第110話 夜明け前
特に、ルーナの演説中も後も、何も問題はなかった。彼は、命を吸う石を使って民衆を虐殺したりといった手段は使わないようだ。ティエラの心配は、杞憂に終わった。
今後、隣国スフェラ公国からの侵略を防ぐために、戦をこちらから仕掛けるという話を、ルーナは国民にはしていた。
彼には、今日から明後日にかけては色々接待等があるらしい。
だから、まだティエラを連れ戻しには来ないだろうという話になった。そのため、彼女達は、明日の夜明け前に屋敷を出発することに決めていた。
寝る前、あまり顔色が良いとは言えないソルに、セリニが話し掛けていた。
「お前が出陣することにはならぬようにしよう」
ソルに淡々としか話しかけないセリニにしては、優しい声をしていた。
ソルは、「ああ」とだけ答える。
彼はいつもよりも元気がなかった。心配して、ティエラも彼に声をかける。ソルには苦笑された。
「今のあんたは、自分のことだけ気にしてろ」
「今の」という言葉が妙に引っ掛かった。
彼にそう言われて、ティエラはそれ以上は踏み込む事が出来なかった。
※※※
夜中。
部屋の寝台の上で眠っていたティエラだが、ふと何かが聴こえて目を覚ます。
昨日もあまり眠れていないが、今日も途中で起きてしまった。
耳をすませば、隣の部屋から、何かが呻くような声がする。
(隣――ソルだわ!)
ティエラは、慌てて隣の部屋に駆けつける。
「ソル?!」
部屋の中へ入ると、寝台に横たわり、苦しそうにしている彼が目に映った。
珠のような汗が、ソルの額には浮いている。
ティエラは心配になり、何度も彼の名前を呼んだ。
けれども、なかなか彼は目覚めてくれず、不安になってくる。
「ソル!」
ティエラの思い出した癒しの術に、まだ誰かの意識を取り戻す程のものは存在しない。
(誰か呼びに……!)
そう思い、ティエラは廊下に繋がる扉へ向かおうとする。
「……ィエラ……」
その声に、彼女は立ち止まった。
ソルの口から、微かにティエラを呼ぶ声が洩れる。
「ソル!」
彼女は引き返し、彼のそばについた。
「……ティエラ」
目を開けたソルは、まだ苦しそうだ。大量の汗が流れている。
呼吸がいつもより、浅くて早い気がする。
ティエラは、ソルの身体を自分の方に引き寄せ、彼の背中をそっとさすった。
しばらく時間が経った。
少しずつ、ソルの汗が引いてきている。息もしやすそうだ。
「悪い……」
ティエラは、揺れる瞳をソルに向けた。
彼の碧の瞳とぶつかる。
彼女は、ソルの事はだいぶ思い出していた。けれども、肝心のここ数年の記憶が断片的すぎる。結局、ルーナにしろソルにしろ、肝心のことは思い出せていないような気がする。
「悪い夢を、見ていた……」
「悪い夢?」
ソルの言葉に、ティエラは問い返した。
「繰り返し見てる」
彼は身体を仰向けにして、宙を見つめた。
「いつも、お前の声がいつも頼りなんだ」
いつも頼りにしているソルにそう言われてしまい、ティエラはどきりとする。
彼は、右腕で顔を隠した。表情が見えなくなる。
「格好悪いよな」
ソルは、ぽつりと呟いた。
「俺がお前を護る立場のはずなのに、実際は――」
そこまでで、彼の言葉は途切れた。
なぜなら――。
ティエラが寝台の上に乗り、ソルにそっと口付けていたからだった。
すぐに唇は離れる。
ソルは思わずといった様子で、顔を覆っていた腕を退けた。
ティエラが、恥ずかしそうにソルを見る。
「……まだ、記憶が戻ってないところがあるの、貴方の。大事なことな気がする」
ソルはティエラから視線をそらす。
「俺については大体は戻ってるんだろ?個人的には、みっともないから、あんまり思い出さなくて良いと思ってるんだが」
珍しく、ソルが照れている気がする。彼の耳が赤くなっている。
ティエラは、少しだけ、そんな彼が面白かった。
笑っていたら、ソルの長い指がティエラのうなじに伸びる。
そのまま彼女は、ゆっくりと彼に引き寄せられた。
ソルの唇に、ティエラの唇が重なる。
二人の唇は、触れあっては離れる。何度も、それを繰り返した。
空は瑠璃色に染まっている。
出発の時刻が差し迫る頃、夜明け前まで、二人はそうやって過ごしていた。




