【正史】0-25 月と大地はすれ違う3
ティエラ12歳
ルーナ22歳
気付いたら、ティエラはルーナに口付けられていた。突然口を塞がれて、どうして良いか分からなくなる。目を見開いたまま、混乱している内に、彼の唇が離れた。
眼前に、月の化身と称されるルーナの顔が目に入る。彼は、男性だけれども、老若男女問わずに惹き付ける美貌の持ち主である。そんなルーナの蒼い瞳から、唇に目が行った。
(……今の……)
これまでも、彼から抱き締められたり、頬に触れられたりはしていた。先程のように、髪に口付けられることもあった。
だけど、ルーナと唇を重ねたのは初めてだ。
混乱していたティエラだったが、状況を理解していくにつれ、顔が火照っていくのを感じた。おそらく、首まで真っ赤になっているはずだ。ルーナの顔が見れなくなり、俯いてしまう。
彼がティエラの髪を手に取っていたが、思わず手で払い除けてしまった。
「あ……あの……ごめんなさい……」
いたたまれなくなり、ティエラはルーナの脇をすり抜け走り始めた。
「姫様!」
ルーナの呼ぶ声が背後から聞こえた。けれども、ティエラは振り返らずに扉から走り出たのだった。
※※※
ルーナの部屋から飛び出したティエラは、自分の部屋に向かって駆ける。
指で自身の唇に触れた。
ティエラは、霊魂に憑かれやすい体質だ。それが原因で、池に溺れたり、崖から落ちたりと九死に一生を得た体験が多い。
ソルから「人工呼吸しといた」と、事後報告されたことはよくあった。
だけど、ちゃんとした男女の口付けを、誰かと交わしたことは今まで一度もなかったのだ。
「きゃっ!」
前を見ずに走っていたからか、誰かとぶつかってしまう。
ティエラはよろめき、たたらを踏んだ。
「姫様、申し訳ございません。私の不注意でしたわ。大丈夫でしょうか?」
彼女に声をかけた女性は、ヘンゼルだった。
艶やかな黒髪を頭頂部で一本に結っている。やや吊った瞳にふっくらとした唇を持つ、とても綺麗な女性だ。
元々ティエラの御世話係だった彼女だが、今はルーナの付き人になっている。
ルーナとヘンゼルは、年がほぼ同じだ。彼と隣に立った時、ティエラだと見劣りするが、ヘンゼルだと絵になる。
皆の噂の事もあった。
周囲が言うように、ルーナはヘンゼルに好意を抱いているのかもしれない。もしくはティエラ自体に不満があるから、他の女性とも噂になるのかもしれない。
とにかく今は、あまり顔を合わせたくはなかった。
「ちょうどルーナ様の申し付けで、姫様の好きな菓子を準備しておりました」
「さっきいただいたから。もう大丈夫よ、ヘンゼル」
ヘンゼルに対し、無理に笑顔を作った後、ティエラはまた部屋に向けて走り出した。
ヘンゼルに出会ったことで、ティエラの心の中に疑念がわき始める。
(きっと、彼は誰にでも同じことをやっているんだわ)
回廊を駆ける。
『夜、会ったら何があるの?』
昔、ソルにそう尋ねたことがあった。
『お前が傷つくかもしれないから、教えないかもしれない』
ソルは知っていたから、自分には教えなかったのだろう。
でも、もう以前のように自分は幼くはない。
ティエラにももう検討がついている。
彼が、他の女性にも自分と同じこと、いや、それ以上の事をしているのだと思うと嫌悪感がある。
ティエラはルーナに口付けられた唇を、手の甲で何度も拭った。
一方で――。
もしかしたら、ルーナがティエラに早く大人になってほしいと思っているのではないかと考えてしまう。
彼は本当はティエラが好きだが、今は仕方なく別の女性とも関係があるだけだと。
どこかに彼へ期待している部分がある。
ティエラの中に、矛盾した気持ちが、まだ微かに残っていた。
※※※
「ルーナ様、どうなさいました? 姫様がいらしてたんじゃ?」
ウムブラは、支えているルーナへと声をかけた。
男性から見ても、ルーナは綺麗な顔立ちをしていると思う。
彼は、窓辺に立ってぼんやり外を眺めて立っていた。
――事の経緯はこうだ。
「ルーナ様が、変?」
ウムブラは、ヘンゼルから声をかけられた。
「ええ、ずっと窓の外を眺めて立っていらっしゃるの。ウムブラ、忙しいのは分かるのだけど、貴方が行ってみてくれないかしら?」
彼女がわりと必死に頼んできた。そのため、頼みを無下に断ることが出来なかった。
そろそろ自分も戦地に行かないといけないというのに、やれやれ自分の主人は何をやっているんだ。
そんな気持ちになりながら、彼の部屋を尋ねた。殺風景で何もない場所だ。ヘンゼルの報告通り、ルーナは窓辺に立ち尽くしていた。
――というわけで、現在に至る。
ルーナが彫刻のように固まって動かないのも珍しい。
確か、ティエラ姫を部屋に招くと言っていたはずだ。
その姫様は、彼の近くにはいない。
彼女は、体調でも悪くなったのだろうか?
ウムブラは、いつも通り冗談から入ろうと思い軽口を叩いた。
「あ、もしかしてルーナ様、うっかり姫様に口付けたりしちゃったとか~~? 冷静な貴方に限って、さすがにそれはないですよね~~」
その言葉に、微動だにしなかったルーナがこちらを見た。
彼の蒼い瞳が揺れている。
「え? まさか、当たっちゃいました~~?」
軽い態度のまま、ウムブラは続けた。
まさか、図星だとは思わなかった。
「初めて、だったんだ」
姫様のことだろうと思って、ウムブラは黙ってルーナの話を聞いた。
うんうん頷いたが、その後話が続かない。
ひとまず何か聞いておくかと思って、ウムブラは適当に尋ねてみた。
「まだ姫様はお若いですから、口付けは初めてだったでしょうね~~」
「……? ……いや、私の話だが?」
至極真面目な顔でルーナは、ウムブラを見ていた。
(……ルーナ様の、話?)
「は……はい!?」
かなりおかしな声が出た。
ウムブラは自分でも驚いている。
「何かおかしな事を言っただろうか?」
おかしいも何も……。
ルーナには、身体の関係のある女性はかなりの数存在するはずだ。
ただ、彼の方から女性に声をかける姿は見たことはない。それにおそらく、貴族の令嬢や婦人達と床を共にするのは、裏の情報を入手しやすいといった理由があるのだろう。
ルーナは、何かを利用する事に躊躇がない。その『何か』には、彼自身の体も含まれている。
それこそ裏の情報で、ルーナが幼少期から男娼紛いのことをさせられていたと聞いた事がある。だから、自分の体を大切にする感覚が分からないのかもしれない。
ただ、残念なことだが……。
ルーナの事情を知らないティエラ姫からすれば、彼が別の女性と何か関係があるというのは、自分への裏切り行為だとしか思われないだろう。
あと、ルーナはよくヘンゼルと噂になっている。ウムブラも、彼女が娼館時代の二人の詳細は知らない。だけど、彼女が城に上がってからは、二人の間には今のところ何もないはずだ。
何かに思い至ったのか、ルーナがウムブラの顔を見た。
「ああ。もしや、姫様のことだろうか? 彼女が初めてだったのかは、私にも分からない。あの護衛騎士がいつもそばにいたから、いつも私は気が気ではなく――」
珍しくルーナがウムブラに心情を吐露してきているが、頭の整理で必死だ。
(まさか、口付けたことがなかったなんて……。城の皆に言っても、誰も信じないでしょうね)
ウムブラは、ルーナが初心な少女のような反応をしていて面白くなった。
いつもの余裕のある彼の反応ではない。
令嬢によっては、落差がひどすぎて、がっかりする可能性もある。
笑いながら同時に、ウムブラは彼を不憫に思った。
(姫様の誤解はどんどん進んでいってるだろうに……。ルーナ様は彼女と話し合う大事さに気づかれていない……)
ルーナは、女性がどうと言うよりも、人との距離感が分からないのだろう。
ウムブラは、ルーナには大層感謝している。
もっとも、今後、ルーナがウムブラの大事にしているものを傷つけるような事があれば、悪意を抱くかもしれないが……。
「やれやれ。これが裏目に出ずに、お二人がうまくいくと良いのですがね……」
ウムブラには、二十二になる自身の主君が、ひどくこじらせた恋愛音痴だということがよく分かったのだった。




