019話 正式採用
フェルンが城にやってきて、三日が経った。
仕事を教え始めた当初から、彼女は妙に飲み込みが早かった。
三日目にして、ほとんどの雑務をそつなくこなしてしまうようになったのだ。
「フェルン、その……本当に初めてなの? こういうお仕事」
私は半ば呆れつつ問いかける。フェルンは、掃除を終えたばかりの廊下を満足そうに眺め、胸を張った。
「はいっ、もちろん初めてです! でも、セラ様が教え方うますぎるんですよ。『ここは埃を取るより先に換気』とか、『床磨きは力より角度』とか!」
「い、いや……普通のことを言ってるだけだと思うんだけど……」
「いえいえっ。セラ様のアドバイスは、全部こう……胸にすとーんって落ちるんです。あ、これ昨日も言いましたね私!」
ぺろっと舌を出して笑うフェルン。
その軽さが妙におかしくて、思わず笑ってしまう。
「でも、ほんとうに大丈夫? まだ慣れない仕事もあるでしょう?」
「ありますよ! たとえば」
フェルンは胸に手を当て、やけに真剣な顔で言った。
「メイドさん達とのおしゃべり」
「えっ?」
「なんですかあの緊張感! 『伯爵のお好みはね』『奥方として相応しい立ち振る舞いはね』って、ひたすらセラ様の話題ですし。話しかけられるたびに背筋が冷たくなるんですよ!」
「わ、私の……?」
「そうですよ、セラ様の! 伯爵、城の誰よりも優先してセラ様を気にしてるって、みんな知ってるみたいで……」
「ちょ、ちょっと待って。それは言いすぎじゃ」
慌てて首を振る私に、フェルンはきらきらした瞳を向けた。
「えー? 本当ですよ? だって、昨日だって」
「昨日?」
「はい。昨日、廊下で伯爵に会ったんですけど、『セラはどこだ』って開幕から聞かれてびっくりしました!」
「っ……!」
確かにユリウス伯爵は、よく私の居場所を確認してくれるけれど。
それは、私がまだこの土地に慣れていないから、気遣ってるだけじゃないかなあと。
「フェルン、その……言い方というものが……」
「あー、ちょっとからかい過ぎましたかね?」
「か、からかわれてたの!?」
「わかりやすいですよセラ様は!」
けらけらと笑うフェルンに、私は思わず頬を膨らませた。
しかし気心が知れてくると、彼女は本当に扱いやすい。遠慮も構えもなく自然体でいてくれるので、こちらもついつい気が緩む。
——ただ、気になることがひとつだけある。
この三日間、フェルンは夜になると必ず決まった時間に姿を消し、翌朝には普通の顔で戻ってくる。
不審というほどではない。だが、規則正しく籠もるのだ。
「フェルン、あの……」
「はい!」
彼女は布を抱えたまま振り向いた。
「夜は……部屋で休めてる? なにか困ってることがあれば言ってね。隠さなくていいから」
「え、あ、はい。えっと、ちゃんと眠れてますよ!」
一拍、間。
その一瞬の「考える間」は、絶対に自然なものではなかった。
やはり、何か秘密がある……。
とはいえ、追及しすぎるのもよくないだろう。たとえ秘密があったとしても、今のところ不審な行動はないのだし。
「セラ様が優しすぎるから、嬉しいです。やっぱり、聖女ってすごいですね」
「え? どうして?」
「だって、空気がまろやかっていうか……一緒にいると安心するっていうか……」
ぽつ、とフェルンは呟いたあと、恥ずかしそうに笑った。
「……その言い方はちょっと照れるんだけど……」
「あっ! ご、ごめんなさい⁉︎」
「怒ってないよ」
私は微笑んで肩をすくめた。
「私、聖女として王都で働いてた頃は、こんなふうに誰かと普通に会話することすら少なかったから……」
ふっと、胸が締めつけられるような感覚がよぎる。
ルミナリア王国での日々。
結界の維持に追われ、王宮の人々に感謝されるどころか疎まれ、挙げ句の果てには――
追放。
あの頃の痛ましい出来事を思い返し、思わず視線を伏せる。
「……セラ様?」
「え、あ、ごめん。ちょっと昔を思い出して」
「セラ様の昔のこと、もっと知りたいです」
「それは……いずれ、話すよ」
「約束ですよ!」
フェルンは満面の笑みを浮かべた。
そんな彼女を見ていると、ついこちらも頬が緩んでくる。
そうやって穏やかな時間を過ごしていると——
「セラ」
背後から低い声がした。
振り向けば、ユリウス伯爵が廊下の端に立っている。
「あ……ユリウス伯爵」
「部屋に戻る前に、少し話がある。フェルンも一緒にだ」
「は、はいっ!」
フェルンはぴしっと背筋を伸ばし、伯爵の前に立った。
ユリウス伯爵は彼女に視線を落とし、穏やかに言う。
「三日間見ていたが、手際がいい。周囲の評判も悪くない。正式に、うちの使用人として雇おうと思う」
「え……!」
フェルンの瞳が大きく見開かれる。
「よかったね、フェルン」
「は、はい……! あ、あの……本当に、いいんですか……?」
「君が望むならな」
伯爵は短く答える。
その声音はいつも通り冷静だが、どこか柔らかい響きが含まれていた。
「セラのおかげだ。あの狼の件もあるが……何より、君を信頼している」
ユリウス伯爵は私にだけ向ける、ほんの微かな微笑みを見せた。
「伯爵……」
胸がじんと熱くなる。
「というわけで、フェルン。明日からは給金もきちんと支払う。仕事は増えるが、できるな?」
「もちろんですっ! 頑張ります!!」
フェルンは弾むような声音で答えた。
本当に嬉しそうで……こちらまでつられて笑ってしまう。
「では、セラ。部屋まで送る」
「えっ、い、いいですよ、城の中ですし」
「それでもだ。送らせてもらう」
そう言って私の手を取る伯爵。
その堂々たる仕草に、フェルンが後ろで「ひゅ〜」と小さく口笛を吹いた気がした。
「フェルン!」
「あっ! なんでもないですっ!!」
私が振り返ると、フェルンは全力で作業用のバケツを持ち上げていた。
誤魔化し方が絶望的に下手だ。
でも、その不器用さが不思議と愛しい。
「ユリウス伯爵、あの子……本当に面白い子ですね」
「……ああ。どこか君と似ている」
「私と? どこがですか?」
「騒がしくて、よく笑うところだ」
「騒がしくはないですよ!」
「今も騒がしい」
「む……!」
頬を膨らませた私に、伯爵はくすりと微笑む。
その穏やかな表情に、胸の奥が温かくなった。
フェルンが加わったことで、城の日常に新しい風が吹き始めている。
これからどうなるのか、少しだけ楽しみだ。




