017話 シュネーブルクへの帰還
シュネーブルクへの帰路は、来た時とは全く違っていた。
馬車の中で、私はユリウス伯爵の隣に座っている。
彼は書類を広げていたが、ふと手を止めて私を見た。
「疲れているなら、肩を貸そう」
「え……」
「遠慮はいらない。ルミナリアで無理をさせすぎた」
その言葉に甘えて、私は彼の肩に頭を預けた。
青年の逞しい上半身が枕代わりになり、心地よい眠気に誘われる。
「……気持ちいい、です」
「そうか」
声がいつもより柔らかい。
「シュネーブルクに戻ったら、しばらくは何もさせない。ゆっくり休め」
「はい……」
彼の肩にもたれかかり、私はうとうとと眠りに落ちていった。
どれくらい経っただろう。
馬車が急停止し、私は目を覚ました。
「……どうしたんですか?」
「わからん。だが——」
ユリウス伯爵が窓の外を見る。
その瞬間、御者の悲鳴が響いた。
「ま、魔物です! 森から!」
伯爵は即座に剣を抜き、馬車から飛び降りた。
「セラ、ここにいろ!」
「待って、私も——」
「お前は体力を使い果たしている。無茶をするな!」
そう言い残し、彼は駆け出していった。
窓から外を覗くと、森の中から巨大な影が迫ってくる。
黒い毛並みと、鋭い牙を持った獣——ダイアウルフだ。
しかも、一頭ではない。
五頭、六頭……次々と現れる。
「くそ、群れか!」
護衛の騎士達が剣を抜き、応戦する。
ユリウス伯爵の剣が一閃し、一頭のダイアウルフが倒れた。
だが——数が多すぎる。
「ユリウス様、後方にも!」
騎士の一人が叫ぶ。
ユリウス伯爵が振り返った瞬間、別のダイアウルフが彼に飛びかかった。
「ユリウス伯爵!」
私は馬車から飛び出し、咄嗟に手を伸ばした。
「光よ——!」
掌から閃光が放たれ、ダイアウルフを弾き飛ばす。
魔法が使えた!
「セラ! 何をしている、危ない!」
「大丈夫です! 魔力が、戻ってきてます!」
不思議だった。
ルミナリアで結界を直した時は力を使い果たしたのに、今は体の奥から魔力が湧き上がってくる。
まるで——本当に大切な人を守りたいという想いが、魔力を呼び起こしているようだった。
「セラ、無理をするな!」
「無理じゃありません! あなたを守りたいんです!」
私は両手を掲げ、浄化の魔法を放った。
光の波が広がり、ダイアウルフたちが悲鳴を上げて後退する。
「すごい……」
騎士の一人が呟く。
「セラ様の魔法が、こんなに強いなんて……」
だが、魔物はまだ諦めていなかった。
最も大きな個体——おそらく群れのリーダーが、牙を剥いて突進してくる。
「セラ、避けろ!」
ユリウス伯爵が叫ぶ。
でも——避けられない。
体が動かない。
(まずい……!)
その瞬間、ユリウス伯爵が私の前に躍り出た。
剣がダイアウルフの牙と激突し、火花が散る。
「お前に……指一本触れさせるか……!」
伯爵の声が、低く響く。
そして——剣が閃いた。
一瞬の出来事だった。
ダイアウルフの首が地面に転がり、残りの群れは逃げ去っていく。
伯爵は剣を収め、私を抱きしめた。
「無茶をするなと言っただろう」
「ごめん、なさい……でも……」
「でも、何だ」
「あなたが傷つくのを見たくなくて……」
その言葉に、伯爵の腕に力が込められる。
「……お前は、本当に……」
彼は私の髪に顔を埋めた。
「俺を困らせる」
「すみません……」
「謝るな。ただ——」
伯爵は顔を上げ、私の目を見つめた。
「もう二度と、危険な目に遭わせない。絶対にだ」
その瞳には、強い決意が宿っていた。
城に戻ると、メイドたちが大騒ぎで迎えてくれた。
「セラ様、ご無事で!」
「怪我はありませんか!」
「魔物に襲われたと聞いて、もう心配で……!」
温かい歓迎に、胸が熱くなる。
「ありがとう、みんな。大丈夫よ」
だが、ユリウス伯爵は険しい表情のままだった。
「森の魔物の調査を進めろ。なぜ群れで現れたのか、理由を突き止めろ」
「承知しました」
騎士が一礼し、去っていく。
伯爵は私の手を取り、部屋へと案内した。
「今日はもう休め。夕食は部屋に運ばせる」
「あの、ユリウス伯爵……」
「なんだ」
「……怒って、ますか?」
彼は動きを止め、私を見つめた。
「怒っているわけではない。ただ——」
伯爵は私の頬に手を添えた。
「お前を失うかもしれないと思うと、冷静ではいられない」
「ユリウス伯爵……」
「もう二度と、危険な目には遭わせない。たとえ魔物が襲ってこようと、敵国が攻めてこようと——」
彼の瞳が、真っ直ぐ私を見つめる。
「お前だけは、絶対に守る」
その言葉に、涙が溢れそうになる。
「……ありがとう、ございます」
「泣くな」
伯爵が優しく私の涙を拭う。
「お前が泣くと、俺はどうしていいかわからなくなる」
「嬉し涙です……」
「なら、いい」
彼は私の額に、そっと唇を寄せた。
その夜、私は一人部屋で考え込んでいた。
魔法が戻ってきた。
それも、以前より強く、安定している。
(どうして……?)
ルミナリアでは燃え尽きて使えなくなったのに、今はこんなにも力が溢れている。
その時、ふと気づいた。
(……あの時と、今と、何が違うんだろう)
ルミナリアでは、義務として魔法を使っていた。
嫌々ながら、強制されて。
でも今は——
(守りたい人がいる)
ユリウス伯爵を守りたい。
シュネーブルクの人々を守りたい。
そう思った時、魔力は自然と溢れてきた。
(そっか……私の魔法は、大切な人を守りたいという気持ちで動くんだ)
だから、義務感だけでは力を発揮できなかった。
でも今は違う。
(私には、守りたいものがある)
その想いを胸に、私は静かに微笑んだ。
翌朝、ユリウス伯爵に呼ばれて執務室に向かった。
「調査の結果が出た」
彼は地図を広げ、森の一角を指差す。
「この辺りで、魔力の乱れが観測されている。おそらく、何者かが意図的に魔物を呼び寄せている」
「誰が……?」
「わからん。だが——」
伯爵は鋭い目で私を見た。
「お前を狙っている可能性が高い」
「私を……?」
「ルミナリアで結界を直したことで、お前の力は証明された。その力を手に入れたい、あるいは排除したいと考える者がいても不思議ではない」
背筋に冷たいものが走る。
「でも、私なんて……」
「謙遜するな。お前は歴史に残る聖女だ。その力を欲する者は多い」
伯爵は地図を閉じ、私の肩に手を置いた。
「だからこそ、俺が守る。何があっても、お前を守り抜く」
その言葉に、胸が熱くなる。
「……はい」
だが、運命は私たちに安息を与えてはくれなかった。
その日の午後、城門に一人の男が現れた。
ルミナリアの紋章を身につけた、若い貴族だった。
「我が名はロベルト・ヴァレンティーノ。ルミナリア王国第二王子の代理人として参った」
彼は傲慢な笑みを浮かべ、私を見た。
「セラ・アッシュタール。貴女には、我が国に戻っていただく」
「……断ります」
私は即座に答えた。
だが、ロベルトは笑みを崩さない。
「断る? それは困りますな。貴女がいなければ、我が国の医療は崩壊する。国民が苦しむのですよ?」
「それは、私の責任ではありません」
「ほう……随分と冷たい聖女ですな」
ロベルトの目が、冷たく光る。
「では、こう言い換えましょう。戻らなければ——力づくでも連れ帰ります」
その瞬間、ユリウス伯爵が前に出た。
「セラに指一本触れてみろ。お前の首が、その場で転がることになる」
空気が凍りつく。
ロベルトは一瞬怯んだが、すぐに笑みを取り戻した。
「これは怖い。しかし——」
彼は後ろを振り返る。
そこには、武装した兵士たちが並んでいた。
「我々は正式な外交使節です。もし危害を加えれば、両国の関係は破綻しますぞ」
ユリウス伯爵の表情が、さらに険しくなる。
「……セラは、俺の婚約者だ。他国に渡すつもりはない」
「婚約? まだ正式な結婚はしていないでしょう。ならば——」
ロベルトが一歩近づく。
その瞬間、私は叫んでいた。
「嫌です! 私は、ユリウス伯爵と結婚します! ルミナリアには、二度と戻りません!」
場が静まり返る。
ユリウス伯爵が、驚いたように私を見た。
「セラ……」
「私の意思です。誰にも、変えられません」
ロベルトは舌打ちし、踵を返した。
「……わかりました。しかし、このままでは済みませんぞ」
彼は不吉な笑みを浮かべ、去っていった。
使節団が去った後、ユリウス伯爵は私の手を取った。
「セラ、本気か?」
「はい」
「後悔しないか?」
「しません。私は——」
私は彼の目を見つめた。
「あなたと一緒にいたい。それが、私の本心です」
伯爵はしばらく私を見つめていたが、やがて優しく微笑んだ。
「……なら、正式に結婚しよう。一刻も早く」
「え……」
「お前を守るには、それが一番確実だ。そして——」
彼は私を抱き寄せた。
「俺も、お前を手放したくない」
その言葉に、胸が高鳴る。
私たちの未来に、新たな試練が待ち受けているのは確かだった。
でも——
(この人と一緒なら、乗り越えられる)
そう信じて、私は彼の胸に顔を埋めた。




