第79話 月はみていた
教会に併設されていた孤児院の一室。
そちらを借りたティエラ達四人は、明け方には出発することを話し合った。
その後、各々眠りに就くことになったのだが――。
(なかなか寝付けないわね――)
ティエラは、部屋を出る。
廊下で、たまたまモニカに出会った。
「ティエラ様、眠れないのですか?」
「はい、そうなんです」
「でしたら、こちらをどうぞ」
モニカから手渡されたのは、一冊の魔術書だった。
「たまたまプラティエス様の弟子である方が、孤児院に置き忘れたものになります。ティエラ様とソル様も知っているセリニ様という方なのですが――」
彼女に名を告げられたが、思い出すことは出来なかった。
モニカに曖昧に返答した後、孤児院の裏口から外に出る。
数段だけある階段に、ティエラは腰かけた。
夜風に当たりながら、朧気な月の灯りを頼りにしながら、ティエラは魔術書を読みはじめる。
(今日の夜空は少しだけ雲も多いわね――)
時々読みづらいこともあったが、概ね本を読むのに彼女は困らなかった。
(私の記憶はだいぶ戻ってきている……おそらく七歳頃までの思い出はしっかりしているわ……以降の記憶はまだぱらぱらとしか戻っていないけれど……)
特に、魔術に関する知識の欠落はひどい。
(少しずつだけど、勉強し直そうと思っていたから、本を借りることが出来て、本当に良かった)
ティエラがちょうど第一章を読み終わったかと言う頃――。
「眠れないのか?」
彼女は頭上を振り仰ぐ。
「ソル……」
ティエラの護衛騎士である、紅い髪に緑の瞳をした青年ソルが顔を見せていた。
「少しだけ眠れなくって……ソルはどうしたの?」
「あんたが外に行ってるのが見えたから、追いかけてみた」
「そうだったの?」
ソルが、ティエラの右隣に座り込んだ。
「ああ。あんた、子どもの頃から、目離したらすぐどっかに行くからな」
「そうだったかしら?」
ティエラの記憶の中で、自分はいつもソルと一緒にいたような気がしていたが――。
七歳以降のティエラは、ソルから離れることもあったようだ。
「ちょうどその頃、あんたがルーナと婚約したからな……まだその辺りの記憶は戻ってないのか?」
「ルーナと婚約した頃の記憶は、まだ戻っていないわ」
ティエラは、うーんと唸る。頭を捻ったが、婚約当時のことは思い出せなかった。
「まあ、ルーナとの婚約の頃の話とか……無理して思い出さなくても良いんじゃないか……」
少しだけ歯切れが悪そうに、ソルはティエラに語りかけた。
(ソル、どうしたのかしら?)
彼女は隣に座る彼をじっと見つめる。
「どうした?」
「ソルは、一応簡単なものなら魔術が使えるわよね?」
「ああ。ルーナとは違って、魔力は高くはないけどな」
ティエラから、ソルはふいと顔をそらした。
(なんだか今日は、珍しくソルの口からルーナの話題が多い気がする)
ティエラは気になってしまい、さらにソルに視線を注ぐ。
彼はややたじろいだ様子で、彼女を見返した。
「……それで? 魔術がどうしたんだよ?」
「えっと……一応、一人で魔術の勉強をしなおしてたんだけど、ちょっと分からないところがあるの。だから、ソルに教えてもらえないかなって」
「は? なんだよ、どこだ。見せてみろ」
ティエラの本を覗くためにソルが乗り出す。彼女が分からないと言ったところを、彼は案外と分かりやすく説明してくれた。
「分かりやすかったわ。ありがとう」
その時――。
眼前にソルの顔があることに、ティエラは気付いた。
彼女の胸はどきんと跳ね、顔は赤くなってしまう。
慌てて、ソルの顔と彼女は距離をとった。
「やっぱ、記憶のないあんたも面白いな」
ソルが少しだけ笑う。
そんな彼を見て、ティエラ思わず口を開いていた。
「私、大公プラティエス様のこと……叔父様のはずなのに、全然思い出せなくて……」
「は? さっきも似たようなこと言ったけど、無理に思い出す必要――」
ティエラは、ソルの袖を右手でぎゅっと握る。
彼女はそのまま彼を見上げる。
「思い出したいなって……」
ティエラの一言で、ソルは一瞬だけ動けなくなった。
彼女が記憶を思い出すための方法、それは――。
「分かった――」
雲で隠れていた月が、顔をまた覗かせる。
――その頃には、どちらともなく、二人は唇を重ねていた。
月に照らされながら、ティエラは失くした記憶を求めるように、ソルの唇を何度も求め、応えてもらったのだった。




