021話 治療
城の中庭でユリウス伯爵と歩いていると、遠くから喧騒が聞こえてきた。最初は風の音かと思ったけれど、耳に届く叫び声には切迫した色がある。
「……騎士団が戻ってきたようですね」
ユリウス伯爵がわずかに眉をひそめる。私は胸の奥がざわつき、不安が一気に広がった。
「怪我人……いますよね。行ってみないと」
私がそう言うなり、ユリウス伯爵が軽く腕を伸ばし、私の歩みを制した。
「慌てるな。……俺が歩幅を合わせる。ついてこい」
そう言って、いつもより少しだけ早歩きの伯爵が、私の速度に合わせて歩き始める。
何度こうして助けられてきただろう。
あの冷たく見える横顔の裏には、誰よりも細やかな気遣いがある。それに気づくたび、胸の奥がそっと熱くなる。
城門へ向かう途中、空気はどんどん騒がしくなり、鉄の匂い——血の匂いが近づいてくる。
「……急ぎましょう」
「わかっている。だが走るな。転ぶぞ」
言葉は厳しいのに、声音はひどく優しい。
そんな彼の横顔に胸がきゅっとしたけれど、その感覚に浸っている暇はなかった。
城門前にたどり着くと、思わず息を呑む。
地面には簡易の担架が並び、鎧の隙間から血を流した騎士たちが横たわっていた。それを取り囲むように、部下たちが必死に手当てしている。
「セラ様!」
その中から、聞き慣れた声が聞こえた。
黒髪を汗で濡らしながら、レオンさんが片腕を押さえ、こちらへ向かってくる。
腕には深い噛み跡……魔獣のものだ。
「レオンさん、その怪我……!」
「はは……ちょっと油断しました。すみません」
笑ってみせるけれど、痛みをこらえているのは誰が見ても明らかだった。
「とにかく……座ってください。治します」
私は彼の腕にそっと触れ、目を閉じる。
すぐに、胸の奥から光が溢れ出し、傷口に吸い込まれるように広がっていく。
じんわりと温かい光が、彼の皮膚をつなぎ、肉を再生させていく。
周囲から、驚きのどよめきが聞こえた。
「こんな速さで……治癒が……」
「本物の聖女だ……」
レオンさんは痛みに耐えていた顔をゆっくり緩め、安堵の息を吐いた。
「何度も助けられてますね……本当に、ありがとうございます」
「無茶しすぎなんですよ。もっと自分を大事にしてください」
私が言うと、レオンさんは赤い顔で視線をそらした。
「……はい。気をつけます」
そんな空気を切り裂くように、背後から冷たい気配が近づいた。
振り向くまでもなく、誰だかわかる。
「他の者の治療も頼めるか、セラ」
「もちろんです、ユリウス伯爵」
伯爵は無言で頷き、私の隣に立つ。
その位置は、まるで私を守る壁のようだった。
それから私は、一人ひとりの負傷を確認しながら治癒魔法を施した。
足を深く切られた騎士。
鎧の上から強い打撃を受け、呼吸が乱れていた騎士。
魔力を使い果たして倒れ込んでいた魔術師の騎士。
そのたびに光を送り込み、傷を癒やし、痛みを和らげていく。
「セラ様……! 本当に、ありがとうございます」
「もう動ける……これで次の巡回に行けます……!」
騎士たちの喜びや感謝の声が、次々と私に向けられる。
だけど私は首を横に振るばかりだ。
「みんな無事でよかったんです。私にできるのは、それだけですから」
そのとき、横から小さく息を吐く気配があった。
ユリウス伯爵だ。
彼は何も言わず、ただ私の働きを黙って見守っている。
けれど、治癒を終えるたびに伯爵の眼差しはやわらかくなり、氷のようだった瞳が、水面みたいに揺れていた。
全員の治療を終えるころには、西の空が薄桃色に染まり始めていた。
緊張も解け、騎士団の表情にも安堵が広がる。
「セラ様、本当に……ありがとうございました」
「あなたがいなければ、何人かは危なかった」
レオンさんが深く頭を下げる。
私は慌てて首を振った。
「顔を上げてください。私の方こそ……守ってくれてありがとうございます」
その一言に、レオンさんの金の瞳が揺れた。
でも、何か言おうとした彼の声を、すっと割って入る影がある。
「セラ、戻るぞ」
ユリウス伯爵だ。
低い声なのに、不思議と優しい響きを帯びている。
「歩き疲れただろう。……足元に気をつけろ。また俺が合わせる」
その言葉に胸が熱くなる。
さっきよりも少し距離が近いのは、気のせいじゃない。
「はい、ユリウス伯爵」
並んで歩き出す。
それだけで、夕方の冷たい空気が胸の奥まで温かくなる気がした。
背後では、レオンさんが複雑そうな顔でこちらを見ていた。
感謝の気持ちと、何か言いたそうな悔しさと……全部が混ざった表情。
だけど私は、振り返らず歩いた。
隣にいるユリウス伯爵との歩幅を合わせながら。
「……今日も頑張ったな、セラ」
伯爵が小さく呟いた。
それだけで、心が柔らかくほどけていく。
「……はい」
夕焼けの光の中で、伯爵の横顔は少し照れて見えた。
私たちは肩が触れそうな距離のまま、静かに城の中へ戻っていった。




