17 腹が減っては戦ができぬ
真澄はゆっくりと、倒れた知尋を抱き起した。閉じていた瞳を薄く開けた知尋が、兄の顔を見上げる。
両者ともしばらく無言のままだった。やがて真澄が溜息をつく。
「……以前私は言ったな。二度と自ら命を投げ出すなと。なぜ同じことを繰り返そうとする?」
「このままではいずれ、私は真澄たちに害を成す……そう、思ったからです」
その後ろで、皆が顔を見合わせている。珍しく瑛士だけは悟っているが、他の者には何が何だか分からないはずだ。
「私が矢吹に操られているように振る舞えば……皆は私を殺しにかかる。私が大神核を持っていれば尚更です……私は皆を傷つけてしまった。その償いをしたかった……私の命で」
先程までの知尋の狂気にあふれた戦いは、すべて演技だったのだ。知尋が本気で黎たちを殺そうとしていれば、黎たちも本気にならざるを得ない。そしてそのまま、裏切り者として殺してほしかったのだ。佳寿に操られ、仲間を傷つけた。真澄を救うために必要な大神核を奪った。その責任を取りたかったのだ。わざわざ刀で戦ったのも、みなが自分を倒しやすくするためだ。
この演技で、知尋は佳寿をも欺いた。佳寿はまだ知尋が自分の支配下にいると思っていたから、知尋に神核を持たせてここに残したのだ。
真澄がすうっと息を吸い込んだ。そして、近年聞いたことがないほど大音量の怒声が飛び出した。
「こんの……阿呆がッ!」
「うわっ」
知尋が素で驚いて、びくりと身体を飛び上がらせた。
言い出したらきりがなさそうなので、何が「阿呆」なのかは言わないことにした。きっと知尋も、なぜ真澄が怒っているかを理解している。なぜ自分一人で抱え込んだのか。なぜ自分の命を簡単に投げ出そうとしたのか。
「ごめんなさい……」
「分かればいい」
「でも……ちょっとは容赦してくださいよ。頭、ガンガンしてる……人の耳元で、やかましいったら……」
「それくらいしないと、お前はいつまでたっても分からないだろうが」
知尋は嬉しそうに微笑んだ。そして目を閉じ、ゆっくりと眠りの淵へ落ちていった。
弟の身体が急に重くなったことに気付いた真澄は、知尋を抱きかかえたまま立ち上がった。瑛士が真澄から知尋を受け取る。真澄が微笑んだ。
「……心配をかけたな。もう大丈夫だ」
「はい……っ」
瑛士の声が若干くぐもっている。真澄は仲間たちを見渡した。
「みんな、有難う」
その言葉で、みなようやく笑みを浮かべて安堵の息を吐き出した。
真澄の身体を蝕んでいた右腕の呪いの紋章は、もうない。
★☆
それから一行は王都依織まで戻ってきた。田柄が動かす馬車には真澄と知尋、巴愛、宙、奈織、蛍が乗り、他の面々は乗馬してその脇を駆けた。が、王都に着いて馬車から巴愛が困ったように顔を出し、どうかしたかと問いかけた瑛士に告げる。
「あの……みんな眠っちゃって、あたしひとりじゃどうにもならないっていうか」
瑛士が馬車の中を見ると、巴愛以外が軒並み夢の国へ旅立っていたのだ。仕方のないことではある。真澄は呪いが解けたばかりで、まだ身体が本調子には戻っていない。非常時だったとはいえ呪いが解けた直後にあんな神業をやってしまえば、身体がついていかないのも当然だ。馬車に乗る前から「頭が軽い」と言っていた。
そして仲間内では「年少組」と括っている少年少女三人は、疲労が極限だったのだろう。
「やれやれ、困ったもんだ」
瑛士は肩をすくめ、真澄を右肩に、知尋を左肩に担ぎ上げた。長身の男性をそんな軽々と担げるなんて、やはり瑛士は只者ではない。が、一国の皇、しかも自分の主君をそんな雑に扱っていいのだろうか。続いてやってきた黎も困った顔をして、奈織に手を伸ばした。てっきり襟首でも掴んで放り出すのかと思ったがいつになく優しく、妹を広い背中に負ぶった。昴流が蛍の華奢な身体を抱き上げ、奏多が宙の腕を掴んだ瞬間に宙は目を覚まし、慌てておんぶを辞退した。
結局彼らがまず真っ先に行ったのは休息を取ること、もっといえば睡眠をとることだった。一応瑛士が狼雅に報告に行こうとしたのだが、黎が疲れた顔で「いい、いい」と手を振ったので、報告は田柄に一任してそのまま眠ることにしたのである。
という、心配かけておいて帰還の報告もなし、という無礼な部下に狼雅は寛大に笑って「まあいい、寝かせておけ」と言った。が、報告はあとでいいと言っても三十分以内には報告に来るまめな黎が、二時間経っても顔を出さないのがさすがに心配になり、狼雅は賓客室の棟へ足を向けた。黎の部屋は騎士団宿舎のほうだが、面倒だからこのまま部屋を使わせてもらうと田柄経由で狼雅に伝言がよこしてある。
部屋がずらりと並ぶ廊下を歩いていると、前方の部屋の扉が開き、巴愛が出てきた。狼雅と目が合った巴愛が、慌てて頭を下げる。この謎の少女といずれ話をしてみたいと思っていた狼雅は、丁度良いと内心で思って口を開いた。
「あんたは、九条巴愛嬢……だったな」
「は、はい」
あがり症の少女はかなり緊張しているらしい。
「あんたも色々大変だったろう。休んでいなくていいのか?」
「あたしはたいしたことしてませんでしたから、平気です。それよりそろそろみんな起き出すだろうから、ご飯の支度でもと思って」
「飯の支度? 言ってくれりゃ、俺が用意させたんだが」
「ご、ごめんなさい。でも……折角だからみんなの好み通りのもの、作ってあげたいなって……」
口で謝りながら、しかし意思は曲げない。成程、こんな危なっかしい子を真澄が放って置けたはずがない。狼雅は笑みを浮かべて頷いた。
「そうだな。俺じゃあいつらの好みは知らんし、そうしてやったほうがいいかもしれん。調理場の場所は分かるか?」
「はい、黎さんが自由に使っていいって言ってくださったので、この間一通り見て回りました」
「そうか、なら頑張れ」
巴愛は頷き、狼雅に頭を下げてその場を去った。その後ろ姿を見て、狼雅が腕を組む。
真澄は女ひとりに執着するような男ではないが、巴愛は特別な存在だったのだろう。彼女の存在が真澄の生きる活力になったといっても過言ではないはずだ。真澄の幼友達として、狼雅は巴愛に感謝したい気分だった。
その後狼雅は、当初の目的通り黎が使っている部屋の前にたどり着いた。そして躊躇することなくノブを掴み、扉を開けて中に入った。これはいつものことで、「ノックをしてくださいといつもいつも」とお決まりの文句が飛んでくる。――はずだったのだが、今日はその声がかからない。おや、と思って室内を見渡すと、黎はベッドの上に横になってこちらに背を向けていた。狼雅が特に足音を気にするでもなく近づいて顔を覗き込んでも、黎は目を閉じたまま動かない。
要するに、熟睡中である。
眠りが浅いはずの黎が、こんなにも無防備に眠っているというのが、狼雅には信じられなかった。旅装も殆ど解かれていないから、部屋に入ってすぐさまベッドに倒れこみ、そのまま眠ってしまったということだろう。この男がここまで疲労するのは相当である。
目の前で気持ち良く眠っている人を見ると起こしてやりたくなってしまう性分の狼雅だが、悪戯心をぐっと我慢して部屋を出ることにした。黎に対して遠慮などしなかった狼雅が、初めて黎に気を遣った瞬間だった。
★☆
目が覚めると、ここ何日か滞在している依織の城の一室にいた。真澄はベッドの上に身体を起こし、思い切り腕を天井に突きあげて伸びをする。しばらく寝たきりが続いていたから、肩が固まってしまっていた。片手で揉みほぐしながら窓の外を見やると、綺麗な庭が広がっている。その景色にじっと視線を送りながら、真澄は少し笑みを浮かべた。
はっきりと、そこに広がる草花の色が分かる。さえずる鳥の鳴き声が聞こえる。腕を伸ばせば窓の錠を外して外の空気を入れることができる。吹き込んでくる風に乗っている、夏の匂いを感じることができる。
五体満足であることが、こんなに素晴らしいことだったとは。
だるさも、痛みも、無気力さもない。やる気に満ち溢れて、少しでも身体を動かしたい気分だ。それに――。
と思ったところで扉が開いた。入ってきたのは巴愛で、ベッドの上に身体を起こしている真澄を見て、ぱっと笑顔になって駆け寄ってきた。
「真澄さま! 気分、どうですか?」
「ああ、もう大丈夫だよ」
真澄は微笑んで頷く。こんなことをまた言えることができるようになったのが、夢のようだ。
「ただな……」
「え、ただ?」
急に不安そうになった巴愛に、真澄は笑って首を振った。
「……腹が、減った」
巴愛が瞬きをする。そしてその意味を知り、巴愛が嬉しそうに笑った。呪いを受けてから食欲がまったくなく、食事をろくにとることができなかった真澄が空腹だと言った。食欲が戻ったのだ。以前のように、活動のエネルギー源は食事だとばかりに食べてくれるだろう。
「だと思いました! 食事の用意、できてるんです」
「そうなのか? じゃあ、楽しみだな」
真澄がベッドから降りる。両の足で立っている真澄は本当に久々で、それだけで巴愛は目が潤みそうになる。
ふたりで連れだってこの賓客棟の小さな食堂に向かう。食事の用意が出来ていると言っても下ごしらえだけで、本格的な料理はみなが起きてきてからにしないと冷めてしまう。そう思っていた巴愛は、まず真っ先に作っておいた卵のスープを温め直し、器によそったものをテーブルについた真澄の前に置く。
「しばらく殆ど何も食べてなかったんですから、まずはそれで胃をなだめておいてくださいね。料理は今から作りますから」
巴愛はスキップでもし出すのではないかという軽い足取りだ。その後ろ姿を見た真澄は微笑み、スプーンを持ちながら言った。
「巴愛、有難うな」
「え?」
「君がずっと、私の傍に付き添っていてくれたのは分かっていた。……有難う」
「……だって、ずっと傍にいるって約束しましたもん」
真澄は頷く。
「これで君に嘘をつかずに済む。取り戻すよ、玖暁を」
「はい」
巴愛が微笑んだ。そのあとキッチンから何かを炒める音が聞こえてきた。これが日常だなと思いつつスープを口に運んだ。その味は今まで食べた何より優しく、身体に染みわたった。
空腹は、腹が減ったという感覚を通り越してしまえばもう感じなくなる。だが、一口何か食べた瞬間、空腹は強烈に跳ね返ってくる。真澄もそんな感じになり、巴愛がパンの大量に入ったバスケットと野菜炒めの大皿、フライドポテト、マカロニサラダ、野菜の肉詰めなどを一気に作り上げてテーブルに持って行ったとき、既にスープの皿は空になっていた。
巴愛がカップに茶を注いでくれたのに礼を言い、礼儀正しく「いただきます」と手を合わせてから食事を始めた。真澄の向かい側に座って、真澄の食事の様子をじっと見る。結構長いこと一緒に暮らしていたが、共に食事をしたのは数えるほどしかない。朝、昼ともに真澄は普通より時間がずれていて、朝は五時くらい、昼は遅いときで十五時を過ぎ、時には食事を摂ることさえできないという。よく身体がもつな、と巴愛は思っている。唯一食事が重なるのは夜くらいだが、それでも一緒に食事をするのは難しい。だから、こんな風にしっかり食事をしている真澄を見るのは初めてだ。
瑛士ほどではないが、真澄もよく食べる。だががつがつと言うわけではない。むしろゆっくり落ち着いて食べている。食べる量が多いだけだ。優雅な大喰らいってすごいな、と巴愛は内心でおかしく思う。やはり皇族というだけあって、食事のマナーなどはしっかり叩き込まれているらしい。
「なんかさー、そうやってると新婚さんみたいだよねー」
急にそんな声が聞こえ、真澄と巴愛はふたりで飛び上がった。真澄が持っていたフォークが皿にぶつかり、がちゃんと音を立てる。食堂の入り口に奈織と蛍がいた。
「な、奈織。蛍も……起きたの?」
「うん。良い雰囲気ぶち壊して悪いんだけど、あたしお腹空いて目が回りそうー……巴愛、なんか食べさせて……」
「わ、分かった。すぐ用意する……!」
巴愛が慌ててキッチンへ向かい、巴愛が座っていた場所に奈織が座る。空腹で目が回りそうというのは本当らしく、手でフライドポテトをつまんで口に放り込んだ。
「やあ、真澄。元気?」
奈織が向かい側の真澄に問いかけると、真澄はフォークをおいて頷いた。
「ああ、おかげさまで」
「それだけがっつりご飯食べてたら平気だよね。良かった、良かった」
奈織が微笑んだ。
そのあとも食事の匂いにつられて仲間たちが続々と起き出してきた。黎がやや憮然としていたのは、どうやら部屋に狼雅が来たらしいが気付かずに寝こけていた自分を恥じているのだ。なぜ狼雅が来たと分かったのかというと、巴愛が廊下で狼雅と会った、と言ってきたからである。わざわざ狼雅がこんなところに来たと言うことは、自分の様子を見に来たいうことだ。
みなが揃ったのだが、瑛士と知尋の姿だけがない。真澄としては、知尋が委縮してしまうのではないかと心配していた。知尋は、皆を傷つけたことを命で償おうと思うほど思い悩んでいた。「今更どの面で」という考えをしているのではないだろうか。仲間たちがそれで知尋を省こうとするはずがないと、分かってほしいのだが。
しかし真澄の考えは杞憂に終わった。五分ほどして、瑛士が知尋を引きずって食堂にやってきたのだ。どうやら瑛士は知尋を迎えに行っていたらしい。部屋でどんな悶着があったかは分からないが、とにかく知尋は自分の足でみなの前に姿を現した。
食堂の入り口に立った知尋は、仲間たちを見回してから、ゆっくりと、深く頭を下げた。顔を上げた知尋は不安そうな顔だったが、みなが笑みを浮かべているのを見てほっとしたように目を閉じた。瑛士が知尋の背中を押して中に入る。
「ああほら、巴愛が知尋さまの好きなプリン、作ってくれてますよ」
それを聞いた知尋がかあっと頬を赤くした。
「ちょっ、なんでそれ知って!?」
「あ、前に瑛士さんがそう言ってたんで」
知尋さまは甘いもの全般が好きだが、特にプリンが好きだ。しかし高級な店の高いプリンなどではなく、近所のおばさんが家庭で作るような、手作りの素朴なプリンが好きなんだ。そういうプリンを売っている店が照日乃の城下にあってな、知尋さまが熱を出して寝込んだりすると、昔から俺と真澄さまがこっそりその店に買いに行くんだ――という話を、巴愛は聞かされたのである。ついでに、本人はプリンが大好物であることを隠しているつもりだけど、とも聞いた。確かにこんなプリンを好む皇は珍しい。
真澄が笑いだす。久々に真澄の笑い声が聞こえ、知尋は顔を真っ赤にしたまま溜息をつく。が、その横顔は満足そうだった。
「知尋ー、いつまでそこに突っ立てるの? 食べないなら、あたしプリン二つ食べちゃうよ?」
奈織がそう呼び、知尋が顔を上げる。
「食べますって。もし私の分食べたら、ただじゃ済みませんからね」
「食い物の恨みは恐ろしいんだぜ、奈織。弟皇さまなら尚更だ」
宙が釘を刺す。知尋も笑って食卓についた。
「そうですね、以前真澄が間違って食べた私のアイスキャンディー、まだ覚えてますからね」
「お、おい、あれはもう十二年も前の話だろ……」
「私はバニラが良かったんですよ。それなのに、どうして小豆なんて……」
「いや、小豆だって美味いぞ」
「アイスキャンディーって、つくづく庶民的ですねえ」
奏多がおかしそうに呟く。はたとあることを思い出した瑛士が奏多に問う。
「なあ奏多。お前、甘いもの好きか?」
「え? はい、大好きですよ」
「じゃあ、子供のころ李生に甘いもの食わせ続けたことあるんじゃないか?」
「ああ、そうですね。うち、菓子の類が大量にあったんでよくお裾分けしてたんです」
「……李生がそのせいで甘いもの嫌いになったって、知ってたか?」
「ええっ、甘いもの嫌いだったんですか!?」
思った通り、奏多はそのことを知らないのだった。
「嫌いだったんじゃなくて、嫌いになったんだって。奏多が食べさせ続けたせいで」
瑛士が笑う。その横で宙が大きく溜息をついた。彼には兄がやらかしたことが、全部お見通しなのだった。
賑やかな食卓で、あっという間に料理がなくなっていく。初めて感じる、仲間うちでの団らんだった。それは誰にとっても、心休まる一時となった。




