020話 嫉妬
フェルンがこの城にやってきて、一週間が過ぎた。
人狼のメイドなんてどうなることかと思ったけれど、その明るい性格もあって今ではすっかり他の従者達と打ち解けている。
やっぱり根が明るい性格だと得だな、なんて羨んでいると、中庭から聞き慣れた声がした。
「セラ様ー! いらっしゃいますか!」
黒髪が陽光を受けて淡く光り、すらりとした体躯が風を切る。
国境警備隊所属の若き騎士、レオンさんだ。
シュネーブルクの城に来た初日、最初に案内してくれたのが彼だった。
明るく気さくで、誰とでもすぐ打ち解ける性格。
だからつい、私も話しやすくて……つい、笑顔がこぼれてしまう人。
「レオンさん、どうしたんですか?」
「巡回の報告です! あ、でもそれだけじゃなくて……」
彼は少し照れたように後頭部をかく。
「セラ様に聞きたいことがあって」
「私に? なんでしょう?」
「森のことなんですけど」
レオンは声を潜め、ぐっと顔を近づける。
「最近、森の魔獣が妙におとなしいんですよ。白い光の噂もまだ残ってて……。あれ、やっぱりセラ様が治癒魔法を使った時の光ですよね?」
「え、えっと……まあ、そうかもしれませんけど……」
「やっぱり! いやあ、すごいです。治癒魔法で森全体の気配が変わるなんて聞いたことありませんよ」
レオンさんは素直に感嘆したように言う。
「そんなことないと思います。ただ、困ってる命を助けただけで……」
「それがすごいって言ってるんです!」
黒髪が揺れ、金の瞳がまぶしく笑う。
(相変わらず明るいなあ……)
レオンさんと話していると、気持ちがつられて軽くなっていく。
それは決して、ユリウス伯爵とは違う種類の……だが確かな安心感だった。
「それで、森の警戒はどうなったんですか?」
「大丈夫ですよ。おかげで怪我人も減ってますし。あ、そうだ!」
レオンが思い出したように声を上げる。
「例の狼の件で、隊のみんながセラ様のおかげかもしれないって噂してました」
「う、噂⁉︎ なんでそんな……」
「いや、治癒魔法の光が見えたって話もあるんで……。でも、みんな良い意味でですよ。感謝してるくらいです」
「そ、そんな……たいしたことは……」
「謙遜しすぎです! セラ様は」
「レオン」
その時だった。
冷ややかで、静かで、しかし確かな圧を孕んだ声が、私たちの背後から落ちてきた。
「ユリウス伯爵……」
振り返ると、そこにいつもの濃紺のコート姿で立つユリウス伯爵がいた。
表情は変わらぬまま。だが、その瞳の奥に淡い影が落ちている。
「お疲れ様です、伯爵!」
レオンさんはよく通る声で敬礼した。
しかしその声も伯爵の冷静さには届かない。
「……報告をする相手を、間違えていないか?」
「え? あっ……す、すみません。ついセラ様と先に話してしまって」
「そうだろうな。楽しげだった」
伯爵はわずかに視線を伏せる。
その所作は静かだが、どこか抑えつけたような怒気を感じる。
「ユリウス伯爵、あの、違うんです。レオンさんとは、ただ森の話をしていただけで……!」
「セラ」
名前を呼ぶ声は、余裕を装いながらも微妙に低い。
その声色に少しだけ焦りのようなものが混ざっているのに、私は気づいた。
「……他の男と距離が近いのは好ましくない」
「えっ」
「お前は私の婚約者だ」
それは、真っ直ぐな言葉だった。
隣でレオンさんの肩がわずかに震えた。
「す、すみません! そ、そんなつもりはなかったんですが……!」
「わかっている。悪気があったわけではないのだろう」
ユリウス伯爵は静かに告げる。
しかしその余裕の薄い声は、明らかに怒りを抑えていた。
「だが、好ましくはない」
レオンさんが「うっ……」と小さくたじろぐ。
私はあわてて仲裁に入った。
「ユリウス伯爵、レオンさんを責めないでください。私が……距離感を気にしていなかっただけで……」
「セラ。お前が責められることもない」
伯爵の視線がふっと私にだけ向いた。
深く、迷いなく、どこか切実な色を帯びて。
「ただ……俺が、心配なだけだ」
心臓の奥がじんわり熱くなる。
(そんな言い方……ずるい……)
レオンさんは気まずそうに言った。
「あの……じゃ、じゃあ俺、城壁の点検に行ってきます! セラ様、また明日!」
「あ、うん。気をつけて」
「はいっ!」
風のようにレオンさんは去っていった。
そして中庭に残された私と伯爵の間に、ほのかな沈黙が落ちる。
「ユリウス伯爵……嫉妬してますか?」
「していない」
答えは即答。
しかしその声は僅かに硬くて、耳が赤い。
「してますよね」
「していない」
「レオンさんのこと、嫌なんですか?」
「嫌いではない」
伯爵は静かに言う。
「だが—-セラと軽口を叩ける男であることが気に入らない」
そう言って伯爵は、私の手をそっと取った。
手袋越しでも温度が伝わってくる。
「……お前が笑うのは、俺の前だけでいい」
「そ、そんなこと……!」
「駄目か?」
不器用で真っ直ぐな声音。
胸の奥まで突き刺さるような問いかけだった。
私は慌てて小さく首を振る。
「だ、駄目じゃないです……けど……」
「なら、いい」
伯爵は満足したように目を細め、そっと私の手を離した。
しかし代わりに、肩が触れ合うくらいの距離に寄り添ってくる。
「無理を言った。……だが、私はお前を大切に思っている」
その声音の優しさに、思わず胸がきゅっと苦しくなる。
(ユリウス伯爵……こんなふうに言ってくれるなんて……)
「セラ」
「はい」
「……君は隙がありすぎる」
「……すみません」
「謝るな」
伯爵は視線をそらし、しかし小さく息をついた。
「……その笑顔は、私だけに向けろ」
胸が一瞬で熱くなる。
「……はい」
その返事に、伯爵の横顔はわずかに緩んだ。
雪解けのように、静かに。
そして、私たちは肩を寄せ合ったまま、ゆっくりと城の中へと戻っていった。




