024話 前触れ
翌朝、私は珍しく早く目が覚めた。
昨日あれだけ魔力を使ったのに、体は不思議と軽い。胸の奥に温かいものが満ちているような感覚があった。
窓の外では雪が降り始めている。シュネーブルクの冬は厳しいと聞いていたけれど、この白い景色はどこか優しく見えた。
「……この城で迎える、初めての雪か」
カーテンを開けながら呟くと、扉がノックされた。
「セラ様、朝食の準備が整いました」
セドリックさんの声だ。
「ありがとうございます。すぐ行きます」
身支度を整えて大広間へ向かうと、既にユリウス伯爵が席についていた。
「おはようございます」
「……ああ。顔色がいいな」
伯爵は書類から目を上げ、わずかに目を細めた。それだけで「心配していた」という気持ちが伝わってくる。
「おかげさまで、ぐっすり眠れました」
「そうか」
短い返事。けれど満足そうな響きがあった。
朝食を運んできたメイドが、いつもより豪華な料理を並べていく。温かいスープ、焼きたてのパン、色とりどりの果物。
「これは……」
「昨日、無理をさせた。せめて食事くらいは贅沢をさせろ」
ユリウス伯爵は淡々とそう言うが、その横顔は少し照れているように見えた。
胸が温かくなる。
(本当に……優しい人)
食事を始めようとしたその時、執事が慌ただしく入ってきた。
「ユリウス様、緊急の報告です」
「なんだ」
「ルミナリア王国から、正式な国書が届きました」
その言葉に、場の空気が一変した。
ユリウス伯爵は静かに立ち上がり、執事から羊皮紙を受け取る。
封蝋を破り、中身を確認した伯爵の表情が、徐々に険しくなっていく。
「……どういうことだ、これは」
低く、抑えた怒気を含んだ声。
私は思わず立ち上がった。
「何が書いてあるんですか?」
「……セラを、正式に返還しろと」
「え……?」
「ルミナリア王国は、セラ・アッシュタールが国外に不当に連れ去られたと主張している。即刻返還しなければ、国交断絶も辞さないと」
血の気が引いた。
「そんな……私は自分の意思でここにいるのに……!」
「わかっている」
ユリウス伯爵は国書を机に叩きつけた。
「だが、向こうは『魔法が使えなくなった聖女を騙して連れ去った』という筋書きを作り上げている」
「騙してなんか……!」
「セラ」
伯爵が私の肩に手を置く。
「落ち着け。これは政治的な駆け引きだ。お前が悪いわけではない」
その声に、少しだけ気持ちが落ち着く。
「でも、どうして今更……」
「結界の修復だ」
セドリックさんが静かに口を挟んだ。
「セラ様がルミナリアで結界を修復したことで、王国内での評価が一変したようです。『天才聖女を手放したのは失策だった』という声が高まり、王室が焦っているのでしょう」
「だから、強引に取り戻そうと……」
「ああ」
ユリウス伯爵は冷たく言い切った。
「都合のいい連中だ」
私は唇を噛んだ。
あの国で私は何年も働いた。けれど感謝されることはなく、最後には追放された。
なのに今更、必要だからと呼び戻そうとする。
「……私は、戻りません」
自分の声が、思ったより強く響いた。
「絶対に、戻りません」
ユリウス伯爵が私を見つめる。
「後悔しないか? これは、両国の関係を揺るがす問題になる」
「後悔しません」
私は真っ直ぐ伯爵を見返した。
「私の居場所は、ここです。ユリウス伯爵の隣です」
その言葉に、伯爵の瞳が揺れた。
次の瞬間、彼は私を抱き寄せた。
「……なら、戦う。お前を守るために」
その腕の温もりに、涙が溢れそうになる。
私は震える声で答えた。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
彼は私の髪に顔を埋めた。
「お前は俺の婚約者だ。守るのは当然のことだ」
胸が高鳴る。
こんなにも真っ直ぐに守ると言ってくれる人が、今まで私にいただろうか。
しばらくそうしていると、扉が勢いよく開いた。
「セラ様ー! 大変です!」
フェルンだ。
「城門に、ルミナリアの軍隊が来てます!」
「なんだと!?」
ユリウス伯爵が素早く私を離し、剣を掴む。
「セラ、ここにいろ」
「待って、私も行きます!」
「危険だ」
「でも、私のことで揉めてるんですよね? だったら、私が行かないと」
ユリウス伯爵はしばらく私を見つめていたが、やがて深く息を吐いた。
「……わかった。だが、俺の後ろから離れるな」
「はい」
私たちは城門へと急いだ。
そこには、銀色の鎧を身につけた騎士たちが並んでいた。
その中央に立つのは、見覚えのある顔。
「……リディア王女」
金髪を風になびかせ、高慢な表情で立つ彼女。
だが、以前とは何かが違う。
目の下には隈があり、表情には焦りが滲んでいた。
「セラ……!」
リディア王女が私を見つけ、声を上げる。
「お願いだから、戻ってきて! あなたがいないと、国が……!」
「断ります」
即答だった。
「私は、もうルミナリアの聖女ではありません」
「そんな……!」
王女の顔が歪む。
「あなたを追放したのは間違いだった! 謝るわ! だから……!」
「遅いです」
私の声は静かだった。
「私を必要としてくれる人が、ここにいます。大切にしてくれる人が、ここにいます」
ユリウス伯爵の手が、そっと私の肩に触れた。
「だから、もう戻りません」
リディア王女は唇を震わせた。
「……そう。なら、力づくでも連れ戻すわ」
騎士たちが一斉に剣を抜く。
だが、それより早く――
シュネーブルクの騎士団が、私たちの前に立ちはだかった。
「我らが聖女に、手を出させはしない」
レオンさんの声が響く。
その後ろには、昨日私が治療した騎士たちが並んでいた。
「セラ様は、俺たちの命の恩人だ」
「この国の宝だ」
「渡すわけにはいかない」
次々と声が上がる。
その光景に、胸が熱くなった。
(私は……こんなにも、守られている)
ユリウス伯爵が一歩前に出た。
「ルミナリア王国の主張は認められない。セラ・アッシュタールは自らの意思でこの国にいる。それを証明する証人は、この場にいる全員だ」
その声は低く、しかし揺るぎない威厳に満ちていた。
「これ以上この地に留まるなら、それは侵略行為と見なす。即刻、立ち去れ」
リディア王女は歯噛みした。
「……覚えてなさい。これで済むと思わないで」
そう言い残し、踵を返す。
ルミナリアの軍隊が撤退していく中、私はその場に立ち尽くしていた。
「セラ」
ユリウス伯爵が私を抱き寄せる。
「もう大丈夫だ。お前は、ここにいていい」
その言葉に、堰を切ったように涙が溢れた。
「ユリウス伯爵……」
「泣くな」
優しく髪を撫でる手。
「お前は、俺が守る。何があっても」
騎士たちも、温かい目で私たちを見守っていた。
レオンさんは安心したように笑っている。
フェルンは尻尾を振りながら、にこにこと笑っている。
(ああ、私は……本当にここに来てよかった)
雪が静かに降り続ける中、私は確信した。
ここが、私の本当の居場所なのだと。
そして、この人と一緒なら――
どんな困難も、乗り越えられる。
「ありがとうございます、ユリウス伯爵」
そう言うと、伯爵はわずかに眉を寄せた。
「……礼はいらないと言っただろう」
「でも、言わせてください」
私は彼の胸に顔を埋めた。
「あなたがいてくれて……本当によかった」
彼の心臓の音が、力強く響いていた。
その鼓動が、私の新しい人生を祝福しているように思えた。
ルミナリアの軍隊が撤退してから三日が過ぎた。
城内は以前にも増して警備が厳重になり、国境の守りも強化された。ユリウス伯爵は連日会議に追われ、私と顔を合わせる時間も少なくなっていた。
「セラ様、お茶をお持ちしました」
自室で窓の外を眺めていると、フェルンが入ってきた。
「ありがとう、フェルン」
「どうしたんですか? 元気ないですよ」
フェルンは私の隣に座り、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「……ユリウス伯爵、忙しそうで」
「あー、そりゃそうですよ。ルミナリアが引き下がったとはいえ、油断はできませんからね」
フェルンは尻尾を揺らしながら、にやりと笑った。
「でも、伯爵様、執務室でずっとセラ様のこと心配してましたよ」
「え?」
「『セラは大丈夫か』『無理をしていないか』って、セドリックさんに何度も確認してました」
顔が熱くなる。
「そ、そんなこと……」
「本当ですってば! もう、見てるこっちが照れますよ」
フェルンはけらけらと笑う。
その明るさに、少しだけ気持ちが軽くなった。
「フェルンは、いつも元気だね」
「そりゃあ、セラ様に助けてもらった恩がありますから! 元気じゃなきゃ恩返しできないですし」
そう言って胸を張るフェルン。
でも、ふとその表情に影が落ちた。
「……あの」
「ん?」
「実は、セラ様にお話ししたいことがあって」
フェルンは珍しく真剣な顔をしている。
「夜、私がどこに行ってるか……気になってますよね?」
図星だった。
私は小さく頷く。
「無理に聞こうとは思わないけど……何か困ってることがあるなら、力になりたい」
フェルンはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……実は、森に帰ってるんです」
「森に?」
「はい。私の群れ……家族に、会いに」
フェルンは窓の外を見つめる。
「人間の姿でいるのって、思ったより疲れるんです。だから夜は狼の姿に戻って、家族と過ごしてます」
「そうだったんだ……」
「でも、セラ様の側を離れるのが不安で。だから毎朝、必ず戻ってきてるんです」
その言葉に、胸が温かくなった。
「フェルン……」
「あ、でも! 嫌じゃないですよ、人間の姿! セラ様の役に立てるなら、ずっとこの姿でいたいです!」
慌てて付け加えるフェルンに、私は微笑んだ。
「無理しないで。家族は大切だもの。夜くらい、ゆっくり休んでいいんだよ」
「セラ様……」
フェルンの目が潤む。
「ありがとうございます。やっぱり、セラ様は優しいです」
「そんなことないよ」
「いえ、本当に! だから――」
フェルンは立ち上がり、深々と頭を下げた。
「私、セラ様を一生守りますから!」
その真剣な眼差しに、私も思わず立ち上がった。
「フェルン、顔を上げて」
「はい?」
「私の方こそ、ありがとう。あなたがいてくれて、本当に心強い」
そう言って抱きしめると、フェルンは驚いたように固まった後、ぽろぽろと涙を流し始めた。
「うわぁぁん! セラ様ー!」
「ちょ、ちょっとフェルン!?」
「だって、だって……! こんなに優しくしてもらったの、初めてで……!」
泣きじゃくるフェルンを抱きしめながら、私も目頭が熱くなった。
この城に来てから、本当にたくさんの温かさに触れている。
それは、ルミナリアでは決して得られなかったものだった。
扉がノックされたのは、その時だった。
「セラ、入ってもいいか」
ユリウス伯爵の声だ。
「あ、はい! どうぞ!」
慌ててフェルンを離すと、扉が開いた。
ユリウス伯爵が入ってきて、泣いているフェルンを見て眉をひそめる。
「……何かあったのか」
「い、いえ! 嬉し泣きです!」
フェルンは慌てて涙を拭う。
「じゃ、じゃあ私、下に戻りますね! ごゆっくり!」
そう言って、フェルンは駆け出していった。
部屋に残された私とユリウス伯爵。
少しの沈黙の後、伯爵が口を開いた。
「……最近、話す時間が取れなくて済まない」
「いえ、お忙しいのはわかっていますから」
「それでも、だ」
伯爵は私の前に立ち、そっと手を伸ばした。
その手に、私も手を重ねる。
「体調は問題ないか?」
「はい。フェルンも、皆さんも、よくしてくださって」
「そうか」
伯爵はわずかに表情を緩めた。
「……実は、今夜、お前に見せたいものがある」
「見せたいもの?」
「ああ。夕食の後、中庭に来てくれ」
そう言って、伯爵は私の手を離した。
「それまで、楽しみにしていてほしい」
その言葉に、胸が高鳴る。
「はい、わかりました」
伯爵は満足そうに頷き、部屋を出ていった。
一体、何を見せてくれるんだろう。
期待と不安が入り混じった気持ちで、私は夕方を待った。
夕食を済ませ、コートを羽織って中庭に向かう。
既にユリウス伯爵が待っていた。
「来たか」
「はい。あの、何を――」
言いかけて、私は息を呑んだ。
中庭の木々に、無数の小さな光が灯っていた。
まるで星が降ってきたような、幻想的な光景。
「これ……」
「魔法の灯りだ。お前が来てから、城が明るくなったと皆が言っている。だから、その感謝の気持ちを形にしたいと思った」
ユリウス伯爵の声は、いつもより少し優しい。
「綺麗……」
「お前が喜んでくれるなら、それでいい」
そう言って、伯爵は私の手を取った。
「セラ」
「はい」
「俺は、お前をこの城に迎えて本当によかったと思っている」
真っ直ぐな眼差し。
「お前がいなければ、この城はただの冷たい石の塊だった。だが今は違う」
伯爵の手が、私の頬に触れる。
「お前が、ここを温かい場所に変えてくれた」
胸が熱くなる。
涙が溢れそうになるのを、必死にこらえる。
「ユリウス伯爵……」
「だから、これからもここにいてほしい。俺の隣に」
その言葉に、もう涙を堪えられなくなった。
「はい……はい……!」
伯爵は優しく私を抱き寄せた。
星のような光に包まれながら、私たちは静かに寄り添っていた。
――どれくらいそうしていただろう。
ふと、城門の方から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「ユリウス様! 緊急の報告です!」
レオンさんの声だ。
伯爵は私を離し、眉をひそめた。
「何があった」
「森の奥で、大量の魔物が集結しています! このままでは、城下町に被害が……!」
その言葉に、私たちは顔を見合わせた。
「数は?」
「少なくとも五十体以上。しかも、統率された動きをしています」
「統率?」
ユリウス伯爵の声が鋭くなる。
「誰かが操っているのか?」
「その可能性が高いです」
レオンさんは険しい表情で答えた。
「ユリウス伯爵、私も行きます」
私が言うと、伯爵は即座に首を横に振った。
「危険すぎる」
「でも、怪我人が出るかもしれません。私の治癒魔法が必要です」
「セラ――」
「お願いします」
私は真っ直ぐ伯爵を見つめた。
「私も、この国を守りたいんです」
伯爵はしばらく私を見つめていたが、やがて深く息を吐いた。
「……わかった。だが、絶対に俺から離れるな」
「はい」
私たちは城門へと急いだ。
騎士団が既に出撃の準備を整えている。
その中にフェルンの姿もあった。
「セラ様! 私も行きます!」
「フェルン……」
「私の家族も森にいるんです。守らなきゃ」
その目は、強い決意に満ちていた。
「わかった。でも、無理はしないで」
「はい!」
ユリウス伯爵が馬に乗り、私を引き上げた。
「掴まっていろ」
「はい」
彼の背中に腕を回す。
その瞬間、馬が駆け出した。
騎士団を率いて、私たちは森へと向かう。
月明かりの下、魔物の群れが見えてきた。
異様な光を放つ瞳。
統率された動き。
そして、その中心に——
黒いローブを纏った人影があった。
「あれは……」
「魔術師だ」
ユリウス伯爵が低く呟く。
「ルミナリアの差し金か……」
魔物たちが一斉にこちらを向いた。
戦いが、始まろうとしていた。




