023話 絆
翌朝、私は珍しく早く目が覚めた。
昨日あれだけ魔力を使ったのに、体は不思議と軽い。胸の奥に温かいものが満ちているような感覚があった。
窓の外では雪が降り始めている。
シュネーブルクの冬は厳しいと聞いていたけれど、この白い景色はどこか優しく見えた。
「……この城で迎える、初めての雪か」
カーテンを開けながら呟くと、扉がノックされた。
「セラ様、朝食の準備が整いました」
セドリックさんの声だ。
「ありがとうございます。すぐ行きます」
身支度を整えて大広間へ向かうと、既にユリウス伯爵が席についていた。
「おはようございます」
「……ああ。顔色がいいな」
伯爵は書類から目を上げ、わずかに目を細めた。それだけで「心配していた」という気持ちが伝わってくる。
「おかげさまで、ぐっすり眠れました」
「そうか」
短い返事。けれど満足そうな響きがあった。
朝食を運んできたメイドが、いつもより豪華な料理を並べていく。温かいスープ、焼きたてのパン、色とりどりの果物。
「これは……」
「昨日、無理をさせた。せめて食事くらいは贅沢をさせろ」
ユリウス伯爵は淡々とそう言うが、その横顔は少し照れているように見えた。
胸が温かくなる。
(本当に……優しい人)
食事を始めようとしたその時、執事が慌ただしく入ってきた。
「ユリウス様、緊急の報告です」
「なんだ」
「ルミナリア王国から、正式な国書が届きました」
その言葉に、場の空気が一変した。
ユリウス伯爵は静かに立ち上がり、執事から羊皮紙を受け取る。
封蝋を破り、中身を確認した伯爵の表情が、徐々に険しくなっていく。
「……どういうことだ、これは」
低く、抑えた怒気を含んだ声。
私は思わず立ち上がった。
「何が書いてあるんですか?」
「……セラを、正式に返還しろと」
「え……?」
「ルミナリア王国は、セラ・アッシュタールが国外に不当に連れ去られたと主張している。即刻返還しなければ、国交断絶も辞さないと」
血の気が引いた。
「そんな……私は自分の意思でここにいるのに……!」
「わかっている」
ユリウス伯爵は国書を机に叩きつけた。
「だが、向こうは『魔法が使えなくなった聖女を騙して連れ去った』という筋書きを作り上げている」
「騙してなんか……!」
「セラ」
伯爵が私の肩に手を置く。
「落ち着け。これは政治的な駆け引きだ。お前が悪いわけではない」
その声に、少しだけ気持ちが落ち着く。
「でも、どうして今更……」
「結界の修復だ」
セドリックさんが静かに口を挟んだ。
「セラ様がルミナリアで結界を修復したことで、王国内での評価が一変したようです。『天才聖女を手放したのは失策だった』という声が高まり、王室が焦っているのでしょう」
「だから、強引に取り戻そうと……」
「ああ」
ユリウス伯爵は冷たく言い切った。
「都合のいい連中だ」
私は唇を噛んだ。
あの国で私は何年も働いた。けれど感謝されることはなく、最後には追放された。
なのに今更、必要だからと呼び戻そうとする。
「……私は、戻りません」
自分の声が、思ったより強く響いた。
「絶対に、戻りません」
ユリウス伯爵が私を見つめる。
「後悔しないか? これは、両国の関係を揺るがす問題になる」
「後悔しません」
私は真っ直ぐ伯爵を見返した。
「私の居場所は、ここです。ユリウス伯爵の隣です」
その言葉に、伯爵の瞳が揺れた。
次の瞬間、彼は私を抱き寄せた。
「……なら、戦う。お前を守るために」
その腕の温もりに、涙が溢れそうになる。
私は震える声で答えた。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
彼は私の髪に顔を埋めた。
「お前は俺の婚約者だ。守るのは当然のことだ」
胸が高鳴る。
こんなにも真っ直ぐに守ると言ってくれる人が、今まで私にいただろうか。
しばらくそうしていると、扉が勢いよく開いた。
「セラ様ー! 大変です!」
フェルンだ。
「城門に、ルミナリアの軍隊が来てます!」
「なんだと⁉︎」
ユリウス伯爵が素早く私を離し、剣を掴む。
「セラ、ここにいろ」
「待って、私も行きます!」
「危険だ」
「でも、私のことで揉めてるんですよね? だったら、私が行かないと」
ユリウス伯爵はしばらく私を見つめていたが、やがて深く息を吐いた。
「……わかった。だが、俺の後ろから離れるな」
「はい」
私たちは城門へと急いだ。
そこには、銀色の鎧を身につけた騎士たちが並んでいた。
その中央に立つのは、見覚えのある顔。
「……リディア王女」
金髪を風になびかせ、高慢な表情で立つ彼女。
だが、以前とは何かが違う。
目の下には隈があり、表情には焦りが滲んでいた。
「セラ……!」
リディア王女が私を見つけ、声を上げる。
「お願いだから、戻ってきて! あなたがいないと、国が……!」
「断ります」
即答だった。
「私は、もうルミナリアの聖女ではありません」
「そんな……!」
王女の顔が歪む。
「あなたを追放したのは間違いだった! 謝るわ! だから……!」
「遅いです」
私の声は静かだった。
「私を必要としてくれる人が、ここにいます。大切にしてくれる人が、ここにいます」
ユリウス伯爵の手が、そっと私の肩に触れた。
「だから、もう戻りません」
リディア王女は唇を震わせた。
「……そう。なら、力づくでも連れ戻すわ」
騎士たちが一斉に剣を抜く。
だが、それより早く——
シュネーブルクの騎士団が、私たちの前に立ちはだかった。
「我らが聖女に、手を出させはしない」
レオンさんの声が響く。
その後ろには、昨日私が治療した騎士たちが並んでいた。
「セラ様は、俺たちの命の恩人だ」
「この国の宝だ」
「渡すわけにはいかない」
次々と声が上がる。
その光景に、胸が熱くなった。
(私は……こんなにも、守られている)
ユリウス伯爵が一歩前に出た。
「ルミナリア王国の主張は認められない。セラ・アッシュタールは自らの意思でこの国にいる。それを証明する証人は、この場にいる全員だ」
その声は低く、しかし揺るぎない威厳に満ちていた。
「これ以上この地に留まるなら、それは侵略行為と見なす。即刻、立ち去れ」
リディア王女は歯噛みした。
「……覚えてなさい。これで済むと思わないで」
そう言い残し、踵を返す。
ルミナリアの軍隊が撤退していく中、私はその場に立ち尽くしていた。
「セラ」
ユリウス伯爵が私を抱き寄せる。
「もう大丈夫だ。お前は、ここにいていい」
その言葉に、堰を切ったように涙が溢れた。
「ユリウス伯爵……」
「泣くな」
優しく髪を撫でる手。
「お前は、俺が守る。何があっても」
騎士たちも、温かい目で私たちを見守っていた。
レオンさんは安心したように笑っている。
フェルンは尻尾を振りながら、にこにこと笑っている。
(ああ、私は……本当にここに来てよかった)
雪が静かに降り続ける中、私は確信した。
ここが、私の本当の居場所なのだと。
そして、この人と一緒なら――
どんな困難も、乗り越えられる。
「ありがとうございます、ユリウス伯爵」
そう言うと、伯爵はわずかに眉を寄せた。
「……礼はいらないと言っただろう」
「でも、言わせてください」
私は彼の胸に顔を埋めた。
「あなたがいてくれて……本当によかった」
彼の心臓の音が、力強く響いていた。
その鼓動が、私の新しい人生を祝福しているように思えた。




