第155話 子守唄を聴いて
遠くで、子守歌が聞こえる。
(誰の声だろうか?)
懐かしいような、聞くと胸が愛おしくて苦しくなるような――。
揺蕩う記憶の波間で、ルーナは考えていた。
彼の瞳は、太陽が沈んだ後の空のように暗い蒼のように見える。
(初めから、運命に抗わずに、あの男に姫様を託してしまえば、こんなに苦しくなかったのだろうか――?)
ルーナは、全ての能力において婚約者の護衛騎士ソルに勝っていた。
大公プラティエスから、ルーナは玉の一族の始祖の先祖返りだと言われた。始祖たちは、一応は神だとされる。つまり、ルーナは神に等しい存在だとも言えた。
だからこそ、神の血が薄まり人間にほぼ近いソルと比べれば圧倒的な強さを誇る。それもやむなしだった。
紅い髪に碧の瞳をしたソルは、いつも悔しそうにルーナの事を見ているのを、ルーナ自身も気づいていた。
ソルが、ルーナの婚約者であるティエラに護衛騎士以上の気持ちを抱いていることも知っていた。だけど、彼女の婚約者は自分自身だからと、勝ったような気持ちになることもあった。
ソルの全てに勝っているはずの自分とは違い、欠点もあるソル。
だけど、ルーナとは違い、ソルの周囲にはいつも誰かの存在があった。
ソルは誰からも愛されていた。
家族はもちろん、友人や騎士の皆――。
自分の従者ウムブラや従兄弟セリニでさえも、ソルを可愛がっていた。
(あの男には――太陽のようなソルの周りにはたくさんの人達が集まっていた)
「ソル」
ルーナの婚約者であるティエラが、ソルに向かって華のような笑みを浮かべている姿が思い浮かんだ。
ルーナが愛してやまない彼女でさえも、ソルの事を愛した――。
戦後、ソルとティエラが恋人同士になったことさえ、周囲は黙認した――。
(誰も、私と姫様が幸せになることを望んでいない――)
ルーナは孤独だったし、自分の立ち位置が分からなくなった。
ティエラの名ばかりの婚約者である自分の存在が滑稽でさえあった。
(私しか、姫様を救える者はいない――)
ソルでは彼女を救うことは出来ない。
なんとか自分を奮い立たせて、ルーナは彼女を救うための研究に没頭した。
本当は彼を見ていた人もいたのかもしれないけれど、本当に欲しい相手からの気持ちを得ることが出来なかった。
(姫様が助かるのを見届けたら、消えてしまおう――)
彼は、ティエラに忘れられてしまった約束だけを支えに、ずっと生きていた。
やっとで、その夢が叶うと思ったのに……優しいティエラが、自分の気持ちを押し殺して、無理にルーナを愛そうとしていたことに彼自身が気づいてしまった。
(姫様と本当の家族になれると、思ったのに――)
結局彼女から得られたのは同情だけ。
子どもの父親だから仕方なく一緒にいようと思ったに違いない――。
(結局、私は、誰からも愛されず一人きりなのだ――)
※※※
「ソル、お願い――」
ティエラはしばらく竜に子守唄を聞かせた後、ソルに願いを告げる。
「もう一人の『ルーナ』を祓ってあげて」
ソルは頷くと、ティエラとルーナの傍に寄る。彼は神剣の切っ先を、竜の身体へと向けた。
竜は、自身の『兄弟』になりたいと言った紅い髪に碧の瞳をした青年を思い出す。
「グラディウス――そうか、君は、本当は――」
ソルがルーナに向かって剣を振るう。
金と銀の光に包まれたままのルーナの身体が崩れ落ちた。
※※※
ティエラ達が、『鏡の檻』と呼ばれる異空間へと向かう前の出来事――。
ソルと共にルーナの元へと向かおうとするティエラは、くぐもった男の声に呼び止められた。
「姫様、ソル様……ルーナ様をどうか――」
声の主は、ルーナの付き人であるウムブラだった。
ヘンゼルとグレーテルの姉妹が、地面に倒れる彼の介抱をしている。
三人とも艶やかな黒髪を持っていた。
(三人の関係性に気づけていなかったわ――)
少しだけ離れた位置にいた、ルーナの従兄弟であり、白金色の髪に紅い瞳を持った青年セリニは、倒れ伏したウムブラをちらりと見た。その後、彼の言葉の引き継ぐようにティエラへと告げた。
「我等の『弟』をお願い致します、姫様」
『弟』
ウムブラとセリニにとっては、ルーナは『弟』のような存在だったのだろう。
(私以外にも、彼にはこんなにも――)
『家族』が存在したのだ。
※※※
ティエラは、地面に倒れたルーナの上半身を抱き起し、膝の上に乗せ、彼の身体をそっと抱きしめた。
ソルは、二人の傍らに跪き、ルーナが目覚めるのを待っていた。
「ルーナ、私が貴方を選んだのは、お腹の子の父親だからだと思っているの――? 私が無理に貴方を愛そうとしていると思っているの――? ――だったら、違うわ――」
だけど、彼は一向に目を覚ますことはなかった。
「ごめんなさい、ルーナ。私は、貴方の想いに応えるよりも、貴方を見なかった時期の方が長かったから、すぐに信じることができないのね」
ルーナの冷たい頬に、ティエラの涙が零れる――。
「これから、貴方が信じてくれるまで、何度でも伝えるわ――だから、目を覚まして、ルーナ――私と子どもを守るんじゃなかったの?」
ティエラは彼の頬に、自身の頬を寄せる。
彼がいつもしてくれたように――。
ティエラの纏う金と銀の光が、ルーナの身体を包み込んだまま、揺れる。
『ルーナお父様のために、歌ってあげて』
ティエラのお腹の中の子が、彼女にそう告げた気がした――。
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