4 繋ぐ未来
鏡に映った自分の姿を見て、巴愛はひっそりと笑みを浮かべた。純白の和服。古来の日本では白という色を神聖なものとして扱ってきたという、その考え方は今にも通じている。
典型的な白無垢。葵生と他数名の侍女がお化粧してくれて、途中から奈織と蛍も手伝いに来てくれた。そうしてこの衣装に袖を通し、すっかり準備は整っている。
ウエディングドレスにも憧れていたけど、こういうのもいいなあ、としみじみ考える。ドレスは玖暁にとって異国の文化だから、それは叶わぬ夢だ。皇の婚礼の儀ともなれば、まさか異国式の結婚式を挙げるわけにもいかない。君の望む形ではないかもしれないけれど、と真澄は申し訳なさそうに言っていたが、巴愛はこれで大満足だ。
神前挙式というのは神主の先導で境内を回るというのが一般的だったが、必ずしも神社で行うというわけではない。日本でも、神前式を行える結婚式場やホテルはあるのだ。まあ、そんな風に思っていればいいだろう。
「お綺麗でございますよ、巴愛さま」
葵生がにっこりと微笑んだ。巴愛は振り返り、後方に佇む葵生を見た。
「有難う、葵生」
「咲良姉さまにも、お見せしとうございました。姉はいつも、巴愛さまのことを我がことのように自慢しておりましたから」
咲良の名が出て、巴愛が目を見開く。咲良は昴流ほど頑なではなく、異母兄弟たちとも普通に交流していた。なかでも妹たちのことは、可愛がっていたそうだ。
「いつか巴愛さまが兄皇陛下と結ばれるときには、自分が巴愛さまを最高の晴れ姿にさせてあげるのだと、そう申しておりました」
「咲良さんが、そんなことを……?」
「はい。私と会う時の口癖のようなものでした」
葵生の微笑みは、ただただ優しい。ここで辛そうな顔をしたら、幸せな日であるはずが暗い気分になるからだ。
「その願いは叶いませんでしたけれども……及ばずながら、私が姉の代理を務めさせていただきました。きっといま、天にいる姉も満足であると信じております」
「……うん。あたし、すごく幸せ。これからはもっと幸せになる。咲良さんがくれた未来だから」
あの時、咲良が――咲良が囮にならず、昴流と三人で逃げたらどうなっていただろう。全員で死んでいたかもしれない。考えたくはないが――咲良は自分の身を犠牲にして、巴愛と弟を守った。今は、咲良が生かしてくれた命を大事にしたいと思える。
と、扉がノックされた。葵生が応対すると、彼女はすぐこちらを振り返った。
「巴愛さま、兄皇陛下がお見えです」
「えっ!?」
驚く間もなく、真澄がひょっこり顔を出す。入れ違いで葵生は部屋から出て行き、室内には二人きりになった。真澄は羽織袴を身につけていた。いつもの簡素な和服ではなく、きちんとした正装だ。その証拠に、金色で小さく鳳凰の刺繍が施されている。鳳祠家の服だろう。しかしこうしてきっちりとした恰好をしていると、なんだか別人のようだ。
「すごい、真澄さま、ちゃんとした格好してる……」
思わずそう呟くと、真澄が吹き出した。
「なんだ、ちゃんとした格好って。まるで俺がいつもふざけているみたいじゃないか」
「あ、ごめんなさい。そういう意味じゃなくて……」
「ふふ、分かっているよ。自分でも、こんなきちんとした服を着るのは久々だと思っているからな」
真澄は椅子に座っている巴愛に手を差し出した。その手を取ると、ゆっくりと立ち上がる。そうしてじっと巴愛の姿を見ている。さすがに気恥ずかしくなった巴愛が視線を逸らした。
「ど、どうしたんですか、真澄さま……あたしの顔、なんかついてます?」
「……いや。いつも以上に、綺麗だなと思って」
「……!」
「だが、『綺麗だ』という言葉以上のものが思いつかなくて……語彙が少ないと不便だな、とにかく、最高だ」
そういえば、褒め殺しの真澄が室内に入ってきて巴愛の恰好について何も感想を述べなかったのは、確かに珍しいと思っていた。どうやら、言葉を探しても見つからなかったらしい。
真澄が巴愛を抱き寄せた。ふんわりと、とても優しく。
「巴愛。今、君にもう一度誓う。俺は君だけを愛し、君を幸せにする」
その言葉に、巴愛は微笑む。
「あたしも……真澄さまだけを愛し、貴方と一緒に幸せになります」
真澄はそっと巴愛の髪の毛に口づけた。化粧が落ちないようにであって、本当はちゃんとキスしたかったのであろう。
「――行こう。みなが待っている」
「はい!」
巴愛は真澄に手を取られ、ゆっくり歩き出した。
★☆
婚礼の儀は滞りなく進んだ。新郎と新婦の父が両家族を紹介して顔合わせ、というのは省略されていた。何せ、家族というのは知尋だけなのだ。――と、そう思ってから、これから知尋とは家族になるのだと改めて実感した。今までも半同居状態だったので今更だが、親戚関係が生まれるというわけだ。旦那の双子の弟は、巴愛にとってもやっぱり弟なんだろう。「うわあ」と、悪寒が走ってきそうだが、これは仕方がない。知尋のことだからいずれ「私は巴愛の弟ですから」みたいなことを平気で言うようになるのだろう。
そしてようやく、披露宴へと移った。巴愛は白無垢から鮮やかな色打掛へ着替え、真澄のほうももう少し簡素な和服になっていた。列席している大物たちの顔――具体的には国内貴族に彩鈴、青嵐両国の代表者、さらに名も知らぬ外国の偉い人、そして大勢の騎士――を見て、巴愛の緊張がピークに達したのは言うまでもない。
披露宴の式次第は巴愛が知るものと大差ない。司会進行をまさか宰相の矢須が務めているのには驚いたが。その矢須に主賓として祝辞を求められた狼雅は渋い顔をしながら立ち上がる。こういうことは苦手なのだろう。一応他の出席者に礼をしてから、口を開く。
「あー……まあその、なんだ。お前ら、お似合いだよ。おめでとさん」
そのなんともいい加減な祝辞に、狼雅の人となりを知らない貴族たちは眉をひそめたものだが、真澄が思わず笑ってしまったので事なきを得た。そのあと狼雅が黎にこっぴどく説教されていたのは、言うまでもない。
食事に移ったあと、真澄と巴愛は来賓の人々の元へ挨拶に行った。誰もが今回の結婚を祝福してくれて、かつては真澄に娘を嫁がせようとしていた貴族たちも、納得をしていたようだ。これで路線変更して、知尋に貢ぐようにならなければいいが、と真澄は苦笑していた。
そうしてようやく、一番親しい仲間たちが座るテーブルへと向かった。陽気な奈織と宙が拍手し、瑛士と奏多がそれに乗っかる。李生と黎、蛍、狼雅、そして知尋と昴流も笑顔を見せてくれた。
ひとしきり話をすると、真澄がふとテーブルの足元に視線を下ろした。そこには邪魔にならないように、大きなバッグが置かれていた。その傍に座っているのは宙だ。
「宙、この大きな荷物はなんだ?」
「あ、ごめん、こんなところまで持ち込んじゃって。実はさ、式が終わったらそのまま蛍と旅に出ようと思うんだ」
衝撃的な報告に、真澄と巴愛はぎょっとした。
「そのまま旅に? 慌ただしいことだな……」
「まあね。でも俺は青嵐に戻ったらまた兄さんの使いっぱしりにさせられちゃうし、蛍も一族に集落から出るなって言われているらしいんだ。これを逃したら、いつ約束を果たせるか分からないんだよ」
巴愛が瞬きをする。
「それって要するに、駆け落ち……?」
宙は無言で、にやりと笑っただけだ。こんなにも堂々と駆け落ち宣言する人間はいないだろう。しかも逃げる対象が、宙の真横に座っているのに。
「一年だ。きっちり一年で戻ってくる。そうしたら俺は、青嵐からの交換武官として玖暁に行くよ」
宙の言葉に、真澄は微笑んで頷いた。
「ああ、待っているぞ」
宙と蛍が帰ってきたとき、二人の関係はどうなっているのだろう。それを想像した巴愛は、一年後に会えることを楽しみに思った。
「……僕からもよろしいですか?」
そう口を挟んだのは昴流だ。昴流は立ち上がると、巴愛の真正面に立つ。
「まずは……ご結婚おめでとうございます。末永くお幸せに」
昴流が微笑むと、巴愛も嬉しそうに頷いた。
「うん、有難う、昴流」
その笑顔を見ると、胸の奥にちくりと痛みが奔るのを昴流は感じる。「ずっと前から好きでした」――そんなことが言えたら、どれだけ――いや、そんなことを考えては駄目だ。
「本日付で、僕は騎士団部隊長に昇進しました」
「え、今日?」
「はい。今日、もっと言うと今このときから、です」
ずっと部隊長昇進が内定状態だった昴流だが、この真澄と巴愛の婚礼の儀という日から、「小瀧隊」が発足するのだ。
「部隊長就任にあたって、僕は兄皇陛下と御堂団長に誓約申し上げたことがあります。それを、巴愛さんにも誓います」
昴流は言うが早いか、巴愛の前に跪いた。それは皇に対する正式な礼である。驚いた巴愛が真澄を見やると、真澄は静かに頷いた。巴愛は視線を昴流に戻す。
「この私、小瀧昴流は、騎士としての剣を鳳祠巴愛さまに捧げ、貴方さまにのみ忠誠を誓います」
「え……?」
「小瀧隊は、貴方さまをお守りする盾として集められた部隊です。何においても、必ずお守りします」
玖暁という国でもなく、皇にでもなく、巴愛「個人」に忠誠を誓う。皇妃となる巴愛のための親衛隊――それが昴流の隊ということだ。国家組織に属する自分が、誰かひとりに忠誠を誓うというのは、本当はいけないことだ。だがそれでも、他に巴愛を守る手立てはなかった。本来皇妃というのは、玖暁の中でも指折りの貴族の娘が選ばれるものだ。必然的にその家族が皇妃の後ろ盾となり、彼らはかなりの私兵を有していている。だが巴愛は天涯孤独の身。彼女は自分の「部下」や「臣下」と呼べる存在を持っていないのだ。それは、いざという時に困る。もっとも、強大な兵力を有しているだけに皇妃が暴走――というのがよくある話だが、巴愛に限ってそんなことはないだろう。
唖然として言葉がない巴愛に、頭を垂れたまま昴流はくすりと笑った。顔を上げて巴愛を見る。まだそういう指示を出すことに巴愛が不慣れだということは昴流も分かっていたが、きちんと誓いをしたかったのだ。
「――ま、要するに。これからもよろしくってことです」
巴愛ははっと我に返り、昴流に手を差し出した。一瞬ためらった昴流だったが、その手を取って立ち上がる。巴愛が微笑んだ。
「こちらこそ……よろしくね、昴流!」
巴愛はそこまで複雑で、厄介な世界に放り込まれたと思っていない。それでもいつか嫌でも気づく。その時まではせめて――いや、それ以降も、僕は今まで通り忠実な護衛役でいたい。昴流は切にそう願った。公の場以外で皇妃さまと呼ぶことは、きっとないだろう――。
披露宴は和やかに進行していった――。
★☆
時は流れ――。
「あ、ああちょっと殿下ッ! 走ったら転んでしまいますっ」
皇城の一角で、そんな小さな騒ぎが起こった。城門にとめられた馬車に向かい、まだよちよち歩きの幼児が一生懸命走って行く。その先には、丁度今馬車から降りたひとりの女性がいた。
「母さま!」
まだ三歳ほどの男の子は、そう呼びかけて女性の足にしがみついた。背の高い彼の母は驚いたように振り返り、そしてしゃがんで息子の頭に手を置いた。
「柚輝、お迎えに来てくれたの?」
「うん!」
「そう。ふふ、有難う。お留守番させちゃってごめんね」
柚輝と呼ばれた子供は、嬉しそうに笑って母に抱き着く。直前まで母親と話をしていた青年が、顔をほころばせた。
「ああ柚輝、ただいま。元気していた? 色々君のために、彩鈴名産の甘いお菓子を買ってきたから、あとであげるね」
「ほんと!? ありがと、叔父さま!」
「いえいえ、どういたしまして」
女性がびくりとし、困ったような顔になる。
「ゆ、柚輝……お願いだから知尋さまを『叔父さま』なんて呼ばないで……」
「どうしてですか、巴愛? 実際、私は柚輝にとっての『叔父』ですよ?」
「だ、だって、知尋さまは叔父さまと呼ぶにはあまりにも若すぎて、しっくりこないんですよ……」
知尋はまったく気にしていないようだ。巴愛が溜息をつくと、ひとりの騎士が駆け寄ってきた。
「もう、本当に足が速いんだから……!」
「昴流! ごめんなさい、柚輝のこと任せきりにしちゃって」
昴流は額の汗を拭うと、苦い笑みを浮かべた。
「いえ、そのことは大丈夫です。留守中、殿下は大人しくしていてくださいましたから……ただなんというか、最近僕の仕事が皇妃の護衛から皇太子のお守りになっているのは、気のせいじゃないですよね……」
そのことについては、巴愛も知尋もなんとも言えない。昴流は侍従としての経験からか、やたら赤ん坊慣れしていたのである。必然的に一番傍にいてくれる昴流にお守りを頼むことが増え、未来の皇である柚輝が昴流に懐いてしまったのである。
すると、遅れて馬車から降りてきたもうひとりの皇が、息子の姿を見て笑みを浮かべた。
「柚輝」
「ああっ、父さま!」
柚輝は一目散に父親のもとへ駆け寄った。ぶつかるような勢いで突進した柚輝を、父は軽く受け止める。
「おっと……なんだ、十日ばかり見なかっただけで、なんだか大きくなった気がするな。子供の成長は速いものだ」
「ねえ父さま、なんで僕も連れて行ってくれなかったの? 僕も『さいりん』行きたかった!」
そう言って頬を膨らませる息子に、真澄は微笑んだ。
「悪かった。だが次は必ず連れて行ってやる」
「いつ?」
「そうだな……次は冬に会議が開かれるから、その時までにお前が嫌いな人参を残さず食べられるようになったら、連れて行こう」
「ほんと? にんじん食べたら、連れて行ってくれるの?」
「ああ、約束だ」
柚輝が無邪気に喜ぶ。今回連れていけなかったのは、まだ三歳の息子には大山脈越えが辛いだろうと判断したためだ。しかし玖暁、青嵐、彩鈴の三か国の首脳が集まる親睦会に、叶うことなら幼い息子を連れて行きたかったというのも本心だ。
「兄皇陛下、宙は……?」
昴流が問いかけると、真澄はしゃがんだまま昴流を見上げた。
「ああ、宙なら無事青嵐に戻ったよ。二年ぶりに奏多と会ったはずなのに、あの兄弟は相変わらずだな」
今回の親睦会は同時に、交換武官として各国に派遣されていた騎士たちの帰還式でもあった。この二年交換武官として玖暁に来ていた宙も、役目を終えて青嵐に戻ることになったのだ。一年間の旅を終えた宙は一段と大人びていて、玖暁にいた二年の間にもぐっと大人らしくなった。剣の腕もみるみる上達し、指南役を任されていた高峰が思わずうなってしまうほどだったらしい。二年と言わずこのまま玖暁に残ってほしいな、と高峰は本気で勧誘していたが、二年という契約期間はとりあえず守らなければならないのでやむなく手放した次第である。
「ええっ、宙お兄ちゃん、帰っちゃったの!?」
そしてあの性格の宙が、柚輝と仲良くならなかったわけがない。玖暁出立の間際に宙が別れの挨拶をして、その時も泣いてしまったのだが、改めて帰ってしまったと知ってまた泣きそうになっている。巴愛が微笑む。
「大丈夫よ、必ずまた会えるから」
「そうだ。柚輝に会いに来ると、宙は言っていただろう。だから、泣いては駄目だ」
両親の言葉に、柚輝は必死に涙をこらえた。「偉いぞ」と真澄が頭をなでると、ひょいっと知尋が柚輝を抱き上げた。
「じゃあ柚輝、泣かなかったご褒美にお土産のお菓子を開けてあげるよ。部屋に行こうか」
「うん!」
その様子を見た真澄が立ち上がり、困ったように溜息をつく。
「……知尋。可愛がってくれるのは結構だが、甘やかすなよ?」
「さあて、どこまでが可愛がるで、どこからが甘やかすという領域なんでしょうねえ? でも、いいでしょう別に、お菓子くらい食べさせてあげても」
真澄は苦々しげにつぶやく。
「あいつは私たちが心を鬼にして躾けていることを、平気でぶち壊す奴だからな……」
「でも、最初は意外だったなあ。知尋さまが、あんなに子供好きだったなんて……」
巴愛の言葉に、真澄は肩をすくめた。
「子供好きなのは昔からだったが、私もまさかあれほどまで過保護化するとは思わなかった。私と巴愛の子供だから、だろうけど……」
その声は聞こえなかったらしく、柚輝を抱いた知尋がくるりと振り返った。
「そういえば奏多から聞いたんですが、蛍はいま神都に暮らしているそうですよ」
「ん、そうだったのか?」
「ええ、なんでも小さな一軒家を宙と一緒に借りたのだとか。きっと宙の帰る場所は、そこなんですよ」
真澄がふっと笑う。
「次に仲間たちが全員集まるのは、宙と蛍の婚礼の儀になりそうだな」
「はい、それも遠くない未来に」
青嵐の体制も整いつつある。新しく大統領という存在が決定され、奏多はその傍で政務を助けながら騎士団長を任されていた。宙が故郷に戻ったら、自分は騎士から手を引いて政務に専念し、騎士団は弟に一任するつもりです――と奏多が言っていた。重責を背負うことになる宙にとっては、帰るべき場所と支えてくれる人の存在は不可欠だろう。彼だってもう二十歳だ。
「さ、仕事の話はまた後にしましょうよ。真澄は家族団らんでもしたらどうです?」
「そんな気があるなら柚輝を降ろせ」
「部屋まで連れて行ってあげるだけですって。可愛い甥っ子の面倒くらい見させてください。そのうちすぐに、抱き上げることもできないくらい大きなってしまうんでしょうからね……」
知尋は最後までそんな調子で、柚輝を可愛がっていた。もういつもの光景なので見慣れたことである。
その日の夜、荷解きも済んでようやくほっと一息ついたころには、柚輝はベッドですやすやと健康そうな寝息を立てていた。久々に両親揃って一緒の部屋にいられるのだと思うと、相当嬉しかったらしい。ひとしきりおおはしゃぎしたあと、すぐに眠ってしまった。
「寝てしまったか。……仕事とはいえ、長いことひとりにして悪いことをしたな」
真澄がソファに座って呟くと、ベッドに腰掛けて柚輝が寝入るのを見ていた巴愛が微笑んだ。
「そうね。でも昴流は、留守中ちゃんといい子にしていたって言っていたよ。……我が儘らしい我が儘を何も言わなかったから、逆に心配になったくらいだそうだけど」
言葉の後半で、巴愛の声はトーンダウンする。こんな幼子が我が儘を一つも言わないのは、それはそれで問題だと思っているのだ。それは真澄も同じである。我慢させることを強いてしまっている――と、真澄は申し訳なく思う。
「……俺も昔はそうだった。甘えたくても、甘えられる相手はみな忙しくて……俺には知尋がいたから良かったがな」
「真澄……」
「俺には母がいなかった。父も、とても父とは思えなかった。柚輝に、そんな思いはさせたくない」
巴愛はそっと立ち上がり、真澄の隣に腰を下ろした。真澄も巴愛も幼くして両親を失っている。真澄など、物心ついてからその愛情の一片さえ感じたことはない。だからこそ真澄は、家族の時間を大切にしていた。自分がしてもらいたくてもしてもらえなかったことを、柚輝にしてやりたいのだ。
「……そうだなあ。休みさえとれれば、一日どこかへ出かけてみるというのもあるな……」
「そんな時間があるの?」
「なければ作るさ」
真澄の笑みに、巴愛も頬をほころばせた。いつだったか知尋に、「仕事仕事というのは家庭崩壊の要因だ」と言われたことだし、生来真面目さが持続する時間が比較的短い真澄としては、息抜きするのは大歓迎だ。
「――そうそう。実は、相談しようと思っていたことがあるんだけど」
「なんだ?」
「柚輝に、あたしが暮らしていたころの世界のこと、話してもいい?」
そう言うと、真澄は驚いたように軽く目を見張った。
「巴愛が暮らしていたころのことを……?」
「神核に頼らなかった時代があったってことを、忘れないでほしいと思うの。語り継いでいってほしい。その想いを柚輝に託したいなって」
少し考えた真澄は、やがて頷いた。
「話してみるといい。きっと柚輝なら受け継いでくれる」
「有難う……!」
巴愛は嬉しそうに笑った。真澄はそっと巴愛の髪の毛に触れ、自分のほうに抱き寄せる。
「……久々だが、続きを話してくれないか。確か大きな戦争があったんだったな。世界中を巻き込んだという……」
この数年、真澄は時間があれば巴愛に過去のことを色々と質問してきた。巴愛が暮らしていた時代のことを一通り記憶したあと、今度はさらに昔のことを聞いてきた。日本史の成績だけは優秀だった巴愛はなんとか学生時代の記憶を掘り起し、縄文時代あたりからかいつまんで説明していたのだ。そしていま、ようやく昭和の時代まで話は進んできた。頷いた巴愛は、第二次世界大戦の話を始めた。そして原子爆弾の話になる。
「この国は世界で唯一、原子爆弾という恐ろしい兵器の被害を受けた国だったの。ふたつの都市にその爆弾が投下されて……今思えば、あれはまるで和泉で神核が爆発したのと同じような被害だったのかもしれない」
「ではその街に住んでいた人々は、大勢亡くなったんだな……」
「うん。それから数日して、日本は降伏を受け入れたの。そして一切の戦力を放棄した。二度と戦争を起こさないようにって……」
そう話すと、真澄は目を見張った。
「一切の戦力を放棄……?」
「うん。実際には自衛隊って名前で軍隊が残っているから、微妙なところだけど」
「……いや、それでも勇気ある決断だと思うよ。戦いから遠ざかるために武器を置くのは、一番単純なことだろう。だが、こちらにその気がなくても周辺の国は放っておいてはくれない。その危険があるから、俺はその道を選ぶことができなかった」
真澄は目を閉じた。
「これからは玖暁も、そんなふうになれればいいな。騎士団と治安警備を完全に分かつことができれば、あるいは……」
何やら本気で考え始めた真澄の横顔に、巴愛はくすりと笑った。――こんなふうに口伝でしかなくても、細々とでも、繋がっていけばいい。歴史を学ぶことは、過去にあったことを未来に生かすために重要なことだ。
自慢の息子が、巴愛の思い出を引き継いでくれたら何より嬉しい。明日から少しずつ教えてあげよう――と巴愛は心に決めた。
「巴愛、出かけていた間の売上金をもらってきたぞ。相変わらず大人気だな、巴愛の作る菓子は」
真澄は昔の約束を叶えてくれた。「巴愛が菓子を売る店」――皇妃が手ずから作る菓子は、本当によく売れる。巴愛はにっこり微笑んだ。
「売上金は、またいつものように寄付に回していいんだな?」
「ええ。国内外の、戦争の復興金に……」
――真澄の強さ。巴愛の優しさ。そのどちらも、玖暁の民が心から慕う理由だった。
………
……
…
★☆
「……それが、私の父方の祖母から受け継がれてきた話だ」
ひとりの初老の男性が、膝に乗せた六歳ほどの少年にゆっくりと語って聞かせていた。少年は目を輝かせて男性を見上げた。
「神核がないのに空を飛ぶ箱とか、地面をすごい速さで走る箱とか、本当なの、お祖父さま?」
「ああ、本当だとも。祖母の巴愛から私の父である柚輝、私、お前の父、そしてお前。代々玖暁の皇となる者は、この話を受け継いできたんだ」
彼の息子は、孫にこの話をするより早く病で死んだ。だからこの話を伝えるのは、祖父である自分の務めだった。息子が幼いころ、同じように語って聞かせたものだ。
孫の少年の顔が、室内の壁にかけられている額縁の絵に向けられる。高名な画家が描いた、歴代の皇のなかで最も人気のある人たちの肖像画だ。最強の剣の使い手と呼ばれ、戦乱の時代を導いた勇皇、鳳祠真澄。彼をずっと傍で支え、一風変わった人生を歩んできた皇妃の巴愛。彼女が過去の時代からやってきたということは、皇家のトップシークレットだ。それでも、彼らふたりの冒険譚は愛されている。
「お祖父さまは、お祖父さまのお祖父さまを覚えているの?」
「……ああ。剣術も教えてもらったし、彼の政治を傍で見てきた。その最期を、私は父とともに看取ったよ。剣術は、老いても私の父より巧みだった。私は、真澄と巴愛という祖父母を持ち、その武皇の血を引いていることを誇りに思うよ。彼らが、玖暁を強くしてくれた」
男性は孫の頭を撫でた。孫にとっては、祖父の祖父だなんて殆ど歴史上の人物に等しいだろう。
「私は、祖母が生きた時代の技術を作り出すことができなかった。だから、祖母から続いてきた願いを、お前に託すよ」
「僕、ちゃんとできるのかな……?」
「できるとも。私にだってできた。大丈夫、お前を支えてくれる人は大勢いる」
そのとき、部屋の外から青年の声が聞こえてきた。
「――殿下! 殿下、どこに逃げたんですか!?」
「うわっ、流だ!」
孫が慌てはじめる。男性は目を丸くした。
「なんだ、もしかして逃げていたのか?」
「う、うん。だって、何時間も僕のこと部屋に閉じ込めて勉強させるんだよ? たまには遊びたいんだもん」
孫は窓の傍に駆け寄り、窓枠に足をかけた。
「お祖父さま、有難う。また話聞かせてね」
「! お、おい、まさか……」
止める間もなく、少年は窓から飛び降りた。それと同時に部屋の扉が開かれ、二十歳前後の青年が現れる。
「殿下! ……っと、これは皇陛下。失礼いたしました」
青年は男性に気付き、恭しく頭を下げる。
「陛下、殿下をお見かけになりませんでしたか? 長いこと探しているのですが、どこへ逃げたのか……」
「あの子なら、いまお前の声を聞いてその窓から飛び降りたよ」
「な、窓から!?」
青年はぎょっとし、慌てて窓から外を見た。二階から飛び降りた少年は身軽に地面に着地し、遠くへ駆けだすところだった。青年が呆れたように溜息をつく。
「くっ……ずば抜けた身体能力をお持ちとはいえ、控えてくださいといつもあれほど強く……!」
「苦労をかけるね、小瀧」
そう呼びかけると、青年は振り返って微笑んだ。その表情は、男性が覚えている祖母の護衛にそっくりだ。
「苦労など。僕は曾祖父から続いてきたこの役目に、誇りを持っています。曾祖父がそうしたように、僕は命をかけて殿下をお守りいたします」
――皇妃となった巴愛と、護衛だった小瀧昴流。彼の叶わなかった想いも、玖暁の悲恋の代名詞となっている。だが脚色甚だしい物語と現実は違い、昴流という人は本当に純粋に巴愛を想い、守ってきたのだということを男性は知っている。その証拠に彼は、死ぬまでずっと巴愛と柚輝の護衛を務めたのだから。彼らを守ってほしいという思いを繋ぐために、自分の血を残していったのだから。それは、目の前の青年がよく知っている。
「さあて……早いところ捕まえなければ」
青年は鋭い笑みを浮かべ、身を翻して駆け出して行った。その後ろ姿を頼もしく見送り、男性はもう一度壁掛けの絵を見上げた。真澄と巴愛が仲良く寄り添っているその絵を見るたび、男性は父から教えられたふたりの出会いを思い出す。今日の午後は予定もないし、ゆっくりと久しぶりに思い出を辿ってみようか。
あれは春の初め――。
戦場に倒れた少女に、馬上から声をかけた若き皇。
それがふたりの始まりだった。
これにて「和装の皇さま」完結となります。
長い間お付き合いいただきました皆さま、本当に有難う御座いました!
誤字脱字の報告も含め、何か一言感想を頂けると嬉しく思います。
いずれ「和装の皇さま」というシリーズで、外伝を書くかもしれません。
では今後とも精進致しますので、またよろしくお願いします。




