【正史】0-10 月と太陽と大地と
また、時間が変わってしまいまして、大変申し訳ございませんでした。
「姫様、ありがとうございます」
目の前にいる、黒髪の美しい女性が、ティエラにそう言って感謝の言葉を述べる。
城にある階段の近くに、彼女は座り込んでいた。ティエラも彼女の近くに座っている。
「いえ、もう痛くはないかしら? ヘンゼル」
ティエラの目の前に居たのは、元ティエラのお世話係だったヘンゼルだ。
彼女は、「はい、大丈夫です」と言って、ティエラを見て、淡く微笑んだ。
ヘンゼルは、妹のグレーテルとは違って、あまり笑わない。
けれども、笑うととても綺麗で、同性のティエラもドキドキしてしまう。
「良かったわ」
ティエラも微笑み返した。
「いや~~、姫様に来ていただいて、本当に助かりましたよ~~」
そうティエラとヘンゼルの背後から、声をかけてきた人物。
それは、ルーナの付き人ウムブラだった。彼は、いつもと変わらず、飄々とした態度だ。本当に助かったと思っているのかどうかが分からない。
「姫様」
頭上で、また別の声が聞こえる。
ティエラが見上げると、そこにはルーナの姿があった。
ちょうど、ティエラとヘンゼル、どちらの隣にもなる位置に、彼は跪いた。
「報告を」
ルーナは、ヘンゼルに端的に問いかけた。彼女は、静かに返答する。
「その、私が、階段から落ちてしまいまして……」
「お前らしからぬ失敗だな。あまり、姫様の手を煩わせるようなことはするな」
ルーナが、ヘンゼルにそう言う。
仕事中の彼に、ティエラに接する時のような優しさはない。
この数年、ティエラは、自身の婚約者であるルーナの観察をしてきた。
そこで分かったことは――。
仕事中の彼は、わりと周囲から怖がられている、ということだった。
ただ、言葉こそ、ティエラに対するものよりも厳しいだけであって――。
「ヘンゼル、今日は休んで良い。明日から、またお前の働きに期待している」
ルーナの態度は、基本的には優しいのだった。
そのため、彼を慕う部下たちは多いようだ。
ティエラの目の前のヘンゼルの頬に朱が差す。
それをティエラは黙って見ていた。
(ヘンゼルは、やっぱり、ルーナのこと――)
以前より、年を重ね、十一になったティエラには、今までよりも、見えるようになってきたことが多い。
彼女は、ヘンゼルがルーナに特別な感情を抱いている事に、薄々気づいていた。
ヘンゼルは基本的には冷静だが、ルーナに関する事柄になると、態度が変わる。
そのこと自体には、ティエラは昔から気づいてはいた。けれども、ルーナには自分と言う婚約者が存在する。特定の相手がいる人を好きになる者もいるのだということを、ティエラがよく分かっていなかっただけだ。
ルーナに関して。
たまたま、お世話係の間で噂になっていたことが、ティエラの耳に入ることがある。
ルーナが、ヘンゼルや他の女性達と一緒にいるという話だ。
特に、ヘンゼルについては、ティエラのお世話係だったのを、わざわざルーナのお世話係にした経緯もあった。そのため、噂の声が、他の女性達のものよりも大きかったのだ。
内容に関しては思い出すのが辛い。昔はもやもやですんでいたが、今は、はっきりとした嫌悪感に襲われる。
二年ほど前になるだろうか。ルーナに宝石店に連れて行ってもらった際に、見知らぬ男が、ルーナとヘンゼルの仲について勘違いしていたことがあった。その後、ルーナに『貴女が婚約者で良かった』と言われ、そのまま忘れていた。
だが、あの日の出来事の印象は強かったため、頭のどこかで覚えていたのだった。
男の勘違いや、お世話係の人々の噂は本当なのかもしれない。
ティエラは、自分自身が、二人の恋のお邪魔虫になっているのではないかと思ってしまうこともあった。
ティエラは、昔よりも、ほんの少しだけ大人になってしまった。
彼女の中に、知らなければ今までのように幸せに過ごすことができていたのにと思うことが、徐々に増えてきていた。
※※※
「それで? 気になるなら、あんたが本人に聞けばいいだろ?」
「だって、そんなこと、ルーナに聞けるわけないじゃない!」
ソルに相談するが、気のない返事だったので、ティエラは抵抗していた。
「毎回、毎回、あんたは、『あの男はあんただけを特別に想っている。だから安心しろ』って、俺に言ってもらいたいだけだろ?」
図星をつかれ、ティエラはむくれた。
「大体、もう国が決めていることだ。ルーナが嫌がっても、あんたと夫婦になるのは確定事項だ」
「そんなの、分かってるわよ。でも、そうじゃなくて……」
ティエラは、自分の婚約者に、他に好きな女性がいるかもしれないと考えるのが嫌なだけだ。
ため息をついて、ソルが定位置の寝椅子に戻ろうとした。
ティエラは、彼の腕にしがみついた。
「もう、ソル、もう少しだけ聞――」
「――離れろ」
ティエラが言い終わる前。
彼女の身体は、ソルから突き飛ばされてしまった。
あまりに突然の出来事だったので、ティエラは呆然としてしまう。
少しだけ、足元がふらついたが、なんとか立ち止まった。
「ソル……」
彼から拒絶されたと思い、ティエラの心は動揺している。
「私……」
なんと言っていいか分からないでいると、ソルが謝罪してくる。
「すまない、力の加減を間違えた。大丈夫だったか?」
まだ、心は落ち着かないものの、ティエラは頷いた。
彼女はソルに、おずおずと尋ねる。
「その、私、ソルが怒るような、変なことしたかしら?」
「……お前もだいぶ成長してきている。身体をあんまり近づけないでくれ」
ソルの予想外の回答に、ティエラは驚いてしまった。
(成長、身体……)
彼女は自身の身体の最近の変化について考えてみる。
確かに、小さくてやせっぽちに近いような体型だったのが、以前よりも肉が少しだけ付き、丸みを帯びてきている。平たかった胸も、ほんの少しだが膨らんできてはいる。
ちょっとずつ、女性らしくなってきていると言われれば、そんな気もしてきた。
ティエラ自身は、劇的な変化ではなかったため、こんなものなのかな程度に考えていた。
「あんたは、もう少し、女としての自覚を持て」
ソルにそう言われるとは思っていなかった。
彼は、またため息をついている。
「悪い男に、何も考えずに体近づけてたら、ひどい目にあうぞ」
ソルの口調はまじめだった。
「でも、そういう人から私を護るために、ソルは一緒にいるんでしょう? じゃあ、ソルには良いんじゃないの?」
「ダメだ」
即答される。
ソルは、何度目かのため息をついた。
「なんであんたは、いつもいつも無防備なんだ……。国王様には悪いが、周囲がお前に甘すぎたのか? どうやったら、あんたには理解してもらえる?」
ティエラは、彼から小馬鹿にされているのに気づいた。
頬を膨らませて、ソルに文句を言う。
「もう! ソルは、そうやっていつも私に意地悪な言い方をするんだから!」
「ほら、元気出たな。茶でも入れるぞ」
ソルに言われて、ティエラは少しだけ、気持ちが上向いていることに気づいた。
「適当に、あの男と結婚した後にも役に立ちそうな事を、練習しておけ」
そう言って、ソルがティエラの頭を撫でて来た。
(私からは触るなって言ったくせに、ソルが自分から触るのは良いわけ?)
ティエラは、ソルに対して不満が出て来た。けれども、ルーナの事ばかり気が向いて心が塞いでいた心が、少しだけ軽くなったような気がした。
茶器をとりに行くソルの後を、ティエラも追いかける。
将来、ティエラとルーナが結婚した後も、ソルは一緒にいてくれるはずだ。
もっと大人になった彼も、今の彼と同じように、ティエラに悩み事があったら聞いてくれるのだろうか。
今日のように、気を紛らわせてくれるのだろうか。
将来、彼と自分が離れて過ごす姿。
ティエラはどうしても、そのことを想像することが出来なかった。
※※※
夜。
月明かりの下、ティエラは日記帳に書き物をしていた。
今日、ソルと一日過ごした内容について書いていると、扉を叩く音が聴こえた。
持っていた万年筆を、机の上に置いて、誰何する。
「姫様、ルーナになります」
ティエラは扉を開いた。
そこに、ルーナが立っている。
「部屋の中にどうぞ」
促すと、彼が部屋の中に入ってくる。ティエラは彼に、座椅子への着席を促したが、「もう夜も遅いので」と言って断られた。
「姫様、今日の昼はありがとうございました」
ルーナが話題を切り出してきた。ヘンゼルの怪我の話だろう。
彼の口から直接彼女の名前が出て来たわけではないが、なぜだかティエラの心が波だった。
せっかく、昼間、ソルとのやりとりで浮上したはずだったのに。
「いえ、当然のことをしたまでよ」
ティエラは、そのまま話を続けた。
「ルーナが、以前よりもプラティエス叔父様の元に向かうようになって……。私達、会える時間が少なくなったでしょう。その、ルーナは、休みの日も休んでいないみたいだし。とても心配していたの」
ティエラは、なんとか笑顔を作りながらそう話した。
話したように、ルーナと彼女が一緒に過ごす時間が、めっきり減ってしまっている。
昔なら、聞こえてこなかった噂も耳にするようになった。それだけ、ルーナがティエラの近くにいたということだ。噂が好きな者達でも、ルーナ本人が近くにいるのに噂をすることは少ないだろうから。
「隣国が、戦を仕掛けてくるかもしれないようです。対応に追われておりまして」
「そうだったの」
ルーナがティエラに近づいてきていた。
彼の手元をみる。薄暗いので気づいていなかったが、彼が一輪の白い花を持っていることに気づいた。
彼は、ティエラの髪に、そっとその花を挿してきた。
「ちょうど、庭に咲いておりましたので」
そう言って、彼は彼女に微笑みかけた。
「ありがとう、ルーナ」
ティエラも、彼に笑い返した。
彼の身の回りの女性達の事も気になる。
でも、それ以上に、仕事で忙しいルーナの手を煩わせたくないという思いが、ティエラの中では強くなった。
(私が、我慢したら、それで全部、大丈夫だから――)
笑顔を張り付けたまま、ティエラはルーナに気持ちを伝えた。
「気持ちは嬉しいわ。でも、大変な時に、持ってこなくても、私は平気だから。ね?」
※※※
ルーナは、彼女にやんわりと断られたと思った。
どうしてだか、彼女が笑ってくれなくなった。いや、笑ってはくれるけれども、昔のように満面の笑みではない。とても寂しそうに笑うようになった。
「姫様?」
少しだけ、大人に近づいている彼女との距離感。
ルーナも、人と接するのが上手な方ではない。
彼女がどうしたら喜ぶのか、分からなくなってきていた。
言葉にできないので、ルーナは彼女をそっと抱きしめてみた。
特別、拒否されることもなく、彼は胸の内で安堵する。
彼女は、昔よりも、少し身長が伸びた。女性らしくなってきたなと感じる。
「姫様……」
彼女を呼ぶと、そっとティエラもルーナの背に手を回してきた。
少しだけ大人びた彼女の所作に、彼も少し驚く。
三人の関係性も、ほんの少しずつだが、変化しはじめていた。




