029話 嵐の前の静けさ
議会の翌朝、王都は不思議な静けさに包まれていた。
昨夜まで張り詰めていた空気が、嘘のように落ち着いている。
けれど、それは嵐が去ったからではなく――嵐の前の静寂だと、私は理解していた。
「セラ、起きているか」
控えめなノックの後、ユリウス伯爵の声がする。
「はい、どうぞ」
扉が開き、彼が入ってくる。
昨日までと変わらないはずの姿なのに、どこか雰囲気が違って見えた。
「体調は」
「問題ありません」
「ならいい」
短い確認。
けれど、その裏にある気遣いは、もう痛いほど伝わってくる。
「……今日から、君の立場はさらに注目される」
「やっぱり、そうですよね」
私は苦笑した。
「聖女としてではなく、“辺境伯の婚約者”として、ですか」
「そうだ」
彼は迷いなく頷く。
「それを不快に思う者もいる」
「でも、隠すつもりはないんですよね」
「ああ」
即答だった。
「君を守るためにも、曖昧な位置には置かない」
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
そう言いながら、彼は私の前に立ち、視線を合わせた。
「セラ」
「はい」
「今日から、王都の視察に君を同行させる」
「……私が?」
一瞬、言葉を失う。
「貴族たちに、“君自身”を見せる必要がある」
「それって……」
「聖女としてではない。
一人の人間として、だ」
私は、ゆっくりと頷いた。
「……わかりました」
逃げないと、決めた。
彼の隣に立つと、決めた。
「ただし」
「?」
「無理はするな。
異変を感じたら、すぐに言うこと」
その声音は、命令ではなく心配だった。
「はい」
王都の街は、思った以上に人の目が多かった。
視察といっても、形式ばったものではない。
市場を歩き、孤児院を訪ね、治安の状況を確認する――そんな内容だ。
けれど。
「……あの人が?」
「辺境伯の婚約者らしい」
「元聖女……」
囁きは、常に耳に入る。
私は無意識に背筋を伸ばし、視線を前に向けた。
(大丈夫)
ユリウス伯爵は、常に半歩前を歩いている。
盾のように、道を切り開く存在。
孤児院では、子どもたちが無邪気に集まってきた。
「お姉ちゃん、だれ?」
「お城の人?」
「えっと……」
一瞬、言葉に詰まる。
するとユリウス伯爵が言った。
「この人は、セラだ」
「せら?」
「君たちと同じ、ここで生きる人だ」
その紹介に、胸がきゅっと締めつけられた。
「……こんにちは」
そう言うと、子どもたちはぱっと笑顔になる。
「こんにちは!」
「ねえねえ、手、あったかい!」
「ほんとだー!」
小さな手が、私の手を掴む。
その温もりに、思わず目が潤んだ。
(ああ……)
肩書きなんて、関係ない。
ここにいるのは、ただの私。
視察を終え、馬車に戻る途中。
「……どうでしたか」
私がそう尋ねると、ユリウス伯爵は少し考えてから答えた。
「想像以上に、君は強い」
「強い、ですか?」
「ああ」
彼は、真っ直ぐ前を見たまま言う。
「人に向けられる視線を受け止めて、逃げなかった」
「……怖くなかったと言えば、嘘になります」
「それでいい」
彼は、静かに私を見る。
「恐怖を感じながらも、前に進めるのが強さだ」
その言葉に、胸が震えた。
「……私、まだ迷うと思います」
「構わない」
「立ち止まることも、あるかもしれません」
「それも構わない」
彼は、私の手を取る。
「その時は、俺がいる」
その一言が、何よりの支えだった。
夜、城に戻ると、セドリックさんが待っていた。
「ユリウス様、報告があります」
「何だ」
「ルミナリア王国より、新たな書簡が届きました」
嫌な予感が、胸をよぎる。
「内容は」
「……“正式な謝罪”と、“交渉の申し入れ”です」
私は、息を呑んだ。
「謝罪……?」
「ええ。
ただし、条件付きです」
ユリウス伯爵の表情が、わずかに険しくなる。
「条件とは」
「セラ様を“聖女としてではなく、外交顧問として迎えたい”と」
私は、思わず笑ってしまった。
「……都合が良すぎますね」
「ああ」
ユリウス伯爵は、冷たく言い捨てる。
「君は、どうしたい」
視線が、私に向けられる。
決断を、委ねられている。
私は、少しだけ考え――はっきりと言った。
「行きません」
「理由は」
「私はもう、彼らのために生きるつもりはありません」
胸の奥が、静かに定まっていく。
「私が力を使うなら――
それは、私を大切にしてくれる人たちのためです」
ユリウス伯爵は、ゆっくりと頷いた。
「その答えでいい」
その夜、私は自室の窓から王都を眺めていた。
灯りが点々と続く街並み。
ここには、たくさんの人の人生がある。
(私は……)
もう、流されるだけの存在ではない。
選び、拒み、進む。
その隣には――必ず、この人がいる。
静かな決意が、胸に灯った。
これから先、どんな試練が待っていようとも。
私は、私として。
ユリウス伯爵の隣で、生きていく。
それだけは、もう揺るがなかった。




