14 騎士団長、ふたり
夕方過ぎ、黎は狼雅の執務室で書類整理を行っていた。片づけが嫌いな国王は、それらを極限までため込んでは、黎に丸投げするのである。
「まったく、こんなにため込んで……」
黎が溜息をつくと、机に向かって書き物をしている狼雅が顔を上げずに言った。
「もう慣れただろうが」
「ええ、慣れましたとも」
決して嬉しくはない。
「それよりも、玖暁の兄皇陛下はたいしたお方ですね。ずぼらで仕事を部下に丸投げするような誰かさんとは大違いです」
黎が聞こえよがしに言うのは、先ほどのお返しだ。狼雅がばっと顔を上げる。
「おい、誰がずぼらだって……」
「誰も狼雅さまのこととは言っておりません」
「それ以外には聞こえねえよ」
憮然とした狼雅に黎は微笑みかける。
「……ところで黎、青嵐軍の総司令は誰か分かったのか?」
狼雅の問いに、黎も表情を改める。
「はい。青嵐特務師団、通称『王冠』の隊長、矢吹佳寿という男です」
「矢吹? 誰だ、そりゃ?」
「素性は知れません。ここ数年で湧いて出たかのように王冠の中で頭角を現し、あっという間に国王の信頼を得たようです。どれだけ情報部が彼の生い立ちを調べようとしても、何も出てきません」
「青嵐の国民ではない可能性もあるな。……するとあれか、その矢吹って奴が青嵐王に大神核の情報を流したってことに……」
「なるかもしれません。もしくは傀儡にしたか。それに加えて、軍を率いるカリスマ性と、異常なまでの剣と神核術の腕。諸国に勇名を轟かす騎士の国玖暁が陥落してしまうのも、無理はなかったかもしれません」
「はは、それなら彩鈴は一時間ぐらいで陥落するかもな」
「縁起でもないことを」
彩鈴の軍備が玖暁と青嵐より劣っているのは確かなことだ。だが、言い返せないのは騎士団長として情けない。
「黎、俺のほうはもういい。少し真澄を見てきてやってくれ。あの様子じゃ、気絶でもさせねえ限り大人しく休みそうにはない」
「随分気にかけるのですね。まあ確かに、兄皇陛下は玖暁復興に欠かすことのできない存在ですが。玖暁が滅べば、情報報酬を取れる国がひとつ減りますからね」
「阿呆、そんな打算で言っているんじゃねえ。あいつら双子とはそれなりに長い付き合いでな、お人好しで正義感が強すぎて傷つきやすくて脆い性格は、本人たち以上によく知っている。遠い親戚みたいなもんだ、なんかこう守ってやりたくなるんだよ」
「兄皇陛下は騎士道を征く御方。間違ってもご本人の前でそのようなことを言わないように。おそらく、自分の身は自分で守ることを当然としておられます」
「違いねえ、がそれでも俺たちにとっては賓客だ。尽くすのは当然だろう。とっとと世話を焼いて来い」
騎士団長ともあろう者が、国王の小間使いになっていることもおかしい。
「はいはい」
逆らえないのもまた複雑である。
黎が執務室を出て賓客を迎える別館へ向かうと、一階ホールに真澄がいた。ひとりだ。
「兄皇陛下」
「……黎」
真澄が顔を上げて少し微笑んだ。気温が高くなってきているためか、額にうっすら汗をかいている。
「――と、これから呼ばせてもらってもいいかな?」
「勿論、光栄です。陛下、おひとりですか?」
「ああ。ここで気を張っても仕方がない。……座るか?」
ソファに座っていた真澄は、少し横にずれて座りなおした。つくづく気さくな人だと思いながら、黎は真澄に促されたまま、隣に腰を下ろした。
沈黙が続いた。と、真澄が無言のまま左手で右腕を抑えた。黎がさりげなく真澄を見やると、真澄は呪いの紋章を抑えていた。
「陛下?」
真澄は前に屈みこみ、身体を折り曲げた。汗の雫が床に落ちている。歯を食いしばり、声を出さないようにしているようだ。
「呪いの症状ですか?」
黎が真澄の傍に膝をついて問いかける。真澄は小さく頷いた。
「御堂殿を呼んできましょう」
「いや……いい。大丈夫だ」
真澄が立ち上がりかけた黎を制する。
「しかし……」
「しばらくすれば痛みが引く。……頼む、誰も呼ばないでくれ……」
頼むも何も、呼ぶなと言われた時点で、黎に呼ぶという選択肢はない。真澄は微笑んだ。
「これから、瑛士たちにはたくさんの迷惑をかけるんだ……こう何度も、心配はさせられない……」
「……心配させないために、ひとりになったのですね」
「そこまで見破られてしまうと、形無しだな……」
真澄はそう言って身体を起こした。真澄の言った通り、痛みが引いてきたようだ。
その呪いの紋章の色が、若干先ほどより赤いような気がする。呪いが進むと赤くなるということを知っているための錯覚かもしれないが。
「お強いですね、兄皇陛下は」
「……どうかな。強くあれるのだとしたら……傍にいてくれるみなのおかげだ」
真澄は額の汗を拭った。
「それでも――ひとりで痛みを耐えられる必要はないと思いますよ。辛いと言ってもらえたほうが、臣下もほっとするものですが」
そう諭すと、真澄は苦笑を浮かべた。
「分かってはいるんだが……私も、相当頑固な人間でな。みんなの前で無様を晒したくないんだ……」
「……陛下、この男が誰かお分かりですか?」
急に話を変えた黎は、懐から一枚の写真を取り出した。そこに写る男性の顔を見て、真澄が目を見張る。
「これは……私の伝令役を務めてくれていた……」
皇都照日乃の戦いで、真澄と前線を繋いでくれた伝令の兵士だ。それ以前にも何度か伝令を務めてくれている。彼は瑛士と昴流と巴愛が真澄を連れて脱出する際に彼らを護衛したあと、前線に突っ込んでいったと瑛士が言っていた。
「ええ、彼が彩鈴の諜報員でした」
「……恐るべしだな、諜報員。あんな傍にいたなんて……私の指示は筒抜けか」
「それが、その諜報員は心が変わっていたようでして」
真澄が首を傾げると、黎が微笑んだ。
「彩鈴の諜報員は通信機でいつでも報告をしてきます。あの日彼は兄皇陛下らの脱出を報告したあと、こう言ったのです。『国王陛下には申し訳ありませんが、私は兄皇陛下と弟皇陛下のお力になりたく、命を捧げます』と。そして彼は連絡を絶ちました」
「……!」
彩鈴の諜報員として潜り込んだ彼は、いつしか真澄と知尋に心からの忠誠を誓ってくれていたのだ。
「おそらく、諜報員であることは後ろめたかったでしょうね」
黎はそう微笑んだ。自国の諜報員が玖暁に心移りしたことはさほど気にしていないらしい。
「兄皇陛下。貴方は他国の人間でも引きつける力をお持ちです。そんな貴方の帰りを、玖暁では多くの人々が待っているでしょう。ですから、助けを求めることを躊躇わないでください。きっと御堂殿も、そうおっしゃいますよ」
「……有難う。そうする」
真澄はそう言って立ち上がった。
「部屋に戻る。あまり空けていると、瑛士らが気にするからな」
「はい、お気をつけて」
真澄がその場を立ち去った。黎はふうと息をつき、声を上げた。
「兄皇陛下も苦労しておられるが、そっちも気苦労が絶えないな」
その言葉に応じて後ろの柱の陰から現れたのは、瑛士だ。
「気づいていたのか」
瑛士は物陰からこちらへ歩み寄ってきた。
「兄皇陛下は、お気づきではなかったようだが」
「ああ。以前ならばすぐ見破られたのだがな……」
瑛士が悔しそうに呟く。黎が頷く。
「兄皇陛下はたいした御方だ。あんなにも臣下と同じ目線で接するとは……臣下ではない私に対しても」
「そういうお人だ」
「……先に出会っていたら、私は間違いなく兄皇陛下に仕えたいと思っただろうな」
「おいおい、時宮殿」
呆れたように瑛士が止めに入る。この国の人間は、どうやら遠慮という言葉は知らないようだ。
すると黎が苦笑した。
「この期に及んでその呼び方はやめてくれ。御堂、お前に丁寧な口調は似あわない」
「出会って一日の人間に俺の性格言われたくないんだけど。……まあなんでもいいが、鞍替えでもするつもりか? 真澄さまは寛大なお人だぞ」
王を馬に見立てる瑛士も、遠慮はない。
「いいや。私は狼雅さまにご恩がある……あの方が私を必要としなくなるまで、ここにいる」
「恩?」
「ああ。私と妹を救ってくれた。だからその見返りで、私は傍にお仕えしている。……今は心からあの人のためにありたいと思っているが、最初はただ義務だった。初対面であの人に忠誠心を抱くのは難しいからな」
瑛士は首を捻り、言葉を選びながら言った。
「よく分からんが、そんなものなんじゃないか。初対面で忠誠を抱けるなんて、代々騎士を務めてきた家系とかの人間だろう。俺はそんな大層な生まれじゃないし、真澄さまと知尋さまの傍に仕えるようになったのはそういう人事だったからだ。共に過ごしていくうちに互いを知ることができれば、それでいいと思う」
黎は瑛士を見つめ、それから吹き出した。瑛士が驚いて目を見張る。
「な、なんだ? おかしいことだったか?」
「……情報部の報告では、御堂瑛士という人間は冷静で慎重、理知的という印象だったが、あまりあてにはならなかったな。我が国の諜報員も、お前の上辺だけに騙されていたくちか」
「おいこら、色々失礼だな。どういう判断基準だ」
「聞きたいのか?」
瑛士はぐっと黙り、沈黙した。黎は微笑む。
「まあなんにせよ、互いに色んな意味で大変な主君を持つ身だ。お前とは長い付き合いになるだろう。よろしく頼む」
「むう……なんか釈然としないが、一応、よろしくな」
瑛士は差し出された黎の手を握った。
笑みを浮かべた黎は、ふと首をかしげた。
「ところで……あの巴愛という娘は、一体何者だ?」
「なんだ、掴んでなかったのか」
「彼女に関し、兄皇陛下も弟皇陛下も防御が堅かった。それだけ大事な存在なのだろうとは分かったが……」
瑛士は手を離し、少しの間思案した。ここで個人的に彼女のことを話していいものかと悩んだのだ。ちらりと黎を見やる。
「……私はおそらく、陛下らの旅に加われと王に命じられる。協力すると明言した以上、そうしなければならないからな。まあ、行くなと言われても私は行くつもりだが……」
「へえ、なんでだ?」
「報告を受けるのは飽きた。自分の目で、色々と確かめたい」
意外な理由に瑛士は呆気にとられたが、つまり黎とは本当にこれから長い付き合いになるということだ。だったら説明しておかなければならない。
「……分かった。だがこいつは玖暁でも最高機密だ。口外は許さんからな」
「ああ、信用してもらっていい」
「彼女は過去の玖暁の人間だ。なぜ、どうしてそうなったのかは知尋さまも把握できていなかったが、とにかく過去の時代からこの世界に次元移動してきたんだ」
「過去……というと、どのくらい過去だ?」
「世界が滅びを迎えるより、ずっと昔だ。一万年くらい前かな、という話を知尋さまがしていた」
さすがに黎の表情が変わった。
「神核も知らない。自分の住んでいた世界が未来で滅ぶことも知らない。再生暦以前の、最も豊かな時代に生きていた子なんだよ」
「……成程。両陛下が頑なに隠し通すわけだ。そんな歴史的価値の塊のような人間を放置はできないな」
その言葉に瑛士がむっとする。
「真澄さまたちはそういうつもりで巴愛を守っていたわけじゃないぞ。巴愛のために……」
「……ああ、分かっている。すまない、失言だったな」
すんなりと黎が謝ったので、瑛士は逆に戸惑って曖昧に頷いた。
黎としては調子が狂って仕方がない。王とは国のため、個より全を、感情より利益を優先させなければならないはずだ。だが真澄はことごとく逆だ。巴愛ひとりのために命をかけ、損得勘定ではなく彼女の身を守ろうとしている。それは美しいことかもしれないが、王の行動ではない。ないはずなのだが、黎はなんとなくそんな真澄のあり方を好意的に思ってしまう。いつものように考えると即座に瑛士に反論されるので、それを思い知ったのだ。
これから彼らと旅をするのなら、彼らの考えに順応しなければならないな、と黎は己に命じた。否――順応ではなく、戻ればいいのだろうか。けれどむしろ、感情的な人間の集まりを鎮めるために、自分はこのままでいたほうがいいのかもしれない――とも思ったのだった。
「連れて……いくのだろうな。彼女を」
黎の言葉は確認だ。瑛士が微笑む。
「危険は承知だ。それでも突っ込むのが、玖暁流ってな」
「守りながらの戦いは、きついぞ」
「お前の手は煩わせない。巴愛は、俺たちが守る」
ふっと黎は微笑んだ。
「彼女を邪魔者扱いするつもりはない。兄皇陛下やお前が守ると決めているのなら、私もそれに従うまでだ」
「そりゃ心強い。……が、俺は彩鈴の騎士団長殿がどれだけの実力者かを知らん」
瑛士の声の調子が変わった。
「手合せ願えんか、時宮」
「……相手を知るには、剣を交えるのが一番か。さすが騎士の国の騎士だな」
「分かっているなら話は早い」
正直瑛士としても、そんなことをしている場合ではないと理解している。しかしどうしても武人の血が騒ぐ。時宮黎というこの男が只者でないことは一発で見抜ける。その実力を知りたい。
「やれやれ……私は兄皇陛下のお世話を焼くように、と仰せつかってここへ来たのだが」
「大丈夫だ、世話焼き専門の奴がいる」
黎の言葉は勝負を受ける、と意味していた。なんだかんだで、黎も血の気は多いらしい。瑛士が指した人物が昴流であるということを察したらしく、黎は苦笑した。
「それに真澄さまは他人に世話焼かれるのを極端に嫌がる御人だ。早く慣れないと、鬱陶しがられるぞ」
「そうか。……私の武器は槍だ。間合いに入れるか?」
「舐めるなよ。これでも玖暁の前騎士団長の教えを乞うた身だ」
「『これでも騎士団長だ』とは言わないのか」
「そこまで自惚れてはない」
「まったく、よく分からないよ。武人気質なくせに謙虚なところもあって、玖暁の人間は」
呆れたように黎は肩をすくめ、踵を返した。その背が瑛士に「ついてこい」と告げている。瑛士はにやりと笑ってついていく。
これから真澄の傍に控える人間は見極めなければならない――瑛士はそう理由づけ、この強敵と剣を交える一種の息抜きを正当化したのだった。
★☆
巴愛はそのころ、あてがわれた客室にいた。昴流がお茶を淹れてくれて、ふたりでぽつぽつと話をしていたのだ。
「なんだか、すごく冷えてきたね」
巴愛の言葉に昴流が頷く。
「山をひとつ越えただけなのに、玖暁とは環境が全く違いますね。僕も初めて彩鈴に来ましたから、ちょっと驚きました」
「うん……ここが彩鈴なんだね。諜報の国……少し印象違ったかも」
巴愛の想像では、諜報をする人たちの国だと言うからもっと暗い感じかと思っていたのだ。だが城の部屋の窓から見える市街は賑わっているし、廊下ですれ違う使用人たちも優しい人だった。
「あたし、勝手な思い込みっていうか、偏見持ってたみたい。彩鈴って怖いなって思ってたの」
「そうですね……」
「青嵐も、きっとそうなんだよね?」
玖暁にとっての敵でも。そこに住む人々は同じ人間だ。当たり前のことだけれど、それを信じるのは意外と難しい。
「はい、きっと」
けれど危険なことに変わりはない。それは巴愛も理解していた。真澄たちは不正に国境を越え、目的のものを「強奪」しようとしているのだ。
「……ねえ。置いていかないでね?」
「え?」
「あたしがいて戦いづらいっていうのは分かってる。そういうときは、あたしちゃんと安全なところで待ってる。お願いだから、何も言わずに置いて行ったりしないで。ちゃんと帰ってくるって、約束してから行って?」
咲良が亡くなり、知尋と李生、矢須を失った。立て続けにたくさんの人を失った。「親しい人が突然いなくなる」というそのことを、巴愛は恐れている。両親と弟の事故死もそうだった。
昴流は微笑んだ。
「大丈夫です。僕が必ず傍にいます。僕は巴愛さんの護衛ですから。置いて行かれるなら、僕も一緒です」
「……うん。有難う」
巴愛も笑みを浮かべた。その笑みで心が揺れるのを昴流は感じ、自嘲気に内心で思う。ああ、僕はどうしてこんな損な役回りなんだろう――と。




