【正史】0-3 大地を月と太陽が巡る
前・宰相の喪が明けてしばらくしてから、ノワ・セレーネの宰相就任のための祝いの宴が、王城で開かれることとなった。
祝いを明日に控えた日のこと。先程まで、ティエラは、ルーナから国の成り立ちや貴族間の関係性などを習っていた。今日のルーナはあまり体調が良くなさそうだった。彼が去ってしばらくの間、ティエラは復習のために、帳面に書き物を続けていた。
ふと、机の上に万年筆が転がっているのが、彼女の目に入る。
「これ、ルーナのものだわ」
彼はこの万年筆を、これからの執務の際にも利用するかもしれない。
ティエラは、それをルーナに届けに向かうことにした。まだ、そんなには離れたところまでは行っていないだろう。
今日は少し動きづらいドレスを着ていた。ドレスの裾を持ち上げる。
廊下に出て、ティエラは走る。
部屋の前の騎士に声を掛けられたが、「すぐに戻ります」と言い残した。
しばらく駆ける。
ティエラが暮らしている離れから、王城に向かう途中の回廊。そこに白金色の髪をした青年の姿が見えた。
「ルー――」
声をかけようと思ったが、ルーナが女性と話しているのに気づく。ティエラは思わず、近くにあった柱の裏に隠れてしまった。
隠れる必要はなかったが、ついつい隠れてしまった。
女性は、胸の大きく開けた赤いドレスを身に纏っている。長く艶やかなで指通りのよさそうな黒髪をしていて、目鼻立ちがはっきりとした美人だ。見たところ、成人した頃に見える。
どこかの貴族の娘だろうか?
何かしら祝いの場がある前日ごろから人の出入りが多くなる。前日から泊りがけで来る貴族たちも多い。そのため、祝いの前後数日間では、城内に人が溢れる。貴族だけでなく、貴族の子女たちも多く来訪し、良い交流の場ともなる。
騎士や文官と関わる機会に、娘に良い嫁ぎ先を見つけてやりたいという貴族は多い。その女性も、そう言った理由で父親に連れてこられた一人なのかもしれない。
その女性は、妖艶な口元を開いた。
「ルーナ様、先日はお世話になりました。……本日もいかがでしょうか?」
そう言って、彼女はルーナにしなだれかかる。
(……なんだろう、なんだか、ルーナにやたらとベタベタ触っている気がする)
特にルーナも嫌がっているような素振りを見せない。
ティエラは、胸がざわつき始める。
何を頼んでいるのかは分からないが、ルーナが彼女になんと答えるのかも気になる。
しばらく待っていると、ルーナが彼女に返事をした。
「姫様の元をうかがってからでも、大丈夫でしょうか?」
その答えに、女性は悠然と微笑み返す。
「それでは、夜に」
話は終わったようだった。彼女はルーナの元から、ゆっくりと立ち去っていく。
何の約束をしたのかはよくわからないが、ティエラの胸のざわつきは収まらなかった。
女性の姿が見えなくなっても、なかなかティエラはルーナの元に顔を出すことが出来ずにいる。
しばらくすると、その場からルーナもいなくなった。
ティエラの手には、彼の万年筆のひんやりとした感触が伝わる。
しばらく俯く。
なんだか動けない。
「ティエラ」
突然、頭上から声が聞こえて、驚いて身体がびくりと跳ねた。
振り向くと、赤髪の少年がそこには立っていた。
「ソル」
自身の護衛騎士の顔を見て、ティエラは彼の名を呼ぶ。
「探したぞ。……どうした? あんた、なんか元気ないな」
暗い顔をしていたようだ。ティエラは、ソルに先程の件を相談してみることにした。
「ルーナが、さっき女の人と会う約束をしてたんだけど。それってどんな約束なのかしら?」
「は?」
唐突な質問に、ソルが怪訝な声を出した。碧の瞳が丸くなる。
「私と会った後、夜に二人で会うみたいだったんだけど……」
「……そんなの、俺に聞くなよ!」
なぜか、ソルの耳が赤い。照れたりする時、彼はそうなることが多い。何か変な質問をしてしまっただろうか。
「何? ソルはなんだか分かるの? 夜会ったら何があるの?」
ティエラはソルに接近し、矢継ぎ早に問いかけた。
彼は、彼女が接近するたびに距離を取ろうとしたが、壁に追い詰められてしまった。
「俺ぐらいの年になったら、お前には教えてやるから、今は聞くな。あ、いや、お前が傷つくかもしれないから、教えないかもしれない」
慌てた様子でそういうソルに、ティエラはむくれてしまう。
「なによ、なんなのか、全然分からない」
「まあ、落ち着けよ」
ソルは、ティエラの肩に手を置きながら話した。
彼にそう言われ、また、彼女の表情が少しだけ曇った。
ティエラのそんな様子を見て、ソルは彼女に話を持ち掛けた。
「そうだ、ルーナが夕方に来るまでに時間があるから、一緒に何かするか?」
「何かって、なぁに?」
「気分転換だ。城の外に出る以外なら、お前の言うことを一つ聞いてやる」
そう言われて、ティエラは考え込む。
やりたいことが閃いた。
「それならソル、お願いがあるの!」
※※※
ルーナは仕事が終わり、ティエラの自室を訪ねようとした。彼女への訪問が終わり次第、声を掛けて来た侯爵家の娘の相手をしにいかないといけない。
ティエラの部屋の前の騎士達には、ルーナがティエラの部屋にいる間に交代しておくように伝えた。指示を受けて、二名の騎士がその場を立ち去る。
ティエラの部屋へと続く扉の取っ手に、ルーナが手を掛けようとした時。
中から聞きなれた少女と少年の声が聞こえてくる。
「きゃっ! い、痛い……」
「……まだ、慣れないのかよ」
「ソルが……うまくないのよ」
(何だ……?)
ルーナは怪訝な顔で、少しだけ扉を開いて中の様子を見る。
「人のせいにするなよ」
一人、その場に立つソルはため息をついた。
床には、ティエラのドレスが拡がっている。そこにうずくまっているティエラに、ソルが手を差し伸べた。彼の手をとり、ゆっくりとティエラが立ち上がる。ドレスの裾が揺れた。
「もう一度だけ、お願い!」
「ああ。いいかげん、なれろよ。じゃあ、行くぞ――」
そう言って二人がワルツのステップを踏み出した。
九才のティエラと、十四歳のソルでは身長差がある。が、ティエラが踵のある靴を履いていることや、ソルがまだ成長途中であるため、悪くはない差だとルーナは思った。
加護に関してもそうだ。宝玉の力で護られている城以外の場所では、剣の加護を受けたソルがそばにいないと、ティエラは生きてはいけないだろう。
有体に言えば、似合い、釣り合いがとれているとも言える。
世間も、姫と護衛騎士の二人が婚約するものだと思っていたものが多かったようだ。ただし、十年近く前にあった事件や剣の一族の跡継ぎ問題などがあり、ティエラとソルが婚約することはなかった。
そんな中、玉の一族であり宰相であるルーナの義父が自身の権力保持のために、ルーナをティエラの婚約者にと、かなり圧力をかけた。
まさか、国王がそれに同意するとは周囲も思っていなかったようだ。
(でも、私が婚約者に選ばれた理由は、姫様がお亡くなりになっても平気だと思われたから)
つまり、ソルなら悲しむだろう、ティエラが亡くなった際に耐えられないだろうと思われていたということだ。
王族たちからも、ルーナの気持ちよりもソルの気持ちの方が優先されているような気がした。
手をつないで楽しそうに踊る二人とは対照的に、ルーナの気分はあまり良いものではなくなっていった。
※※※
「きゃっ」
ちょうどターンをしたところで、ティエラは転んでしまう。
「また、同じところだぞ」
ソルにそう言われて、ティエラはなんだか悔しかった。
彼が、繋いでいるティエラの手に力を入れる。
ソルがティエラを引き上げようとしたところ――。
「姫様」
涼し気な声が聴こえたかと思うと、ティエラの身体がふわりと宙に浮いた。
「ルーナ」
気付いたら、ルーナに抱きかかえられていた。
いつの間にか部屋の中に入ってきていたようだ。
「大丈夫ですか? 御足は、痛くはございませんか?」
ティエラを抱えるルーナは、心配そうにティエラに尋ねる。それにティエラは頷いた。
ソルはそんな二人を見て、ため息をつく。
「姫様、踊りの練習なら、あの少年ではなく、私が相手を致しましたのに」
ルーナはティエラに微笑んでいる。
が。
(なんだろう、笑っているけど、ルーナが怖いわ)
彼の目が笑っていないのが、ティエラには分かった。
「ルーナ……今日は忙しそうだったから」
「今、こうして来ているでしょう?」
間髪入れずにルーナからそう言われて、ティエラはたじろいだ。
「だって、その……」
(……あの女性と約束があるのでしょう?)
ティエラは、言い淀んでしまう。ルーナと女性の会話を立ち聞きしていたことを、彼に知られたくなかった。
「あの、ルーナ、良かったら降ろしてくれる? 身体の調子もあまり良くないのでしょう?」
ティエラにそう言われたルーナは、ゆっくりとティエラを床に降ろした。
「体調について、気づかれていたのですか?」
不思議そうな表情を浮かべるルーナに、ティエラは「ええ」と言った。
ルーナは跪き、ティエラと視線を合わせる。
「あなたを、いつも見てるもの。今日は、ソルみたいにため息が多かったわ」
近くにいるソルが、「俺みたいって何だよ」とぼやいていた。
ルーナの目元も、次第に穏やかなものに戻る。
「姫様、ありがとうございます」
ティエラが目の前に居るルーナの額に、小さな掌をのせる。
彼の額は少しだけ熱を帯びていた。
ルーナが少しだけ、気持ちよさそうにしている。
「少し熱があるみたいね。……その、今から……」
『今から約束があるのでしょう?』
ティエラは、ルーナからぱっと手を離した。
喉元まで出た言葉を、ティエラは飲み込み、別の言葉に変える。
「無理は、しないでね」
ルーナが他の女性に会いに行くのが嫌だという気持ちを抑えて、ティエラはルーナにそう告げた。
(我慢しなきゃ……)
幼少期から母親がおらず、父親も体が弱かったので、どうしても我慢してしまう癖がティエラにはあった。
彼女が無理をして笑ったのが、ルーナにも分かったのか。彼は「姫様?」と言い、彼女を不思議そうに見ていた。
しばらくして、ルーナは「別の用事がございますので」とティエラに告げて部屋を出て行こうとする。ティエラは、忘れ物の万年筆をルーナに渡した。受け取った後、彼は退室する。
後に残されたティエラの瞳は、少しだけ揺れている。
ソルは、そんな彼女を黙って見ていた。
※※※
「おい! そこの変態!」
ルーナが廊下を歩いていると、少年の声が聞こえた。
今は、というか普段からあまり聞きたくない声だ。
振り向くと、想像通り、自身の婚約者の護衛騎士が立っていた。
「お前……貴方は、敬語が使えるようになった方が良いのでは?」
ルーナがそう言うと、ソルが返す。
「相変わらず、胡散臭い。余計なお世話だ」
「それで? 私に何か用件が?」
ルーナは笑顔を崩さずに、ソルにそう尋ねる。
ソルが、すぐに返答した。
「お前の勝手だから、口は出したくないが、今から別の女のとこに行くんだろ?」
ソルの発言に、ルーナは端正な眉をひそめた。
「のぞき見か?」
そう尋ねると、ソルが怒気を孕んだ口調で告げる。
「ティエラが聞いてたんだよ。もっと聞こえないようにしとけよ」
姫様が近くに来ていた?
体調が悪かったので、気づいていなかった。
ルーナは少しだけ、自分の不手際を恨んだ。
「それで?」
「ティエラを傷つけるような真似だけはしないでほしい」
ソルが、真剣な瞳でルーナにそう言った。
それを受けたルーナは、無性に腹立たしい気持ちになる。
(この男は……)
そうして、ルーナは笑顔を失くし、ソルにいつもより低い声で伝える。
「どうあがいても、お前があの方と結ばれる未来はない」
ソルが、その発言を受けて怯んだ。
ルーナはそれだけ伝えると、踵を返す。
そのまま、その場を去っていく。
残されたソルは、近くの壁に拳をぶつけて毒づいた。




