2 成り行きと言わないで
玖暁皇城の食堂に仲間たちが全員揃ったのは、実に三週間ぶりのことだった。全員が到着したのは夕方過ぎで、近況報告も兼ねて晩餐会が開かれた。巴愛にしてみれば、同じ屋根の下に生活しているはずの真澄と知尋の姿を見るのも久々である。
「奏多、どうだ? 青嵐の様子は」
真澄が尋ねると、パンを飲みこんでから奏多が答えた。
「やはりまあ、そう簡単にはいかないものでして……行政にしても騎士団にしても民衆の生活にしても、課題は山積みですね」
「そうか……」
「でも玖暁騎士団や彩鈴騎士団のみなさんのおかげで、なんとかやっていますよ。嘉斉さんもいますしね」
天狼砦に駐留していた王冠の嘉斉は、先日の捕虜交換式で無事部下ともども青嵐に帰還を果たした。あれから嘉斉は王冠としての任を解かれたが、青嵐の復興のために尽力しているそうだ。奏多にとっては頼もしい人だろう。が、奏多が壊してしまった嘉斉の肩はまだ完治していないらしい。そこまでやってしまっても屈託なく嘉斉に相談事ができる奏多は、やはり傑物である。
次に近況を聞かれたのは黎だ。黎はワインのグラスを置く。
「竜戯湖の水は元通りになりました。あとは諸国へ派遣していた諜報員を、少しずつ引き上げさせています。玖暁と青嵐に送っていた諜報員は殆ど残っていません」
「ほう、諜報に代わる機器類の大量生産が可能になったのか」
黎は苦笑いをたたえた。
「少しばかり青嵐の鉄鉱山から資源を頂きましてね」
黎と奏多の微妙な顔からは、彩鈴が頂いた資源が「少しばかり」などという量でないことは明らかだ。真澄はあえてそれには触れない。
「以前狼雅殿にお約束した通り、貿易の援助は玖暁に任せてくれ」
「有難う御座います」
黎が深々と頭を下げた横で、瑛士がふと思い出したように口を開く。
「そういえば、交換武官の件はどうなりましたか?」
巴愛が首を傾げたので、昴流が説明した。狼雅が提案したことで、玖暁、彩鈴、青嵐の騎士を数名他国の騎士と交換するのだ。そうすれば相手国の環境を互いが理解し、いい影響を与え合える。これから、この大陸にある三か国は結束を強くしなければならないのだ。
そういうことで、今回の交換武官の話が出たのだ。細かいことはまだ決まっていないが、交換する期間は二年間ということだけ確定している。
「玖暁には何の問題もありませんよ」
知尋が微笑む。奏多は頭を掻いた。
「青嵐のほうも大丈夫です。けど、もう少し情勢が落ち着くまで待っていただくことになると思います。もう青嵐から送り出す者は決まっているんですけど」
「誰だ?」
李生が問うと、奏多は自分の横でパスタをフォークに巻き付けている弟を指差した。食に興味がいっていた宙がはっと我に返り、大きく頷いた。
「ああ、交換武官が現実のものになったら、俺が玖暁に行くよ」
「いいのか?」
李生は驚いたように奏多を見やった。奏多がどれだけ宙を大事にしているかは知っているし、これ以上宙を戦いに関わらせたくないと思っていることも、李生は知っていた。奏多が微笑む。
「本人が行きたいって言ったんだ。それに、国内に燻っている反玖暁思想を緩和するためにも、交換武官は絶対必要だ。俺たち兄弟が取り組むっていうのは、すごく重要だと思うよ」
宙は綺麗に巻いたエビのトマトクリームパスタを口に含み、その美味な味わいに至極幸せそうな顔する。
「でも、実際には青嵐国内の安泰もまだ先だし。その前に先約があるからさ、俺が玖暁に来るのはだいぶ遅くなるよ」
「先約って?」
奈織が尋ねると、宙は正面に座っている蛍を見やった。
「一緒に世界を見て回るんだ。なあ、蛍?」
蛍は驚いたように顔を上げ、それから嬉しそうに笑みを見せた。
「……うん」
今はどこの国も慌ただしい。だがもう少しすれば、少なくとも玖暁と彩鈴は落ち着きを取り戻すはずだ。そうなれば、宙は蛍との約束を果たせる。
「高峰に伝えておくよ。大喜びしそうだ」
瑛士が笑って豪快にワインを飲みほした。奈織が言った。
「小難しい話はあとにしない? 折角久しぶりに会ったんだし、楽しく話そうよ」
楽天的な奈織に黎は眉をしかめたが、黎としても同意するところがあるのか何も言わなかった。知尋が首を傾げる。
「楽しい話か……ああそうだ昴流、首尾はどう?」
重要な語を省いた知尋だったが、昴流には完璧に伝わった。にっこりと微笑む。
「上々ですよ。僕の兄弟たちにも協力してもらっていますから、使用人たちへの浸透率は半端ないです」
「それは良かった。私のほうも、今まで見合い書を送りつけてきた諸侯をひとりずつ潰していっています。いやあ、なかなか良い手応えですよ」
けたたましい金属音が響く。真澄の手から、スープを掬っていたスプーンが滑り落ち、スープ皿にぶつかったのだ。その拍子で、ミネストローネによく似たその赤いスープが数滴、テーブルの上に飛び散る。侍従らしい機敏さでさっと昴流がそれを布巾で拭き取った。
「いやだなあ、真澄。食事の席ではしたない」
「お、お前ら……この忙しい時期に何をやっている」
真澄の表情が引き攣っている。知尋はにっこりと微笑んだ。
「それを聞きますか、今更?」
「時期というものを考えんか!」
「時期? 今を逃して、一体いつが『その時』だというのです? 玖暁は晴れて我々の元に戻ってきましたが、民衆はみな戦争のせいで疲弊しきっている。そんな中で、復興の旗印である我が国の皇が、ついに愛する女性と結ばれた――これほどめでたい話がありますか! いまこの国に必要なのは活力です、分かっていますよね、真澄? 不安のなかを生きているいまだからこそ、みなが幸せになって笑顔になれるような話題が必要なんです。こんなことは私でなくとも必ず矢須が言っていました。そうなれば真澄はどこの誰とも知らぬ貴族の娘を皇妃に迎えるという政略的な結婚をし、民衆の活気にはつながるかもしれないが当人たちはまったく幸せでない未来が待っていたはずです。それがどうですか、貴方たちがくっついてしまえばめでたしめでたしでしょう!」
知尋の弾丸トークに、真澄は口を挟む隙がない。巴愛が恥ずかしいという気持ちを通り越して呆気にとられている。息継ぎのために言葉が途切れた瞬間を狙って、真澄がやっと声を出した。
「……あー……その、知尋。お前、もしかして酔ってるか?」
「そうやって話をごまかす! 私は素面ですよ」
「いや、ワインを二本も空けておいてその弁解は通じないぞ。素面というのは、酒を一滴たりとも口にしていない状態のことを言ってだな……」
「そんな辞書的説明は結構です」
確かにこんなにも饒舌で声が大きい知尋は初めてなような気がするから、さすがの酒豪である知尋も酔ったのだろうと認識せざるを得ない。が、言っていることは至極まっとうだということを、この場にいる誰もが認識している。
知尋は仕事の合間に有力貴族と話をし、このことを訴え続けてきたのだ。真澄と巴愛の仲を認めさせるには、今しかないのだ。「真澄が死に屈しなかったのはひとえに、常に傍にいて献身的に真澄を支えてきた巴愛の存在あってこそ。お前の娘は同じことができるのか。真澄にはこれからも彼女が必要なのだ」と、知尋は諸侯を黙らせてきた。「家柄が」とか「素行が」とか反論する者もいたが、知尋の舌鋒の前に勝算があるわけがなかったので、どれも撃沈させられてしまっていた。
「……だがな」
「なんです?」
「いささか不謹慎なのでは……ないのか」
自信なさげな言葉を聞いて、知尋が嘆かわしそうに大きく溜息をつく。すると奈織がにやにやと笑った。
「真澄、無限ループって知ってる?」
「いや……?」
「今の真澄の言葉を聞いた知尋は、もう一回『玖暁の民に活力を』って話を始めるわけだ。それを聞いた真澄がもう一回『不謹慎だ』と言う。するとまたまた知尋が『活力』の話をし始めて……という具合に、真澄が『はい』と言わなきゃ永遠に終わらない話、っていうのが無限ループ。埒が明かないとか、不毛とかって意味だよ」
そんなゲーム用語みたいなことよく知ってるなあ、と他人事のように巴愛が感心する。真澄がぎょっとして、知尋が笑みを浮かべる。
「なんなら始めますか? その無限ループとやらを。いつまで真澄がもつでしょうねえ?」
真澄が呻く。瑛士が真剣な表情で真澄に向きなおる。
「真澄さま。この場の最年長として一言申し上げたいと思うのですが」
「……有難く拝聴しようじゃないか」
「真澄さまは皇である以前にひとりの男なのですから、男だったらはっきりしたほうがよろしいかと。いくら心の広い女性といえど、そんなに待ってはくれませんぞ」
真澄は沈黙した。それから持っていたスプーンを置き、深いため息を吐く。
「――お前ら……当人の目の前でそこまで言うかッ。普通こういうことは……」
真澄はそこで口をつぐんだ。こういうこと――つまりプロポーズはいつするんだという話題は、「男だけでこっそりするもんだろう」と言いかけて、なんとなくやめたのだ。「くっつけ、くっつけ」と言われるのが真澄は嫌だし、女性にしてもいい気分ではないはずだ。
――巴愛の目の前で、恥知らずな。
不自然に言葉を切った真澄は立ち上がった。それから赤面して俯いている巴愛の傍に行き、驚いて顔を上げた巴愛の腕を引く。
「あ、あの……」
「――ちょっと、付き合ってくれ」
これが知尋の策だということは理解している。その手に乗るのは極めて不愉快だ。だが――良いきっかけをくれたというのも、また事実。
そう、真澄は散々からかわれると、その場を逃げ出したくなってたまらなくなるのだ。
真澄が巴愛を伴って食堂を出て行くと、知尋がくすりと微笑んだ。
「……あーあ。また真澄の恨みを買ってしまいましたね。背中を押してあげたんだから、感謝してほしいくらいなのに」
「そう言っている割には、楽しそうですね」
李生が突っ込むと、知尋は頷く。
「他人の色恋沙汰ほど面白いものはないよね」
性質が悪い、とその場にいた誰もが思ったことであろう。
「まあそれはともかく……あのふたりは誰よりも辛いことを乗り越えてきたんだから。幸せになる権利は、一番あるはずなんだよ」
――そして知尋は、誰よりも優しい。
★☆
真澄が巴愛を連れてきたのは、いつも巴愛たちがお茶をする寝所のバルコニーだった。夜の空気は冷たく、残暑もやっと終わり、季節は秋に移ろいつつあることが分かる。
「……ああもう、くそっ。ああいう雰囲気に流されるのは嫌だと何度も言っているのに……!」
急に砕けた真澄がそう悪態をついた。巴愛は何と言ったらいいのか分からず沈黙している。
「大体、俺にも俺のタイミングというものが……」
「ええと、真澄さま」
巴愛がやっと声をかけると、考えていたことが口に出ていたことに気付いた真澄は我に返った。
真澄は振り返り、そこに佇んでいる巴愛を見てばつが悪そうに頭を掻いた。
「……す、すまない。知尋のおふざけは許してやってくれ」
「あたしは大丈夫なんですけど……」
おふざけの対象になっていたのは巴愛ではなく真澄だし、そもそも知尋の言っていたことは「おふざけ」という内容ではないような気もする。
沈黙。
「いつ……聞いてくれるんですか?」
思い切って尋ねてみる。真澄にも思い当ることがあるはずだ、なかったら驚愕する。
真澄とともに生きる覚悟があるかどうか――戦いが終わったら聞くと、真澄はそう言った。要するに、プロポーズするから返事を考えておいてくれ、という意味だ。
「いや、だから……俺にもタイミングと言うものが」
「真澄さまって意外と奥手みたいですし、待っていたらいつになるのか分からないんで」
「くっ……情けないが返す言葉がない」
だが視線を彷徨わせたのも一瞬で、真澄は巴愛に向きなおった。この辺りの切り替えの速さというか腹を括る速さというか、それは見事なものだ。
「……巴愛。砦でも言ったが、俺……いや、私にはもう君がいない未来が考えられない」
言葉を改めた真澄の瞳に、巴愛は向き合う。
「はい」
「君に不自由を強いてしまうかもしれない。そうも言ったと思う」
「はい」
「だが、誓って君を不幸にはしない。絶対にだ」
「はい」
真澄は呼吸を整えた。
「私と結婚してほしい」
「はい」
「……え?」
「え?」
真澄が予想外の言葉を発したので、巴愛も同じ言葉を返してしまった。最後の最後で締まらなかった言葉に、ふたりとも笑いだす。
「え、ってなんですか、真澄さま」
「いや……即答だったから、驚いてしまって」
「だって、迷う必要なんてありませんから。この世界に落ちてきたあたしを助けてくれて、あたしの居場所をくれたのは、真澄さまです」
不安なこともたくさんあった。それでも平気だったのは、真澄が諦めなかったからだ。クーデターにも負けず、呪いにも負けず、重圧にも負けなかった。
「……有難う」
真澄は微笑むと、懐に手を入れた。その掌に乗っていたのは、綺麗に輝く青い宝石のついた指輪だった。
「わあ、綺麗……」
「玖暁にはある風習があってな。男の子供が生まれたときは、その父親が息子に指輪を買う、もしくは作る。息子は成長して女性に結婚を申し込むとき、その指輪を相手に贈るんだ」
婚約指輪を生まれたときから持っているということだ。真澄はこの指輪を二十四年間、大切に保管していたのだろう。そういえば砦で「渡すものがある」と言っていた。この指輪のことだったのだ。青嵐騎士にも奪われず、無事だった。
しかし父親というからには、真澄のこれを与えたのは。
「……悪政皇と名高き男が用意したものだが、大丈夫、呪われたりはしないさ」
珍しく真澄は冗談を言い、巴愛も微笑んだ。手を出すように促され、巴愛が左手を出すと、真澄はその薬指に指輪をはめた。ほっそりした巴愛の指には、少しばかり指輪は大きかった。
「少し大きいか……後で手直ししてもらわないとな」
真澄が呟く。巴愛はじっと指輪を見つめた。――これで少しでも、真澄が背負っている「悪政皇」の業を、巴愛も分けてもらえたのだろうか。せめて支えになりたい、と巴愛は切に願っている。
ふとそこで疑問が湧く。
「でも、なんで真澄さま、いま指輪を持っていたんですか?」
ここに来たのは完全な話の成り行きだったし、途中で真澄の部屋に寄りはしなかった。そんな大切な指輪が無造作に懐から出てきたのは驚いた。真澄はぎくりとし、苦笑いを浮かべた。
「いや……いつ渡すことになってもいいようにと、最近持ち歩いていてな……」
巴愛がくすくすと笑う。そんな巴愛を見つめていた真澄は、何かの衝動に駆られてそっと巴愛の身体を抱き寄せた。すっぽりと真澄の腕の中に収まった巴愛が、少し顔を赤くする。それから照れ隠しのように、話題を転じた。
「あたし、勉強頑張りますね。皇さまの隣に相応しいように……」
「……そんなこと、必要ないよ」
真澄がポツリと呟く。巴愛を抱きしめる腕に力がこもった。
「誰が何と言おうと、俺はありのまま笑ってくれる君が好きなんだ」
思えば、真澄がはっきりと「好きだ」と言ってくれたのは、これが初めてのような気がする。
「巴愛の居場所は、いつでも俺の隣にある。ちゃんと……覚えておいてくれよ」
「はい……!」
巴愛は嬉しそうに頷き、真澄を見上げた。真澄は微笑んだままちょっと首を傾げ、巴愛と唇を重ねた。身長差は十センチほど。丁度良い距離だ。
その後食堂に戻って、宴会のやり直しだと言わんばかりに盛大にからかわれたのは、言うまでもない。




