第153話 竜の記憶
鏡の神器の力を使い、ティエラはソルと二人で『鏡の檻』と呼ばれる空間に降り立った。ティエラが、この不思議な空間に来るのは三度目だ。所々、宙に岩が浮かんでおり、現実世界ではないことが分かる。
神器の使い手の三人しか来れないこの空間に、これまで永い間、竜は一人で閉じ込められてきたはずだ。
「ソル、ルーナはどこにいると思う?」
ティエラがソルに問いかける。その際、どこからか風が吹き、彼女の亜麻色の長い髪と淡い空色のドレスを揺らした。
周囲に風の渦が巻きはじめる。
同時に突風が二人を襲う。
ティエラは小さく悲鳴を上げ、切り立った岩場から飛ばされかけた。
「離れるなよ、ティエラ!」
紅い髪に碧の瞳をした、彼女の護衛騎士ソルが叫んだ。
彼は、ティエラの身体を抱き寄せると同時に魔術陣を生成する。
襲い掛かって来た強風は、陣に全て跳ね返され、むなしく消えて行った。
――その場に、涼し気な声が響く。
「ほら、月の化身、見なよ。わざわざ、君の愛するお姫様とその恋人が、仲良く二人でここまで来てくれたよ。せっかく、僕を取り込んで現実から逃げようとしたのにさ――。もっと苦しみなよ、僕を苦しめた、月の化身――!」
ルーナの身体に憑いた竜が、ティエラとソルの前に姿を現す。
彼は楽しそうに笑んでいた。話しながら、魔術を何度も二人に打ち込む。彼の白金色の髪が風になびき、蒼い瞳にはどことなく暗い光を宿していた。
「剣の一族の男! お前も僕を騙したあいつによく似ている! 虫唾が走るよ!」
ルーナに憑いた竜が、帯刀していた細剣を引き抜き、ソルへとそのまま剣を撃ち込んだ。
ソルは右腕でティエラをかばいながら、左手で握る神剣で相手の攻撃を防ぎ、剣を跳ね返した。
「お前の言う男と、俺は違う人間だ。それはルーナも同じだ」
ソルはティエラを背後にやると、跳躍し、竜に向かって剣を閃かせる。
「ルーナの身体から出なさい!」
ティエラが、竜に向かって叫ぶ。
竜は細剣でソルの剣をいなし、彼から距離を取った。
「今のお前たちを見て、月の化身は引っ込んだよ。こいつは、自分から僕を取り込んだんだ。そっとしておいてあげなよ」
皮肉めいた笑みを浮かべて、ルーナに憑いた竜がティエラに告げる。
ソルは一旦攻撃の手を休め、二人のやり取りを見守った。
「嫌よ」
ティエラが答える。
ルーナについた竜が、鼻白む。
「傲慢だな。別に愛する男がいるのに、愛していない男の子を孕んだお前を見ていると、反吐が出るよ。そうやって生まれて来た子が不幸になっていくんだ。お前みたいな、男を振り回す女がいるから、子どもが不幸になっていくんだ。自分は間違って生まれて来たんだって後悔するんだ――」
ティエラの金の瞳に強い光が宿る。
「それは、貴方自身のこと? 竜――いえ――」
ティエラは、ゆっくりと口を開く。
彼女が声に出したのは――。
――竜の本当の名。
そばで聞いていたソルが目を見開く。
ルーナに憑いた竜の、蒼い瞳も揺れた。
※※※
(もう何も見たくないから、竜の意識を取り込んだのに――)
竜と同化しつつあるルーナは、暗闇の中にいた。
ティエラとソルの二人の姿を見て、ルーナは怖くなって意識を手放してしまった。
彼は、自身と竜と呼ばれる少年の記憶の境が曖昧になりつつあった。
※※※
これは、どちらの記憶だろうか――。
「出して! 父様、出してよ! 僕、良い子になるから! お願いだよ……!」
真っ暗闇の空間に閉じ込められた幼い少年は、泣きながら外に居る父に向って叫んだ。
彼は本来、白金色に煌めく髪を持っているが、今は闇に染められ何色をしているのかは分からない。
何度も扉を叩いた彼の拳には血が滲んでいた。
「ねえ、どうして……」
泣きじゃくる少年の前の扉がわずかに開き、光が差し込む。
「ルーナ」
低い男の声が届く。
少年は、眩しさで思わず目を瞑った。
次第に光に慣れていく。
そこに立っていたのは自身の父親の姿だった。
後光で、父の全身は陰になってしまっており、その表情は少年には分からなかった。
(良かった……父様は、僕を許してくれたんだ……)
だが、男が少年に放った言葉は無情にも、少年が期待した言葉ではなかった。
「お前なんか、生まれて来なければ良かったのに……ルーナ……」
心がえぐれてしまうようだった。
少年の――金の瞳が揺れた。
※※※
「僕には家族がいないんだよ、グラディウス」
玉の一族の特徴である白金の瞳と、鏡の一族の特徴である金の瞳を持つ少年が、哀し気に呟いた。
「お前に家族がいない? 血のつながった兄弟もいるだろう?」
少年に答える相手は、剣の一族の特徴である紅い髪に碧の瞳をした青年だった。
「貴方も知っているでしょう? 僕は、本当の父様であるカスレフティス様からも、スフェラ叔父上からも嫌われているんだ。母様だって、新しく出来た弟のことしか見ていない」
膝を抱え、金の瞳を揺らす少年に対して、グラディウスと呼ばれた紅い髪の青年が告げた。
「だったら、俺がお前の兄弟になってやるよ」
「え?」
「血のつながりはないけど、お前の『兄弟』にさ。なあ、――」
太陽のように笑うグラディウスは、少年の名を呼んだ。
兄弟と言った彼の言葉が、少年の心を打った。
だけどグラディウスは、影で少年を殺すための剣を打っていたのだった――。
※※※
ティエラから、本当の名前を呼ばれた竜はたじろいだ。
彼女はゆっくりと、竜の方へと向かって歩く。
「人は、どうしても間違える生き物よ――」
ソルのそばまで歩いてきたティエラを、彼は制そうとした。だが、彼女は首を振る。
ティエラは、竜が憑いたルーナの元へと進んだ。
「だけど、間違って生まれて来た子なんて、この世に存在しない」
ティエラを、金と銀の光が包み始める。
「私が貴方を癒してあげるわ」
彼女は続けた――。
「もう一人の――」
竜の本当の名を告げる。
「『ルーナ』」
それはティエラの婚約者と同じ、月を冠する名――。
真名を呼ばれた竜は、その場から動けなくなる。
――ティエラは、夢で聞いた子守唄を紡ぎ始めた――。




