027話 王都
王都へ戻る馬車の中は、驚くほど静かだった。
外では雪が途切れなく降り続いているというのに、車内には不思議な温もりがある。
それは暖炉も毛布も関係なく、ただ――隣に座る人の存在によるものだった。
「……眠るといい」
向かいに座っていたユリウス伯爵が、書類から視線を上げて言う。
「顔に疲れが出ている」
「大丈夫です」
「君は大丈夫と言いすぎる」
淡々とした口調なのに、責める響きはない。
私は少し困って、視線を落とした。
「……じゃあ、少しだけ」
そう答えると、彼は満足そうに頷いた。
「到着したら起こす」
その言葉に安心して、私は背もたれに身を預けた。
目を閉じると、意識の底にいくつもの記憶が浮かんでは消えていく。
ルミナリアでの長い日々。
感謝されることもなく、当然のように使われ続けた時間。
そして——追放。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
「……セラ」
名前を呼ばれ、はっと目を開ける。
「うなされていた」
「……すみません」
そう言うと、ユリウス伯爵は少しだけ身を乗り出し、低い声で告げた。
「君は、もうあそこに戻らなくていい」
「……」
「過去が消えるわけじゃない。だが、縛られる必要はない」
私は、そっと頷いた。
「はい……」
それ以上、言葉はいらなかった。
やがて馬車が止まり、外から声がかかる。
「ユリウス様、王都に到着しました」
扉が開くと、城門前には既に多くの人影があった。
騎士団、文官、そして貴族たち。
その視線が、一斉にこちらへ向けられる。
(……注目、されてる)
無意識に身を縮めかけた私の肩に、ユリウス伯爵の手が触れた。
「大丈夫だ」
「……はい」
彼と並んで馬車を降りると、ざわめきが広がる。
「聖女……?」
「いや、婚約者だと聞いたが……」
「本当なのか?」
囁きが、雪のように降り積もっていく。
その中心で、ユリウス伯爵は一歩前に出た。
「皆、集まっているな」
その声は大きくはない。
だが、不思議と場を支配する力があった。
「今から、重要な発表をする」
空気が張り詰める。
「セラ・アッシュタールは、俺の正式な婚約者だ」
一瞬、時間が止まったように感じた。
次の瞬間、どよめきが爆発する。
「本当に……?」
「シュネーブルクの辺境伯が……?」
「相手は、元ルミナリアの聖女……!」
私は息を詰めた。
けれど、ユリウス伯爵は続ける。
「彼女は、どこの国にも“所有”される存在ではない」
「……」
「彼女自身の意思で、この地に立っている」
まっすぐな言葉。
誤魔化しも、逃げもない。
「異議がある者は、正式な場で申し立てろ。
陰で囁くことは許さない」
重い沈黙が落ちた。
貴族たちは互いに顔を見合わせ、やがて一人、年配の男が前に出た。
「……辺境伯。
その婚約、王都議会は承知していない」
「だから、今知らせた」
「性急すぎるとは思わないか?」
ユリウス伯爵は、その男を冷ややかに見返す。
「君たちは、彼女がルミナリアから連れ戻されそうになったことを知っているはずだ」
「……」
「曖昧な立場に置けば、再び狙われる。それを防ぐ」
理路整然とした説明。
反論の余地は、ほとんどない。
「それに――」
一瞬、彼の声が低くなる。
「俺は、彼女を愛している」
心臓が、強く跳ねた。
周囲がざわつく中、私はただ立ち尽くしていた。
こんな場所で、こんなふうに言われるなんて、思ってもみなかった。
「以上だ」
そう言い切ると、彼は私の手を取った。
「行こう、セラ」
「……はい」
城内へ向かう廊下を歩きながら、私はまだ現実感を持てずにいた。
「……あの」
「どうした」
「さっきの、言葉……」
愛している、という言葉。
「取り消しませんよね」
「取り消す理由がない」
即答だった。
私は思わず立ち止まり、彼を見上げた。
「……私、ちゃんと応えられているでしょうか」
「何にだ」
「婚約者として。
隣に立つ人として」
一瞬の沈黙。
やがてユリウス伯爵は、私の頬にそっと手を伸ばした。
「君は、もう十分すぎるほどだ」
「……」
「完璧である必要はない。
君が君でいるだけでいい」
その言葉に、胸がいっぱいになる。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
そう言って、彼は少しだけ視線を逸らした。
「ただ、これからは忙しくなる」
「覚悟しています」
「敵も、味方も増える」
「……はい」
私は、深く息を吸った。
「でも」
「?」
「それでも、ここにいたいです」
彼は、ほんのわずかに微笑んだ。
「なら、大丈夫だ」
その瞬間、扉の向こうから駆け足の音がする。
「ユリウス様!」
「どうした、セドリック」
「議会から、正式な招集が。
それと……ルミナリア王国が、追加の使者を送ってきたとの報告です」
嵐は、まだ終わっていない。
けれど。
私は、ユリウス伯爵の隣に立つ。
(もう、逃げない)
この場所で、この人と共に——
私は私の物語を、最後まで生き抜く。
雪はなおも降り続けていたが、
その白さは、もう冷たくは感じなかった。
それは、新しい未来を覆う、静かな幕開けのように思えた。




