10 皇の母、遺されたもの
知尋が疲労困憊状態である、というのは確かにその通りなのだが、先程はあの場を抜け出すための口実として使ったようなものだ。自室の前まで来て、一応知尋に「休むか?」と問いはしたが、予想通り知尋は首を振った。
「こんな時に、休んでなどいられません」
「そう言うと思った……」
真澄は小さく呟いた。と、うしろから軽い足音が聞こえてきた。振り返ると、鮮やかな黄色の着物を着た女性が小走りに駆けてきた。真澄らより少し年上の、清楚な美人だ。
「兄皇陛下、弟皇陛下、お帰りなさいませ」
女性がふたりに頭をさげる。知尋が微笑む。
「ああ、咲良。ただいま」
彼女は真澄と知尋の寝所に出入りを許された、唯一の侍女である。それだけ信頼されているということだ。騎士の瑛士や李生にはできない日常の細々とした世話を彼女に任せている。
「丁度良かった、悪いがひとつ頼まれてくれないか」
「なんなりと」
「取ってきてほしいものがあってな」
そうしてあげた単語に、咲良は目を見張った。些細なことで動じないこの侍女が驚くのだから、相当である。知尋も初耳のはずだが、半ば予想していたのか笑みを浮かべた。
「それを母上の部屋に」
「皇母さまのお部屋に、ですか?」
「ああ。私たちもそこへ行っている」
疑問はあるだろうが、咲良はそれ以上何も言わず、「承知しました」と踵を返した。と、そこに矢須が現れる。咲良の会釈に会釈を返しながら、矢須が真澄らの元に歩み寄る。
「……誰にもつけられていないな?」
真澄の問いに、矢須が頷く。そして眉をひそめた。
「隠匿せねばならないほどのことですか?」
「……そうだな。貴族連中の耳には入れたくない話だ」
真澄は苦々しげだ。公平でなければならないのは、勿論分かっている。貴族がこの玖暁に欠かせない存在であるということも。だがそれでも疎ましく思ってしまうのだ。みながみなそうでないが、総じて欲深い彼らは目的のために手段を選ばない。そしてそれを容認してしまう権力がある。
真澄は踵を返し、巴愛にあてがった母の部屋へ向かい始める。その後ろに知尋と矢須が従った。
「実は、数日前に珍客が現れてな」
「珍客?」
「戦場のど真ん中にいた私の目の前に、忽然と姿を現した娘だ。別に空から降ってきたわけでも、勿論歩いて来ていたわけでもない。ただ、気付いたらそこにいたのだ。あまりのことで、つい助けてしまった」
つい、と言ったが真澄は巴愛を助けたことを後悔しているわけではない。状況と疑念を忘れ、後先考えず感情に流され巴愛を助けたことを悔いているのだ。そのあまりに無謀な行動は、常に命を狙われている存在で、しかも戦場で、あってはならぬことだ。巴愛に暗殺されていたとしても真澄の責任である。あのあと瑛士にこっぴどく説教されたのは言うまでもない。
「戦場に迷い込んだ一般市民か、青嵐の工作員ではありませんか?」
矢須の疑念はもっともだ。
「私たちも最初はそれを疑った。だが彼女はそのどちらでもなかった。こことは全く違う、神核が存在しない別世界の人間だったのだ」
「別世界……!?」
「話を聞いているとそうとしか思えんのだ。なあ、知尋?」
問われた知尋が頷く。
「何の力がどう働いたのかは分かりませんが、彼女がこの世界へ引き寄せられてしまったのは確かです。いずれ研究して、別次元へ渡れる術を編み出したいところですね……」
知尋は言いながら微笑んだ。そしてぽつりとつぶやく。
「……まあ、術が完成するころには、巴愛が元の世界に帰りたいと言うか微妙ですがね」
その呟きは真澄にも矢須にも届かなかった。
「成程、確かに珍客ですね」
「ああ。砦では仕方ないこととはいえ、私たちが彼女を特別視する様子を多くの騎士に見られた。しかも彼女の世界の技術は、我々より遥かに進んでいる。それを手に入れようとする者は必ずいる……行くあてのない彼女にはこれからここに住んでもらうが、それが貴族を避ける理由だ。納得したか?」
真澄の言葉に、矢須は微笑んだ。その笑みはどこにでもいる好々爺だ。
「真澄さまと知尋さまが判断したことです。異論はありません」
「そうか……」
「しかし、いつまで騎士と貴族たちの目を逸らせますかな」
「騎士団のほうは、瑛士と李生が態度で騎士たちに圧力をかけている。当面の心配はいらない」
「あのふたりの報復を恐れず、目の前に垂れている貴族のお金の釣竿に喰らいつく勇気ある者が、いるかもしれませんよ?」
知尋が冷笑を浮かべる。この弟は多分誰より激しい気性の持ち主で、報復する際はきっと知尋も参加するつもりなのだろう。時々真澄は本気で知尋が怖くなる。
「……その時は、私たちが牽制してやればいい。いつまでも隠し通せるとは思わん。せめて彼女が神核の扱いを覚え、この世界の常識に慣れてくれるまではここで守る……いや、言葉を飾っても仕方がないな。軟禁させてもらうしかない」
巴愛が狙われれば、勿論巴愛の命が危ないのだが、真澄と知尋の皇位が揺らぐ可能性がある。真澄にも知尋にも世継ぎがいない以上、そうなっては国家の存続に関わる。
巴愛の部屋の前まで行くと、廊下に昴流が立っていた。真澄が声をかけるより早く、知尋がからかいの言葉を投げかけていた。
「おや、どうしました? 何か悪いことをして廊下に立たされているんですか?」
「ち、違います! 自主的にです」
「ふうん……案外神経質なんですね」
昴流が沈黙してしまったので真澄は知尋をたしなめた。昴流は扉をノックする。
「巴愛さん、陛下がお見えです。入っていただいて大丈夫ですか?」
『はっ、はい! どうぞ』
中から慌てた声が聞こえ、昴流が扉を開けて真澄らを中に入れた。
ソファに座っていたらしい巴愛が、その前に直立している。真澄と知尋に加え、見慣れぬ老人が一緒なので戸惑っているようだ。真澄が微笑む。
「部屋はどうだ?」
「あたしには勿体ないくらい、素敵なお部屋です……ここ、真澄さまのお母さまのお部屋なんですよね? 良いんですか……?」
「すまんな、母の部屋だと分かれば君が委縮してしまうというのは分かっていたのだが、他に選択肢がなかった。こちらの都合で勝手に決めてしまったのだ、そう遠慮しなくともいい」
「いえ、そんな、有難う御座います」
真澄は巴愛に座るよう促し、おずおずと座った巴愛の向かい側に真澄と知尋が座る。真澄は矢須を指示した。
「巴愛、紹介する。この男は矢須桐吾といい、私たちの元で宰相を務めてもらっている。最も信頼している者だ」
老人が巴愛に頭を下げた。宰相と聞いて巴愛は飛び上がる。宰相と言えば、皇の傍で国政を補佐する廷臣の最高位だ。そんな人に頭を下げさせるなど。
「矢須、先程説明した九条巴愛殿だ。そして、その護衛に任じた小瀧昴流」
そう真澄が説明すると、矢須が「おや」と片眉をあげた。
「小瀧というと……」
「ああ。彼を選んだのは瑛士だから、まあ嬉しい偶然と言ったところかな」
「案外瑛士も狙っていたのかもしれませんよ? あれでいて、人物関係はよく理解しているようですから」
巴愛にはさっぱり事情の分からない会話である。と、その昴流が口を挟んだ。
「……あの、陛下。そのことなんですが、巴愛さんにも同性の知り合いが必要だと思います」
「当然、それは考えてある」
真澄が微笑んだとき、扉がノックされた。昴流が条件反射で扉を開ける。現れたのは咲良だ。手に大きな箱を持っている。
「陛下、お持ちしました」
「ああ、ご苦労さま」
「いえ……って、あら」
咲良が目を瞬き、扉を開けている昴流を見上げた。――とそこで巴愛は、昴流が案外背が高いことに気付いた。真澄も知尋も李生も一八〇近い長身で、瑛士などそれ以上であったから、おそらく一七五センチ前後の昴流が目立たなかったのだ。ただでさえ巴愛はバレーボールをやっていたので、一六九センチあるのである。
昴流が引きつった笑みを見せる。
「……ひ、久しぶり」
「昴流! どうしてここに?」
咲良がぱっと表情を明るくした。昴流はそんな咲良をスルーし、巴愛の前に咲良を押し出した。
「巴愛さん、僕の姉の咲良です」
「……昴流のお姉さん!?」
巴愛は仰天した。そう言われてみれば顔立ちが似ていなくもない。しかしこれはどういうことなのだろう。
「姉は十年前の折、僕とともに改革派につきました。つまり思想的に僕と同じ人間だということです。ですから、この寝所に唯一入ることを許され、いまは陛下付きの侍女として働いています」
完全な「白」である、ということだ。巴愛は理解したが、今度は咲良のほうが理解できていないようだ。
「どういうことなの?」
真澄が苦笑を浮かべた。
「説明が遅くなってすまない。実はな――」
真澄が巴愛のことについて説明すると、彼女も優秀な侍女としての顔を取り戻していった。さすが昴流の姉というだけあって、頭の回転は速いらしい。
「……というわけで、巴愛はこれからここに住むことになった。お前への負担が増えることになるが、巴愛の生活の手伝いをしてやってほしい。騎士である小瀧にはできぬことを、咲良に任せたい。大丈夫か?」
「勿論、お任せください」
咲良が慈愛に満ちた優しい笑みを浮かべた。
「巴愛も、それで平気そうか?」
「は、はい」
ほかならぬ昴流の姉で、真澄と知尋が信頼をおいている侍女なら、巴愛には何の心配もない。
「良かった。……なら早速、着替えてもらおうか」
「へ?」
真澄の唐突な言葉に巴愛は拍子抜けした声を上げる。真澄が咲良に頷いて見せると、咲良が微笑んで巴愛の手を取った。
「さあ、行きましょう?」
「え、あの……」
巴愛は咲良に引きずられる形で、寝室の中に連れて行かれた。扉を閉める際、咲良は振り返って弟を見やった。
「昴流」
「……な、なんだ?」
「覗いたら承知しませんからね?」
「だっ……誰がそんなことするか!」
素で怒鳴った珍しい昴流にも、咲良は「おほほ」と上品に笑って扉を閉めた。そしてご丁寧に鍵までかける。
「さて……改めまして、私、小瀧咲良と申します。未熟者ではありますが、どうかよろしくお願いしますね」
咲良が腰を折って優雅に一礼した。言葉遣いといい、動作といい、まったくたいした人だ。
「は、はい、こちらこそ……あたしは九条巴愛です。色々ご迷惑をおかけすると思いますが……」
「ふふ、そんなにかしこまらないでくださいな。昴流に対するのと同じように話してください」
咲良は持っていた箱を机に置き、蓋を開けた。それを覗き込んで「あっ」と声を上げた。そこに収められていたのは、淡い紫とピンクのグラデーションが美しい着物だったのだ。
「さあ、お召し物を替えましょう」
「でも、あたし着物着たことなくて……」
「私がお手伝いしますから、大丈夫ですよ」
咲良がそう言って、問答無用とばかりに巴愛の洋服を引き剥がしはじめた。
着物を着るという作業は、思っていたほど複雑ではなかった。日本人が祝いの席などで正式に着る着物を、もっと簡略化したものである。これならひとりでも着られそうだ、と巴愛は安堵する。
「……弟は、巴愛さんにご迷惑をおかけしていませんか?」
巴愛が今まで無造作に束ねていた長い髪を綺麗に結い直しながら、咲良が尋ねる。巴愛は微笑んだ。
「とんでもないです。何も知らないあたしに色々教えてくれて……本当に感謝しています」
「そうですか……改革が成って十年、あの子はそのすべてを騎士として捧げてきました。だからこうしてゆっくりと顔を合わせたのは、本当に久しぶりのことで。護衛に推薦されたと聞いて、とても驚きました」
咲良は巴愛の結った髪を櫛で梳きながらそう口にした。不意に巴愛は、あることを尋ねた。
「……昴流と、幾つ違いなんですか?」
「六歳違いです」
「……あたしと湊と同じだ」
巴愛はぽつっと呟く。昴流のことを話す咲良は姉の顔だ。湊が生きていたら、きっと自分もそんなふうに弟のことを話すことがあったかもしれない。
「湊、とは?」
「あたしの弟です。子供のころ、事故で亡くなったんですけど」
「そうでしたか……申し訳ありません、お辛いことを思い出させて」
「ち、違います! あたしが勝手に落ち込んでいただけですから」
慌てて弁解すると、咲良が微笑んだ。
「お優しいですね。そんな巴愛さんだからこそ、昴流も貴方の護衛を受け入れたのでしょう」
「え?」
「見れば分かるんです。任務とはいえ、あの子は気に食わない人間に仕えることを良しとしません。その点、貴方の傍にいる昴流は生き生きとしていて……あんな弟は初めて見ました。巴愛さんが昴流を変えてくださったんです」
「……」
「こんなことをお願いする立場ではありませんが……昴流のこと、信じてあげてくださいね」
「はい……勿論」
巴愛の言葉に咲良が頷き、櫛を置いた。そして鏡の前に巴愛を立たせた。
「終わりました」
鏡に映った自分の姿を見て、巴愛は言葉を失った。自分でないみたい、とはよく言う表現だが、まさにその通りだ。着物を着たのは初めてだが、そうは思えないほど馴染んでいる。薄い紫がよく映えていた。
「お似合いですよ」
「そ、そうですか……?」
「……この着物は、皇母さまが好まれた着物なのだそうです」
皇母と言われてぴんと来なかったのだが、巴愛はすぐに気付いた。
「皇母さまって、真澄さまたちのお母さまのこと……?」
「はい。陛下はこの着物を大事に保管しておられたんですよ」
「そんな大切な着物を……!?」
咲良が微笑んだ。
「巴愛さんは、兄皇陛下からも弟皇陛下からも、とても大切に思われているんですね。うふふ、一目ぼれだったのかしら?」
巴愛は顔を真っ赤にした。咲良に背を押されて寝室から出ると、待っていた男性陣が一斉にこちらを見てまた俯く。真っ先に口を開いたのは知尋だ。
「似合っていますね。ね、真澄?」
「ああ……」
真澄が頷く。咲良がにっこりと微笑んだ。
「兄皇陛下。目を見てはっきり言ってあげてくださいな」
「う……」
真澄が頭を掻く。巴愛が顔を上げると、困ったような表情の真澄と目が合う。真澄はふっと肩の力を抜くと、いつものように優しい笑みを見せてくれた。
「……よく似合っている。綺麗だよ」
「……!」
巴愛がいよいよ本格的に頬を赤くした。そういう歯の浮く台詞をさらりと言ってのけてしまえるのは、やはり皇の貫録か。
「あ、あの……この着物……」
「君に着てもらえるのなら、天の母も満足する。……と、私は思っている。しまわれておくよりずっといい、もらってやってくれ」
「あ……有難う御座います」
巴愛はそれ以上真澄の目を見ることができなかった。その様子を、知尋と咲良がにこにこしながら眺めていたのである。
「今日はもう疲れたろう。私たちはこれで引き上げる。仕事もあることだしな」
真澄がそう言って腰を上げた。知尋が巴愛に言う。
「明日すぐにでも、神核の使い方をお教えしますね」
「え、でも……」
「弟皇陛下自ら、ですか?」
巴愛と昴流が同時に声を上げた。知尋は順番に問いに答える。
「水を出すのにいちいち人を呼ぶのは面倒でしょう? 神核の扱いは急いで覚えたほうがいいです。騎士団はこれからしばらく休暇に入りますから、小瀧も何日かは休みを取りなさい」
「はあ……」
昴流は頷き、大人しく引き下がった。
「……ああ、そうだ」
真澄が急に振り返った。何を言われるのかと硬直した昴流その人に、真澄は話があったのである。
「分かっているとは思うが、これからは小瀧がふたりになってしまうことだし、昴流と呼ばせてもらうぞ。名前で呼んだからといって、いちいち飛び上がったりするなよ」
「……! 光栄です」
昴流が表情を和らげる。知尋も頷く。
「ん、じゃあ私も便乗しようかな。巴愛、昴流、よろしくね」
知尋の口調も一気に砕けた。巴愛も嬉しそうに頷く。
身分が全然違うのに壁らしい壁がない。それはすごく心地いいことだった。




