月の咆哮5※R15
ルーナ二十歳前
ティエラ十歳前
幼いティエラ姫に誘われて、鏡の神器を見に来たはずだったのに。
気づいたら、ティエラとルーナは見知らぬ場所にいた。
岩がそこら中に浮いていて、とても現実のものとは思えない。
(なんだ、この場所は……?)
ルーナは、想定外の出来事に、少しだけ冷静さを失っていた。
ティエラが、不安げにルーナにしがみついてくる。
それを見て、ルーナは自分を落ち着けようと、深呼吸をした。
「姫様、私が一緒にいますので」
そうは言ったものの、ルーナとしても場所が分からずに困っている。
しばらく悩む。
『お前、その顔、月の化身だな』
突然、どこからか子どもの声が聴こえた。
驚いて周囲を見たが、どこにも誰もいない。
『いや、そうか、あの男はもう死んでいるはずだ。お前はただ似ているだけの紛い物か』
声は、頭に直接響いてくるようでもある。
『王家の娘もいるではないか。でも、まだ小さい。美味くはなさそうだ』
自分に頼ってくる幼いティエラを、ルーナは抱き寄せた。
「お前は誰だ?」
突然、ルーナに頭痛が襲ってきた。
苦痛のため、いつもは美しい表情が歪む。
「ルーナ!」
しゃがみこんだルーナに、ティエラが慌てて声を掛ける。
自分はティエラ姫とは違って、憑依される体質ではない。それなのに、身体の中に異物が入り込んできた感覚がある。
ルーナの脳裏に、気付けば、まざまざと、過去の嫌な記憶達が思い出される。
汚い人間達が自分の肌を這う手の感覚が蘇ってくる。
気持ちが悪い。痛い。辛い。苦しい。吐き気がする。
父の関心を引きたくて、これまで頑張っていた。だけど、本当は、大人たちに自分の身体を、弄ばれるのが心底嫌だった。父に捨てられてからも、相手に体を明け渡す以外に、どう人と交流して良いのか分からなくて辛かった。
冷や汗が額を流れる。
何かが、ルーナの身体から出て行く感覚があった。
ルーナは膝をついたまま、肩で息をしていた。
気をしっかり持っていないと倒れてしまいそうだった。
『なぜ、自分の体に乗り移ってこれたのか? 不思議に思っているようだな? まさか、今になって、月の化身と同じ血のものが生まれるとは、何の因果だろうか。血が近いほど、憑依出来やすい。これは良い、鏡以外にも器になれる逸材だ。久しぶりに面白い』
相手が言っている意味が分からなくもない。だが、知らない情報が多すぎて、理解できない部分が多い。
(血が近い……? この声の主は一体……?)
ティエラは、ルーナを支えようと必死だ。
ルーナは、彼女の小さい体に寄りかからざるを得ない自分に嫌気がさした。
『それにしても、お前、私に呪いをかけたあの男――月の化身とは似ても似つかぬ人生を送っているな。化身の妹に近いと言われればそうか。不憫なことだ』
声の主は、ルーナのそばにいるティエラに今後は声を掛けた。
『そこの鏡の一族の娘よ。ちょうどいい。私は、鏡の一族も嫌いだ。この男の魂に刻まれた記憶を、幼い体でそのまま体験するが良い。大層楽しくなってきた』
愉快気な声が聴こえる。
ティエラは戸惑う。
「……この男? ルーナの、記憶?」
そう言うや、ティエラの身体から力が抜けた。亜麻色の髪が、地面に拡がる。
なんとか腕を動かして、ルーナは彼女の崩れていく体を抱き寄せた。
ティエラの口が開く。
「剣がいないから、ちょうど良い。王家の女は、人の魂に憑依され、その記憶を追体験できる者がいるが、特にその力が強いようだ。先程私が得たお前の記憶を、この子には体験してもらうよ」
そうルーナに言い放った後、ティエラの瞳から光がなくなる。
ルーナは、声の主に問いかけた。
「記憶? まさか、私の――」
「ご名答」
今度は、しゃがれた老人の声が、遠くから聞こえた。
遠くに、年をとった男が現れる。ルーナには、見覚えがあった。その男は、ティエラの祖父である前国王の姿をしていた。
「だめだ! やめさせろ! この人に、姫様に、経験させていいことではない!」
絞るようにして、ルーナは叫んだ。
一時期、この女も自分と同じ目に合えばいいのにと。このままティエラも、自分のように墜ちてしまえば、いっそ自分も楽になるかもしれないと思っていたこともあった。お前も、自分と同じようにあってしまえと。
だけど――。
『これからはちゃんと貴方の家族になってみせるわ!』
『私は本当の貴方と家族になりたいの』
そう彼女が自分に話しかけてきたことを、ルーナは思い出した。
彼女は、純粋だ。幼いながらも聡明で、優しい。
今までルーナが接してきた、他の人間たちとは、違う。
そんな、十にも満たない無垢な彼女に、大人たちに身体を弄ばれるような経験は、たとえ夢だろうと記憶だろうとしてほしくはなかった。
ルーナは、術を唱えようとするが、憑依されたばかりだからか、うまく紡ぐことができない。
幼いティエラの瞳は虚ろだ。時折小さい悲鳴が聞こえる。
ルーナの心が暗く染まっていく。
ティエラの身体を、ルーナは強く抱きしめた。
「誰か、早く――」
これ以上、彼女が苦しまない様に。心が壊れてしまわないうちに。
ルーナがそう口に出した時、しゃがれた声が叫んだ。
顔を上げて見えたのは、神剣で男と対峙するイリョスの背だった。
※※※
元の宝物庫に戻ってきた。
イリョスの姿が見えない。
今は、ルーナとティエラだけが、そこにいた。
抱いているティエラがゆっくりと目を覚ます。
「姫様……!」
目を開けたティエラに、ルーナは声を掛けた。
ルーナはティエラに謝り続けた。
「私が、ちゃんと止めていたら、こんなことには、ならなかったのに……」
彼女自身が直接汚されたわけではない。
けれども、自分の記憶をなぞったのならば――。
大人たちに、体を抱かれる感覚を味わってしまったのなら。
ルーナは、彼女の心が壊れてしまわないか案じた。
彼は、自分の非力さを呪った。
そうしてティエラを心配しながらも、ルーナは怖かった。表面だけ美しさを装って、本当は醜い心を持った自分を、大人たちの好きなようにさせてしまって汚い自分を、ティエラに知られてしまった。
怯えられるかもしれない、気持ち悪いと思われただろうか。
ルーナが、誰かの評価をこんなにも恐れたのは、父親以来だった。
そうして、ティエラがルーナの頬に小さな手を添える。
彼女は、ゆっくりと、口を開いた。
「今まで、一人で、辛かったでしょう」
ティエラは、ルーナに微笑みかける。
すぐには言葉が出なかった。
「汚いと、思いませんでしたか、私の事を? こんな男の妻になるなど、嫌だと思いませんでしたか?」
ルーナは、彼女にぽつりと問いかけた。
「どうして? あなたはいつでも綺麗よ、ルーナ。いつも必死に自分をごまかして頑張っている貴方の……ルーナの奥さんになるのが、私の夢なの。何があっても、家族の貴方を嫌いにはならないわ」
「家族……」
彼の胸の内がざわめき始める。
「ルーナは、泣き虫ですね」
そうやって、ティエラは微笑む。
彼は彼女に言われて、初めて、自分が泣いていることに気付いた。
一人でも泣いたことはなかった。
ましてや、人前で泣いたのは初めてだった。
「ルーナ、約束して。私達は家族よ。家族になって、幸せになりましょう」
「はい……約束します、姫様。私が、貴女様の家族になって、貴女を必ずや幸せにいたします」
気付けば、ルーナは幼いティエラ姫と約束を交わしていた。
※※※
ティエラはその後、数日の間うなされた。
ソルがそばにいるが、なかなか回復できない。
ルーナの記憶と、ティエラの記憶が混ざって苦しんでいるようだった。
まだ、彼女は男の身体を知らない無垢な存在だったのだから、無理もないだろう。
国王やイリョスから、あの竜の居た世界での出来事の記憶について、宝玉の力でティエラの記憶を消すことを提案された。
ルーナはそれに同意し、力を行使した。
そして彼女は、あの時の出来事については、忘れてしまった。
また、生き生きと日々を送る彼女を見ることができて、良かったと思う反面、少しだけもの悲しさを感じた。
それでも、ルーナ自身ははっきりと覚えていた。
『何があっても、家族の貴方を嫌いにはならないわ』
『ルーナ、約束して。私達は家族よ。家族になって、幸せになりましょう』
そう言ってくれた、彼女を。
初めて、自分のこと家族だと言ってくれた彼女を。
たとえ、彼女が覚えていなくても。
※※※
この出来事の後、ルーナは、国王やプラティエスから、この国の真実を聞かされた。
彼女がこのままでは、竜から喰われてしまうのだと言うこと。
ルーナは、自分が初めからティエラを愛することなど有り得ないと、彼女が仮に亡くなったとしても傷つかないだろうと、婚約者に選ばれたことも教えられた。
国王達が、ティエラを生かそうと必死なのはよくわかったが、ルーナは聞いてすぐには頭が真っ白になった。
彼は、彼女と家族になって過ごす未来など、ありもしないことを知った。
未来を悲観して、しばらく身動きがとれなかった。
『いつも必死に自分をごまかして頑張っている貴方の……ルーナの奥さんになるのが、私の夢なの』
『ルーナ、約束して。私達は家族よ。家族になって、幸せになりましょう』
彼女はもう覚えていない約束を、ルーナはずっと頭の中で繰り返し思い出した。
彼女のいない未来など必要ない。
彼女を犠牲にするような国など要らない。
そうして、彼は自身に誓いを立てる。
どんな手を使っても、どんなことがあっても、どんなに非難されようとも。
ティエラを、彼女の未来を護ると。
ルーナは、自身の唯一の家族である彼女のために、自分の全てを捧げると誓った。




