の一でもある)嶋田良臣が(講師の補佐役である)都講(とこう)役となって、日本紀を読み始めた。摂政右大臣(である藤原基経)以下参議以上の者は、聴講してその解説を受けた。

「(元慶二年二月)廿五日辛卯。於宜陽殿東廂、令従五位下行助教善淵朝臣愛成、始読日本紀従五位下行大外記嶋田朝臣良臣為都講。右大臣已下参議已上、聴受其説。」


・再開

 (元慶三年五月)七日。従五位下(五位の下の下)の位階にありながら格上(五位の下の上相当)の図書頭ずしょのかみを務めていた善淵愛成に命じて、(当時政治の中心であった)宜陽殿の東廂にて日本紀を読ませた。明経紀伝生の三、四人を呼んで(講師の補佐役である)都講(とこう)役とした。大臣以下毎日講筵を開いて読む。前年読み始めて、途中で取りやめになっていた、それでさらに読むことにする。

「(元慶三年五月)七日丙申。令従五位下守図書頭善淵朝臣愛成、於宜陽殿東廂、読日本紀。喚明経紀伝生三四人為都講。大臣已下毎日便開読。前年始読、中間停廃、故更読焉。」


・読み終わりと打ち上げ

 (元慶六年八月)二十九日。侍従局の南にある右大臣(源多(みなもとのまさる))の曹司にて、日本紀講筵の打ち上げの席を設けた。去る元慶二年二月二十五日、(当時政治の中心であった)宜陽殿の東廂にて、従五位下(五位の下の下)の位階にありながら格下(七位の上の下相当)の助教を務める善淵愛成に、日本紀を読ませた。従五位下(五位の下の下)の位階にありながら格下(七位の上の上)の大外記を務める島田良臣及び文章明経の得業生であった学生が、(講師の補佐役である)都講(とこう)を互いに務めた。太政大臣(となった藤原基経)、右大臣(である源多)及び諸公卿が並んでこれを聴講した。元慶五年二月二十五日に講筵が終わった。ここに至って、「澆章(ぎょうしょう)(えん)(と呼ばれる打ち上げの宴会)」を致すこととし、親王以下五位以上はことごとく出席した。『日本紀』の中から天子の徳を持った帝王や有名な家臣たちを抜き出すと、太政大臣以下、歌を披露する席に関わる六位以上に割り当てて、それぞれが和歌を作った。この他の者は当日、()を探ってこれを作った。琴の音と歌声とがしばしば一つになり、歓んで酒を飲み、一日を終えた(日の光が終わった)。博士及び都講は、賜る物に差があった。五位以上は内蔵寮(くらりょう)の綿を賜った。行事官の外記史も(それに)ありついた。

「(元慶六年八月)廿九日戊辰。於侍従局南右大臣曹司、設日本紀竟宴。先是、元慶二年二月廿五日、於宜陽殿東廂、令従五位下助教善淵朝臣愛成、読日本紀。従五位下大外記島田朝臣良臣及文章明経得業生学生逓都講。太政大臣(基経)右大臣(源多)及諸公卿並聴之。五年二月廿五日講竟。至是、申澆章之宴、親王以下五位以上畢至。抄出日本紀中聖徳帝王有名諸臣、分充太政大臣以下、預講席六位以上、各作倭歌。自余当日探史而作之。琴歌繁会、歓飲竟景。博士及都講、賜物有差。五位以上賜内蔵寮綿。行事外記史預焉。」


 『続日本紀』の頃には四位だの五位だのといった貴族的常識で考えれば「普通の貴族(むしろ底辺かも? 清少納言によれば「殿上を許されていない貴族なんて人の数には入らない」そうですからね)」が細々と嗜んでいたはずの「日本紀」が、六国史の第五にあたる『日本文徳天皇実録』(一代八年間)からは『日本書紀』の「に」の字も見つけ出すことができなかった「日本紀」が、いつの間にやら大出世して太政大臣を頂点とした官人ヒエラルヒー内に於ける実用的な読み物に化けていてびっくり。


 享受史から見た時に、この方向転換はどんな意味を持つのか。


 密かに気になるところです。

 延喜二年(九〇二年)以降も、「日本紀講筵(にほんぎこうえん)」は細々と、三十年おきくらいのスパンで康保二年(九六五年)まで行なわれているようなのですが、先に正史の方が尽きてしまいました。――だって、『新国史』が成立しなかったんだもん。

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