3 トラブルメーカー?
落下するなかで、巴愛は奈織をぎゅっと抱きしめた。落ちる。まだ落ちる。どれだけ深いのだろう? これは、地面に叩きつけられたらひとたまりもない。
その時、巴愛のすぐ横を何かが凄まじい勢いで通過して行った。それと同時に、急ブレーキがかかったかのように巴愛と奈織の落下が止まった。それからゆっくりとふたりは降下し、やがて巴愛の足が地面に着く。
巴愛の足から力が抜け、奈織と一緒に地面にへたり込んでしまった。ジェットコースターが好きな巴愛でも、あれは無理だ。そう思っているとすぐ傍でぼんやり炎が灯った。そして草を踏みしめる音とともに、何者かがこちらへやってくる。
「大丈夫ですか、ふたりとも……」
火の神核を持った昴流だった。彼は巴愛たちより先に地面に降り立ち、風の神核でふたりを受け止めてくれたのだ。ということはつまり、昴流は生身で着地したということである。
「す、昴流こそ平気なの……?」
「ああ、僕は少し足が痺れたくらいですよ」
あれだけの高さから落下して足が痺れる程度とは、玖暁騎士は人間なのだろうか。そう思わないでもないが、そんなことより先に言うべきことがあったことに巴愛が気付き、立ち上がった。
「あ、有難う! ごめんね、昴流……」
「いえ、無事でよかったですよ。奈織さんも、怪我はありませんか?」
昴流に問いかけられて、それまで魂が抜けてしまったかのように呆然としていた奈織が我に返った。奈織は巴愛を見上げ、耐えかねたように抱き着いてきた。
「ごめん! ごめんね、巴愛!」
そう謝ってきた。まるで幼い少女のようだ。身体も震えている。いつだって自然体だった奈織らしくない。
「大丈夫よ。それより本当に平気?」
「う、うん……」
昴流がいま落ちてきた崖を見上げながら尋ねる。
「ところで、何をしていらしたんですか?」
「薬草、摘んでたの」
「そうでしたか……もう。あんまり危険なことしないでくださいよ。心臓がいくつあっても足りません」
「ごめんなさい」
巴愛が素直に謝った。ひょっとしたら、いやひょっとしなくても、あたしはトラブルメーカーなのかもしれない。巴愛はそう思い始めていた。
「とりあえず、この崖は登れそうにないですね」
昴流はそう言ったが、悲観的な声ではないので巴愛にも余裕が生まれた。昴流は少しも焦っていない。もしかしたら巴愛と奈織がふたりとも死んでいたかもしれないこの状況でも、冷静さを失っていない。やっぱり昴流はすごいな、と巴愛は思う。
「……言ったでしょう、僕が必ず守ります。もう二度と……僕の手が届くところにいる人を、死なせはしません」
巴愛の内心を見透かしたように昴流は言う。その言葉は、亡くなった昴流の姉、咲良を思い出させた。
「うん……」
巴愛が頷くと、昴流がにっこり笑ったのが暗闇の中でも分かった。
と、唐突にここが「暗い場所」であることに巴愛は気付いてしまった。今の今まで自分以上にびびっている奈織を慰めていたので気にならなかったのだが、どうしようもなく不安が襲いかかる。怖くなって巴愛も火の神核をつけた。小さく頼りないふたつの炎が、ぼんやりと闇の中に浮かぶ。
「僕もこの辺りの地形には詳しくありません。下手に動けばさらに迷いますから、助けが来るのを待ちましょう。この火を頼りに見つけてくれるはずです。それが駄目でも、朝になればなんとかなりますよ」
「あ、朝まで待つのか……」
巴愛がポツリと呟くが、これはどうしようもないことである。後ろにいる奈織が息を吐き出し、ぱちんと自分の両の頬を掌で張った。気合いを入れ直したらしい。
巨大な土の壁に背を当て、巴愛と奈織は座り込んだ。昴流はその傍に佇んでいる。何が起こっても対処できるようにだ。すぐ横に立っているのに、この僅かな光源では昴流の姿すら闇に霞んでいる。ただ、先程からある一点を見つめているような気がしたので、巴愛は首を捻って昴流を見上げた。
「何か見えるの……?」
「いえ、何も……」
昴流の返答はあっさりしたものだった。
「この暗闇じゃ、視界は役に立ちませんから。気配を探っているだけです」
「そうなんだ」
「足のない透けてるお爺さんが見える、とでも言ったほうが良かったでしょうか?」
からかうような口調に、冗談だと分かっていても巴愛の背筋をぞわぞわと悪寒が駆けあがった。
「や、やだぁ……」
「――ねっ、ねえ、あそこ、ひ、人が宙に浮いて……」
奈織が巴愛の真横で緊迫した声をあげるから、巴愛は両耳を塞いだ。
「嫌だってばぁ」
「あははっ、怖い話嫌いなんだ?」
「……さっきまで怯えてたのはなんだったのよ……」
巴愛は呟いて溜息をついた。つられて微笑んだ昴流だったが、ふと視線を上げた。
「……早いな……」
そんな声が聞こえた。何が早いのかは分からないが、とにかく悪い状況だということは雰囲気的に理解できた。
昴流はもちろん、ここに狼が生息しているということを知っていた。そして狼たちが、この火の神核の臭いを嗅いで近づいてきているということも分かっていた。それでも、火をつけないという選択肢を昴流は選ばなかった。どのみち人間の臭いを嗅ぎつけて狼はやってくる。火がなければ昴流も戦うことができないし、味方に見つけてもらうこともできない。多少の危険はあっても、光源は必要だと判断した結果だ。
そして今、昴流の研ぎ澄まされた感覚は敵意、否、強烈な殺意の塊がこちらに近づいてくるのを察知していた。ひとつではない。ひとつの群れだ。多くても十五頭くらいの群れしか作らないはずだが、昴流一人で対処するのはさすがにきついかもしれない。
まだ距離はある。狼たちはじりじりと包囲の輪を縮めている。背後が壁なので、完全に囲まれるという事態にはならないことだけが救いだ。
「巴愛さん。結界壁をお願いできますか?」
「……分かった」
巴愛は詳しいことは聞かず、結界壁を張った。前方からの攻撃を防ぐというだけの結界だ。
「ちょっと応用しましょう。イメージしてください。こう、僕たち全員を覆い隠すような……」
イメージしてみろ、と言ったはいいが肝心の昴流がうまいこと説明できない。が、巴愛は昴流の意図を読み取って結界壁を作り直してくれた。要は、「ドーム型の」結界である。これで四方からの攻撃は完全に防げる。しかし結界壁は物理攻撃に弱い。先日の知尋で分かる通り、知尋の結界ですら黎の槍に破壊されてしまうのだ。狼の牙や爪に、どれだけ巴愛が耐えられるか。
昴流は「お見事です」と巴愛に微笑みかけ、ゆっくりそのドームから出た。奈織が慌てて引き留める。
「昴流! 出ちゃったら意味ないんじゃないの?」
「防いでばかりという訳にもいきませんよ。大丈夫です。野獣討伐は訓練生時代の代表的な実地任務で、僕も嫌というほどやらされましたから」
その言葉で、迫りつつある敵が「野獣」であると巴愛と奈織は知った。巴愛はドームの内側から、外に立っている昴流に問いかけた。
「……宙に言っていたよね、覚悟をしろって。昴流は……いつ、どんな覚悟をしたの?」
正直言ってそんなこと聞いている場合ではないのだが、沈黙に耐えられなかったのだ。昴流は律儀に答えてくれる。
「宙に偉そうなことを言いましたけど、僕が覚悟をしたのは本当につい最近ですよ」
「そうなの……?」
「それまで僕は、成り行きで騎士になったにすぎませんでした。戦場に出て死んだとしても、それは僕だけの責任で、誰の迷惑にもならない。今はそれが間違った認識だと理解していますが、当時はそう思い込んでいました」
昴流は微笑む。
「でも、ある日突然、僕はある女性の護衛に任じられました。最初は失礼なことばかり言いましたね、『皇陛下にお近づきになれるチャンス』だとかって、あの時の僕をぶん殴ってやりたいですよ。そんな生半可な気持ちだけで、護衛という任務は務められないんです」
「……」
「僕が死ねば、貴方も死んでしまうかもしれない。僕が怪我をすれば、貴方も怪我をするかもしれない。そんなことを思ったら、戦いが怖いだのなんだのって言っていられなくなりました。貴方の身に危険が及ぶほうが、もっと怖い」
「昴流……」
「僕に戦う力と覚悟をくれたのは、貴方です」
たとえ男として巴愛を守ることが、叶わぬ夢でも。
せめて騎士として、貴方の命を傍でお守りしたい。
真澄がいない今だけでも、格好つけさせてほしい。
だから僕は、貴方にもらった力で貴方を守る。
「モテる女は辛いねえ」
奈織が横で茶化したが、巴愛と昴流の耳には届かなかった。勿論彼女も、昴流の叶わない思いを知っている。どちらかといえば、辛いのは昴流のほうである。
狼の姿が視認できた。ゆっくりとこちらに近づいてくる、影。闇の中に、金色の光る瞳がいくつも浮かんだ。ホラーである。
昴流は刀を抜き、静かに身構える。狼が狙っているのは、昴流の首だ。しかし腕や何かに噛みつかれたら、食いちぎられてしまうだろう。
獣は――人間のように武器を持たず、小賢しい知恵を働かせないから、対処はできる。
獰猛な唸り声とともに、正面にいた狼が飛び掛かってきた。昴流はそれを斬撃の一閃で払いのける。腹を切り裂かれた狼は地面に叩きつけられ、ぴくぴくと痙攣した後動かなくなった。
その時すでに、二頭め、三頭めが昴流に襲いかかっていた。二頭めを一頭めと同じように切り払い、三頭めの攻撃はひらりとかわす。狼が地面に着地した瞬間、その首を狙って刀を突きだした。切ない悲鳴が狼の喉から迸ったが、構わず昴流は刀を引き抜く。鮮血の海のなかに狼は倒れた。
直視できない惨状がそこにあったが、巴愛にはそれを見る余裕がない。巴愛と奈織を襲おうとする狼が何度も結界壁に飛び掛かり、弾かれて地面に倒れる。立ち上がって、もう一度飛び掛かる。それを繰り返しているため、防いでる巴愛にもとんでもない負荷がかかっていた。砲弾ひとつを平気で受け止める知尋がどうかしていると思う。そしてそれを容易く破った黎も、どうかしている。
「うぅ……!」
巴愛が呻く。もう駄目だ、結界が破れる――。
「しっかり!」
奈織が巴愛の手を掴んだ。それと同時に、奈織に掴まれた手から魔力が流れてくるような感覚を覚えた。急に楽になる。驚いて奈織を見ると、奈織は笑った。
「これでも神核研究者だからね、神核の扱いには人より慣れてるよ。あたしの魔力を巴愛に流すから、頑張ろ!」
「うん……!」
そうしている間にも昴流は狼を退けた。最後の一頭と思われる狼の背に豪快に刀を突き刺し、それで終了だ。ふうと盛大に息を吐き出し、背を向けたまま巴愛に告げる。
「こっち、見ないほうがいいですよ」
言われなくてもとても見る気にはなれない。返り血で着物の裾が赤く染まっている昴流の姿を見れば、どれだけ凄まじい惨状かがよく分かる。
「少し移動しましょうか。このままここにいたら、血の匂いを嗅いでまた狼たちが……」
「――どうも、手遅れみたいだぞ」
すぐ傍でそんな声がして、昴流も含め全員がぎょっとした。暗闇から姿を現したのは真澄で、自分に驚愕の視線を向けている一同に軽く両手を上げる。
「驚かせてすまん。それより、みな大丈夫か?」
「ま、真澄さま……はい、大丈夫です」
巴愛が微笑んだ。自分の出番が終わったことを悟り、昴流は真澄に頭を下げる。
「申し訳ありません、自分がついていながら」
「謝ることはない。むしろ礼を言うよ、昴流」
真澄はそう言って刀を抜いた。
「狼の群れがまた近づいているようだ。昴流、結界壁の中へ。巴愛、もう少しの辛抱だ」
「は、はい!」
昴流と巴愛が同時に返事をし、昴流は巴愛の結界壁の内側へ入った。真澄は刀を下段に構えて静止する。ぴくりとも動かない。
再び狼たちの姿が見えた。先程より数が多い。昴流が戦い始めた時点で、この群れは血の臭いに気付いていたのだ。
狼たちが一斉に飛び掛かる。「あっ」と巴愛が思わず声を上げる。真澄はまだ動かない。動いたのは――ある一頭の狼が、真澄の刀の間合いに入った瞬間だった。神速で真澄の刀が一閃した。刀は二頭の狼をまとめて薙ぎ払う。間髪入れず、真澄は左腕を振り上げた。その腕に埋め込まれた雷の神核が淡く光り、次いで強烈な電撃がその場にいたすべての狼の襲った。狼は一瞬で黒焦げにされ、地面に横たわっている。
「派手だなあ」
奈織が感嘆し、他の二人は唖然として言葉も出ない。真澄は左腕を下ろして刀を収めた。
「知尋に色々と神核の使い方を教えてもらったからな。応用が利くようになってきたよ」
真澄は爽やかである。後の先を取る真澄の「鳳飛蒼天流」と、強力な神核術。組み合わされば最凶だ。
「さてと……では場所を変えようか。いまの神核術はさすがに味方の目に留まっただろう」
「はい、先行します」
昴流が自分のやるべきことを思い出して前に出る。真澄は奈織の頭を軽く小突く。
「あまり危ないことをするなよ」
「はーい。みんなを巻き込まないようにするよ」
「そもそも危ないことをやめろ、と言っているんだぞ? 巻き込む巻き込まないは別のことだ」
奈織は頭を掻いた。研究者で好奇心旺盛な奈織から「危ないこと」を取ったら、何も残らないような気もするが。
歩いている途中で、急に巴愛の腕に痛みが奔った。
「いたっ……」
「どうした?」
真澄が心配そうに尋ねる。巴愛は自分の腕を見たが、暗いのでよく分からない。
「なんか、木の枝か何かで切っちゃったみたいです」
「そうか……なら後で消毒しておいたほうがいいだろう」
「はい、そうします」
ほどなくして、彼らは瑛士と合流した。と言っても捜索に来たのは瑛士と奏多、蛍だけである。真澄が肩を落とす。
「おいおい、こんな少人数だったのか」
「いやあ、大事にしないほうがいいと思いましてね。蛍の夜目が利くので大丈夫ですよ」
瑛士はそう言って笑った。そうして瑛士が案内したのは先程よりかはいくらか低い崖に、縄梯子を下ろしたものだった。手抜きだなと真澄がぼやきつつ、みなにそれを上らせた。まあこれ以上の迂回路を探していたらもっと合流が遅くなっていただろうから、仕方がない。
ようやっと野営地まで戻ってきて、一同は安堵の息をついた。梯子を上った先では知尋と宙が待ち構えていた。
「お帰りなさい。楽しかったですか? 野生の狼と戯れるのは」
「もう、からかわないでよ~」
奈織が珍しく冗談に乗らない。彼女なりに責任を感じているようだ。巴愛もほっとしたのだが、急に視界が狭まったのを感じた。あれ、と思う間もなく足から力が抜け、後ろにいた真澄が慌てて巴愛を抱き留めた。
「巴愛?」
「どうした、今更になって怖くなったか?」
心配そうな真澄の声と、からかうような瑛士の声。そのどちらもが遠くなっていく。
「違……なんか……」
答える自分の声も、さらに遠く。
『巴愛! おい、しっかりしろ!』
ああ、やはりあたしはトラブルメーカーかもしれない。




